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第2章 死に至る病

「死に至る病」とは何なのか。
「死に至る病」とは、私たちが通常思い浮かべるような末期がんやエイズといった病気のことではなく、死そのものですら「死に至る病」とは何ら関係のないものである。それは私たちの一般的な理解を超えた病である。
しかし、もしそれが想像的な実体のない病でしかないとすれば、アンチ・クリマクスはただ妄想的な「病」について記述しているだけであり、むしろ彼自身がその病に冒されているのではないかと、嘲笑を浴びせられることになってしまうことだろう。
確かに、その病は私たち、特に日本人にとって、非常に分かりにくいものである。なぜならば、この病について記述するアンチ・クリマクスは、「過剰なまでのキリスト者」なのであり、その病はキリスト教的な見方による病なのだから。
さて、前置きはこれぐらいにして、早いところその病と、その患者たちに対する診察を始めるとしよう。
 
1節 絶望は死に至る病である
死に至る病とは、絶望のことである。彼の言う絶望が、私たちが普段口にする絶望と同じものでないことは、もはや言うまでもあるまい。「絶望は精神における病、自己における病」(p.27) [1]であり、それには3つの種類がある。「絶望して、自己をもっていることを自覚していない場合(非本来的な絶望)。絶望して、自己自身であろうと欲しない場合。絶望して、自己自身であろうと欲する場合」(p.27) 3つだが、これについてはまた後で詳しく述べることになる。
 
今重要なのは、絶望の根本概念を正確に理解することである。すなわち絶望が精神、自己における病であると言う場合における、精神、自己といったものが一体何を示すものなのかをまず理解しなければならない。ひとまずアンチ・クリマクスによる定義を見てみるとしよう。
 
「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。」(p.27)
 
『死にいたる病』の第1A.A.は全体を包括する定義が述べられている部分であり、私にとっては最も理解に苦しめられる部分であった。従ってこの部分について、私自身の得た理解をできるだけ平易に、詳しく語っておきたい。
 
まず精神だが、これは人間の肉体と精神(=心)という風に比べられるときの精神、つまり心のようなもののことではない。もっと大きな存在であり、人間を人間とするところのもの、それがあるから私たちが人間として規定されることのできるもの、とでも考えておけばよいだろう。そしてその精神が自己であるという。問題はこの自己である。さすがに「関係」だけで自己を説明するのは困難なので、先の引用の続きを示す。
 
「人間は無限性と有限性との、時間的なものと永遠的なものとの、自由と必然との綜合[2]、要するに、ひとつの綜合である。綜合というのは、二つのもののあいだの関係である。このように考えたのでは、人間はまだ自己ではない。
二つのもののあいだの関係にあっては、その関係自身は消極的統一としての第三者である。そしてそれら二つのものは、その関係に関係するのであり、その関係においてその関係に関係するのである。このようにして、精神活動という規定のもとでは、心と肉体とのあいだの関係は、ひとつの単なる関係でしかない。これに反して、その関係がそれ自身に関係する場合には、この関係は積極的な第三者であって、これが自己なのである。」(pp.2728)
 

この難解な定理を文章だけで解説するのには、明らかに限界がある。よって以下の図を利用する。

 人間、自己、精神
・有限性と無限性
まずは有限性と無限性の自己の間に注目してもらいたい。ここでは仮に、有限性と無限性としたが、実際のところ、これでなくてはいけないということではなく、使い勝手のよさそうなものを選んだだけである。有限性の自己とは、今あるがままの人間であり、目の前のことのみに捕われる人間とする。たとえば、何か食べたいと思えば食べ、遊びたいと思えば遊ぶ、そのような奔放な人間である。無限性の自己とは、想像の世界に生きる人間で、頭の中で生きる人間とする。誰しも想像の世界でならヒーローにでもヒロインにでもなれるし、思弁の世界でなら「真実」をつかむこともできる。経済学を学べば世界の経済がすべて理解できる、そう思い込んで、想像の世界で生きる人間である。
 
・「ひとつの関係」としての自己
私たち人間は、常に有限性と無限性の間を行ったり来たりしているのである。これが最初の、「自己とは、ひとつの関係」という部分に当たる。自己というのは、動的なものであり、常に「二つのもの」の間を動いているのである。この動きまわる自己が「ひとつの関係」なのである。
 
もしこの自由に動く自己を一点に(とど)めるものがなければ、それはその動的な自己という「ひとつの関係」そのものが「消極的統一としての第三者」の役割を担うこととなる。つまり動的な自己が勝手に自己の位置を決めつけ、動き回るのであり、「有限性(の自己」と「無限性の自己」を統一し、自分の位置を決めるのは動的な自己そのものということになるのである。そこでは動的な自己を何らかの意志よって止めようとするものがなく、自己は自由気ままに動き続ける。この意味において、「人間はまだ自己ではない」と言われ、関係が「ひとつの単なる関係でしかない」とされるのである。ここで言われる「自己」は動的な自己とはまた別のものなのだが、それに答えるため、次に「ひとつの関係」たる自己と、「精神=自己」の間を見てもらいたい。動的な自己は二つのものの間をせわしく動いているわけだが、そこでは有限性と無限性という二つのものは、「ひとつの関係」である自己に関わり、「消極的統一」がなされていたのである。「消極的」というのは、ネガティブでよろしくないもの、とでも考えておけばよい。
 
・「精神=自己」としての自己
そこで、積極的な統一を図る第三者というものが現われるのだが、それが「精神=自己」である。精神たる自己は、「二つのもの」の間を動き回る自己を決定する。そしてその「精神=自己」が動的な自己を決定しようとする意志、それが「ひとつの関係」に対して、「その関係それ自身に関係する関係」なのであり、その意志が前の図で「精神=自己」から「ひとつの関係」としての自己へとのびる矢印部分である。まとめると、三角形で囲んだ部分が自己そのものの範囲を示したものであり、水平方向に移動する自己が「ひとつの関係」としての自己、垂直的な関係にある自己が「精神=自己」としての自己ということになる。
 
・自己を措定せしもの
さて、これで自己の定義についてかなりの部分が説明された。しかし、この説明だけでは十分ではない。まだ明らかに問題とすべきところが解明されていないからだ。すなわち、「ひとつの関係」たる自己が自己を決定することと、「精神=自己」が自己に関係し、自己を決定することは一体どう違うのかということである。それについての解明がなければ、この定義は単なる空論に過ぎない。
 
アンチ・クリマクスはこの関係としての自己を措定した存在を考慮する。
「それ[3]自身に関係するそのような関係[4]、すなわち自己は、自分で自己自身を措定したのであるか、それとも或る他者によって措定されてあるのであるか、そのいずれかでなければならない。」(p.28) ここで言う「自分で自己自身を措定した」としたときが、「ひとつの関係」によるスタンドプレイであり、「或る他者によって措定され」たというのが「精神=自己」である。もし自己に対する関係というものが、後者のように、他者によって措定されたものであると考えたならば、その措定された「精神=自己」は全面的に自己を措定してくれているある他者に対して責を負っているのであり、他者もまた自己に対して包括的に関わっていることになる[5]
 
ここでアンチ・クリマクスが他者として想定するのは、絶対的な関係を持つ他者であり、キリスト教的な神に他ならない。神という絶対的で無限の存在であるものに関わる自己として、人間の自己は絶対的に強くなりうるのである[6]。自己を自分で措定したとすれば、それは結局自分止まりでしかなく、時間的で、有限的で、相対的で、そこにある絶望は自己逃避としての絶望以外にありえない。要するに自分の思い描く自己からの逃避であり、幼稚な現実逃避でしかないのである。
 
・絶望という齟齬
以上で、基礎となる自己の定義についての説明を終えたい。ここにきてやっと、絶望という病の病理診断が可能となったのである。
 
絶望という病は自己の関係における「齟齬」である。齟齬とは、不均衡とか、不釣り合いと言っても構わないが、それについては再び前に描いた図をイメージしてもらいたい。人間は有限性と無限性の間を常に動きつつある存在で、さらにその間における、今まさにあるがままの自己を規定するのは、精神としての自己であった。さらにその精神=自己は他者の措定の下にあるのであった。そこで齟齬が起こるというのは、有限性に傾いたり、無限性に傾いたりすることなのであって、そこでは均衡した状態があるべき自己自身として求められているのである。しかし常に揺れ動く自己であるから、それをあるべきところに止めることなどまったくでき得るものではない。絶望者が自分の絶望に気付いたとして、いくらその絶望を根こそぎにしようと努力しても、決してそれは解消されることはない。「絶望の齟齬は単純な齟齬ではなく、それ自身に関係するとともに或る他者によって措定されている関係における齟齬であり」(pp.2930) 人間としての自己だけでは取り除けないのである。考えてもみれば、それは当然のことであろう。いくら自分が自己を意識し、自らのあるべき自己自身を見つめたところで、四六時中その自己を見つめ続けることなど不可能である。寝ても覚めても自己のことしか考えていないなど、まさに人間的狂気であり、そのようなことができるのは、神を措いては悪魔しかありえないのである。
 
しかし絶望というものは、それが精神としての自己が関わっているという点でまた、自分に責任があるのであって、それは外からやってくる災害か何かではない。こうして現れる齟齬、絶望は、一瞬一瞬に私たち自身が呼び寄せてしまっている病なのである。
普通の人間がこの病を自力で取り除くのは不可能なのだが、アンチ・クリマクスはそれが取り除かれた状態についての分析を行っている。
 
「絶望がまったく根こそぎにされた場合の自己の状態を表わす定式は、こうである。自己自身に関係し、自己自身であろうと欲することにおいて、自己は、自己を措定した力のうちに、透明に、根拠をおいている。」(p.30) 自己の絶望を取り除くのは、精神としての自己意識なのだが、それを措定した他者に対しても、絶望の撤去を頼まなければ、自己自身と成りきることができないのである。
 
・弁証法とは何か
以上が絶望に関するまず最初の、基礎概念となる。ここでは簡単に解説するために図を使って、齟齬という表現を有限性と無限性の間の単純な水平移動として示して見せたが、今後もしばしば出てくるであろう有限性と無限性という言葉について、単に水平間のものだけであるとは思いこまないでもらいたい。そこには、人間と神を始めとする様々な垂直関係も含まれているのであり、その時その時に応じて、一つ一つの言葉の意味を捉えなおさなければすぐに混乱してしまう恐れがある。キルケゴールの著作には二義性がある。簡単には、表と裏があるとでも言えようが、それが彼の中ではしきりに弁証法的とか逆説的とか言われるのである。
 
たとえば次の文章を見てみよう。「絶望は長所であろうか、それとも短所であろうか? まったく弁証法的に、絶望はその両方なのである。」(p.30) この部分の「弁証法的」に対して、訳者の桝田啓三郎は次のような注を施している。「相反する、もしくは矛盾する二つのことが同時に一つのものについて言えることを言っている」とする一方で、「ここでは、そういう日常的な意味でなく」(p.272)「まったく弁証法的に」と強調されているように、ただ回っているコマは(回りつつ)動きながら(軸の位置は)止まっているなどと言われるような素朴な意味で、弁証法的だ、と言っているわけではないのである。
 
絶望が長所であり、短所であるという意味を、絶望することが「人間が精神であるという無限の気高さ、崇高さを指し示すもの」(p.30) であり、かつ実際に絶望することは「最大の不幸であり悲惨であるにとどまらない、それどころか、それは破滅なのである」(p.31) という二項対立でのみ見ると、それは「日常的な意味」に過ぎなくなってしまう。ここで「まったく弁証法的」であると言われるのは、まさに弁証法的な契機がそこにあるからなのである。すなわち絶望するということの中に、自己が絶望していないものとしてあり得るという一つの可能性を秘めているのであり、そこにまったく弁証法的なものが見られるのである。
 
この説明で不十分だと思うなら、ヘーゲルの使った弁証法という言葉の意味を思い出してもらいたい。キルケゴールは彼の考え方に対して、非常に強い反感を覚えていたが、その一方で、ヘーゲルの用語をまるで当てつけのように多用している。そこでヘーゲルの弁証法について、愛をテーマに簡単に述べておく[7]
 
人間はみな愛を持っている。しかし「わたし」の持つ愛と、他の人が持つ愛はまったく同じ愛ではない。愛にはたくさんの種類がある。そこにおいて「わたし」は自分の愛が個別的で、多様な愛の中のたった一つでしかないことを悟る。しかしまた、この多様性の全体の中に「わたし」というものを見出そうとする。そこで「わたし」は、愛の形はそれぞれ違うけれど、愛というものがすべての生命を包括していることに、愛がただ個別的なものの集合ではないということに気づく。これが愛に関する「未発展な合一」(=人間はみな愛を持っている)→「分離」(=しかし「わたし」の愛は個別的)→「完成された合一」(=愛は単なる個別的なものの集合ではありえない)という弁証法である。
 
ヘーゲルの弁証法は全体を重んじ、さらにそれは彼にとって上昇していく思考である。キルケゴールもまたその弁証法的なものを取り入れ、そこに上昇の思想を含めたのである。ここにおいて、先に述べた絶望の長所と短所に関する考察の意味が理解できる。つまり絶望は人間にしかできないという点で無限的な長所だが、実際に自分に起こるものとしては破滅的短所である。だがそこに絶望から逃れる可能性を見出すことで、やはり無限的な善さを持つ長所となりうるのである。さらにこれは若干、結論の先取りとなるが、絶望を克服する可能性というものは、人間の中だけにあるのでなく、信仰という理性を超えたところにある。この点において、キルケゴールの弁証法は質的な飛躍による弁証法と言われ、ヘーゲルの思弁的な弁証法を量的なものとし、排斥するのである[8]
 
・絶望は死に至る病である
ここまで、自己や絶望について基礎となる定義を示してきたが、非常に難解な内容であっただろう。アンチ・クリマクスは「死に至る病」についてなかなか抒情的に描いているので、一休みがてらそちらを見てみることにしよう。
本章の冒頭で述べたように、死に至る病というのは、私たちが普通にイメージするような病気のことではなく、あくまでキリスト教的なものである。そもそも「キリスト教的な意味では、死はそれ自身、生への移り行きなのである」(p.35) と言われるように、また我が国に馴染みのある仏教でも輪廻転生といった思想が存在するように、宗教的な世界において、肉体の死というものは終わりでありながら、始まりであるというような思想は多く残されている。それはいくら無信教を自認する者であっても、知識としてぐらいは得ているだろう。
 
では、彼の言う「死に至る病」とは、一体何だというのだろう。その謎の解明は本人の記述に頼るのが一番手っ取り早い。「もしもっとも厳密な意味で死にいたる病ということを言おうと思うなら、それは、終局的なものが死であり、死が終局的なものであるような場合の病のことでなければならない。そして、この病こそ、まさに絶望なのである。」(p.36) 「死が終局的なものである」とは、死のあとには、「何もない」、ということである。その先に一切は存在しないのである。しかしである、彼はこうも言う。「けれども、絶望は、また別の意味で、なおいっそう明確に、死にいたる病なのである。すなわち、文字どおりの意味で、この病のために死ぬとか、この病が肉体的な死をもって終わるとかということは、とうていありえないのである。むしろ逆に、絶望の苦悩は、まさに、死ぬことができないということなのである。」(p.36) 絶望は死に至る病だが、絶望で死ぬことはあり得ない、果たしてこの矛盾をどう理解すべきであろうか。ここは落ち着いてさらに著者の述べるところを見てみるべきであろう。「絶望は死にいたる病である、永遠に死ぬという、死にながらしかも死なないという、死を死ぬというこの苦悩に満ちた矛盾であり、自己における病」(p.36) ということだが、要するに、絶望者は常に死の苦痛を体験しているのである。彼は生きながらにして死んでいる。それはつまり、自分がもはや生きることへの希望が持てない状態でありながら、さらには死という終焉にすら至ることのできないという自己の無力である。人間は、死を恐れはするが、一度起こってしまえば、それで終わりである。何度も死を経験するためには、何度も生き返らなければなるまいが、そんなことは不可能である。しかしこう表現すると、ギリシャ神話におけるプロメテウスの苦難[9]を思い起こさずにはおれないではないか。何ゆえに人間がそのような苦痛を浴びせられねばならぬと言うのか。
 
そのことが本当に人間にとってそれほどの苦痛となるかどうかは、それぞれの判断に任せるとして、絶望するということは自己において齟齬が生じることであった。そして有限なる自己は必ず齟齬を生じさせざるを得ないのであり、またそれは精神たる自己、ひいてはそれを措定した他者に対して関係しているのであった。そうであるから、有限な自己が独りで絶望したとして、その自己などというものを全否定しようとも、いやしようと望んだとしても、それは無限の力を持つ精神たる自己、絶対的他者に関わることでもある以上、まったく不可能なことなのである。ここで絶望者は絶望しているはずなのに、完全に絶望しきれないという死にたくなるようなジレンマに襲われるのである。
これでお分かりいただけたことだろう。いかにして絶望が「死に至る病」であり、「死ぬことができない」と言われ得るかを。
 
・この病(絶望)の普遍性
絶望というのはげに恐ろしげなものとしてあるようだが、アンチ・クリマクスはこの病をすべての人間が持っていると言うのである。「医者なら、完全に健康な人間などというものはおそらく一人もいはしないと言うであろうが、同じように、人間というものをほんとうに知っている人なら、少しも絶望していないという人間など、その内心に動揺、軋轢、不調和、不安といったものを宿していない人間など、一人もいないと言うにちがいあるまい。」(p.44) なるほど、確かに多くの人間は内心に何かしらの悩みや不安を抱えているものである。とすれば、人がそのような悩みも不安も持っていないとき、その時、人は絶望していないと言えるのであろうか。否、「人が真に絶望していないということが稀なこと、きわめて稀なこと」なのであって、ある人が、自分は悩みも不安も持ってなどいないと言ったとしても、絶望診断家はそれを信用しない。医者が「完全に健康な人間などというものはおそらく一人もいはしない」(p.44) と言うのと同様に、彼もまた、「少しも絶望していないという人間など、一人もいない」と言うのである。
 
このような言い方については、彼自身、弁解がましいことを言っている。「こういう考え方をすると、きっと多くのひとには、逆説を弄しているとか、誇張しているとか、そればかりか、陰気な、人の気をめいらせるような見方をしているとかと、思われるかもしれない。」(p.45) しかしそうではないのである。先の弁証法の説明の折に、絶望は長所でもあるとされたように、これは「人の気を引き立たせるもの」(p.45) なのである。
さて、唐突に思われるかもしれないが、本節はここまでとさせてもらう。今疑問として残るのは、あらゆる人が絶望しているということ、絶望は長所でありうるということ、この2つだろう。この疑問は後の節の中で晴らしていくことにする。
 
2節 絶望の諸相
本節では、前節冒頭に触れた絶望の3種類、「絶望して、自己をもっていることを自覚していない場合(非本来的な絶望)。絶望して、自己自身であろうと欲しない場合。絶望して、自己自身であろうと欲する場合」をそれぞれ取り扱う。この3つの絶望は意識の問題なのだが、この問題に取り掛かる前に、少しだけ可能性と必然性について触れておく。
 
・可能性と必然性
自己には「無限性と有限性」というものがあったが、「可能性と必然性もまた属している」(p.69) と言われる。それではここで言う「可能性と必然性」とは一体何だろうか。それには次の引用で答えよう。「可能性に対してこれに対抗するものは必然性である。自己が有限性と無限性との綜合として措定せられ、いまから生成しようとして、可能的に存在する場合、自己は空想を媒体としてみずからを反省するが、それによって、無限の可能性が表われてくる。自己は、可能態トシテ[10]、必然的であると同様に可能的なものである。なぜかというに、自己はむろん自己自身であるが、しかしまた、自己自身となるべきものでもあるからである。自己が自己自身であるかぎり、自己は必然的なものであり、自己が自己自身になるべきものであるかぎり、自己は可能性である。」(p.69) この文章から、まず可能性と必然性が対比されていることが分かる。可能的なものが「空想を媒体」に「反省」するというのは、簡単に言えば、これも想像的な世界に嵌ることである。「自分もこうすれば、あんなふうになることが可能なんだけどなあ」といった風な考え方をして、現実の自分から逃避するというのは、多くの人に覚えのあるところではないだろうか。人間の自己はこのように可能的な段階に止まっているのであり、必然的な自己、「あるべきところの自己」としてあろうとしないことで、絶望するのである。可能的と言われるのは、これが「ありうるところの自己」[11]と言い直せるように、「あるべきところの自己」になれる可能性がそこに包含されているからである。この場合の絶望の取り除かれた状態はこうである。「現実性が可能性と必然性との統一なのである。」(p.71) 「ありうるところの自己」と「あるべきところの自己」が一致することで、人間は現実性を持つことができる。この現実性を獲得することが「実存」なのである。
 
・意識という規定のもとに見られた絶望
「意識の度が上昇すると、あるいは、意識が上昇するに比例して、絶望の強度も絶えず上昇する、意識が増せば増すほど、それだけ絶望の度も強くなるのである」(p.81) ということで、これから3種類の絶望について見ていくが、順当に意識の度が弱い順に見ていく。
 
・絶望や永遠な自己に対するどうしようもないほどの無知
最初に紹介するのは、絶望をほとんど意識していない形態である。そういう人たちは、「誤謬のうちにある」(p.82) のであり、「一般の人々にあっては、たいていの場合、感情的なもののほうが彼らの知性よりもはるかに優位を占めている」(p.82) とされる。彼らは、「真理の光に照らしてみれば実は不幸であるはずなのに、誤って幸福だと思い、幸福なつもりでいるような人」(p.82) で、もし彼らの誤謬を正そうとする人などが現れでもすれば、「腹を立て、そういうことをする者を、いちばんうらめしい敵と見なし、そういう仕打ちを不意打ちと見なし、人の幸福を殺すということが言われるような意味で、一種の殺人に近いものと見なすのである。」(p.82) アンチ・クリマクスの表現はさすがと言うべきだが、私も彼にならってまとめてみるとしよう。絶望を意識していない人というのは、さながら幻想のお花畑でうとうとと眠りに落ちているようなもので、彼を目覚めさせ、そこから出そうとする人などは、重機で彼の楽園を踏みにじろうとする悪徳土地開発業者なのである。
 
これだけ描けば絶望に無意識な人が、いかにひどく誤謬の中に堕ちてしまっているかが分かるだろう。しかし何の根拠もなしに、ただこのようなたとえ話を使ってこき下ろしただけでは、まったく安直で卑劣なやり方であるとして非難の対象になりかねない。よってその内容をきちんと吟味していかなければならない。
 
具体的に、絶望に無知であるとはどういうことなのか。人間は「神の前で[12]自分を精神として人格的に意識」(p.88) していなければならないのに、「感性的なものおよび感性的=心霊的なものが彼をすっかり支配しているところからくるのである。彼が、快および不快という感性的なものの範疇のうちに生きており、精神とか真理とかいったものを少しも気にしないことからくるのである。」(p.83) 絶望に無知なものは、感性的な生き方をしている。彼には「倫理的=宗教的な規定」(p.88) という意味での倫理感もないのであり、ただ「漠然と何か抽象的普遍的なもの(国家、国民など)のなかに安住したり溶け込んでいたり」(p.88) するのである。
自分の絶望に気づいていないということは、「精神が真に何であるかということは、美的には規定されないのであるから、美的なものにとってはまったく存在しないような問題」(p.87) とされるように、彼自身が美的な状態にあることを証明してしまっているのである。キルケゴールには審美、倫理、宗教という有名な3段階(領域)論[13]があるが、ややこしくなるだけなので、今回はそちらに深く踏み込むようなことはしない。
 
「美的な」というのは、酒に女に詩に文学に等々、諸々の俗世間的なものに酔うことであるが、「詩的なものを愛し、気ままに生きる(詩人)」と捉えたほうが、理解しやすい場面も多い。抽象概念に身を属させ、自分が本当に考えるべきことを考えず、日々のことだけに心を砕く放蕩人間である。生きる目的が娯楽であるというような人間は、絶望しているのである。そしてこの絶望分析を「キリスト教界内の異教徒はもっとも厳密な意味で無精神性なのである」(p.90) と、当時のデンマークキリスト教界の欺瞞を告発、もしくは警告しているともとれるような句で終えているところに、アンチ・クリマクス=キルケゴールの心情が窺える。
 
・絶望し、自己自身になろうとしない、弱さの絶望
次は、絶望して自己自身になろうとしない形態だが、「この形態の絶望は、絶望して自己自身であろうと欲しないこと、あるいはもっと低い場合は、絶望して一個の自己であろうと欲しないことである、あるいはもっとも低い場合は、絶望して自己自身とは別のものであろうと欲すること、新しい自己たろうと願うことである。」(p.101) まずは低いと言われる場合について述べる。
 
たとえば、今の自分に嫌気がさし、他の誰かになりたいと思ったことはないだろうか。自分がイチローみたいな一流のスポーツプレイヤーだったら、浜崎あゆみのようなトップアーティストだったら、そのようなささやかな夢にも似た思いを抱くことがある人もいるだろう。ここで、「もっとも低い」自己は、自分を着せ替えることで、本当にイチロー自身になれると思い込み、「低い」自己は、そのような偉大な人たちにあこがれて、なぜ自分はそうでないのかと、自分を嫌になるのである。このような人は、著しく「直接的」である。自己についての意識は低く、地上的な幸不幸に捕われすぎている。そしてそれは「低い」と言われる意味ではなく、「絶望して自己自身であろうと欲しない人」も同様である。彼もまた自己について絶望しているが、それは何かに生まれ変わることで解消されるといった甘い考えであるわけではない。彼は精神を措定している他者から求められている自己自身に対して、意識している。しかし、彼はそれになることができない。なぜか、あまりに要求が高すぎるからである。その求められる自己自身というのは、人間的観点から言えば、狂気の沙汰であり、到底「まとも」と言われる人間には実現可能なものと思われない[14]。「彼の想像力は、表われでもしたら直接性との絶縁となるような可能性を、発見」(p.104) し、「彼の突き当たった困難は全直接性との絶縁を要求する」(p.105) のである。つまりどういうことかと言えば、彼はその求められる自己自身になることで、すべてを失わなければならなくなるであろうことに気づくのである。キルケゴール自身、彼は生涯で、結婚もせず、就職もせず、孤独に過ごしていた。そのように、彼は自らの持ち得るこの世的な幸福を捨て去ることになるであろうと、考えてしまうのである。ここに彼は、「自分が地上的なものにそれほど思いわずらうのが弱さであり、絶望することが弱さであることを、みずから理解」(p.117) し、絶望するのである。
 
・絶望し、自己自身であろうとする、強さの絶望
絶望の3形態最終段階は、強さの絶望、「反抗」である。やはり最初は本人の言葉でその概要を語ってもらうのがよいだろう。以下に語るのは、自分の自己の弱さに絶望する人間からの続きである。
 
「このような絶望者が、なぜ自分は自己自身であろうと欲しないのかというその理由を意識するにいたるならば、事態は逆転して、反抗が表われる、というのは、このときこそ絶望者が絶望して自己自身であろうと欲するのだからである。……これはもともと永遠なものの力による絶望であり、絶望して自己自身であろうと欲して、自己のうちにある永遠なものを絶望的に濫用することである。しかし、反抗が永遠なものの力による絶望であればこそ、反抗は或る意味で真理のすぐ近くにあるのであるが、しかしまた、真理のすぐ近くにあるからこそ、反抗は真理から無限に遠く隔たっているのである。」(pp.126127)
 
弱さの絶望で、彼は「永遠なもの」、求められる自己自身に対して絶望していたが、強さを持った絶望はそんなものに絶望しない。彼は異常なまでに「強い」。彼は永遠なものを知っている。そして彼は、「自己を、自己を措定した力に対するあらゆる関係から引き離そうとしたり、」(p.128) 「自己は自分を支配する力を認めない、」(p.129) さらに、「救済の可能性を期待すること、とりわけ、神にとっては一切が可能であるという背理なものの力によってそれを期待すること、これは断じて彼の欲しないところ」(p.133) であり、「一切が可能な『救済者』の手の中で無に等しいものとなり、あるいは、他人の前にひたすら身を屈し、救いを求める以上は自己自身であることを断念しなければならないというのは、これは屈辱」(pp.134135) なのである。
 
一気に引用してしまったが、これこそ絶望の最終形態のすべてである。しかしどうだろう、これはまるで無神論者に対して言われているかのようである。この絶望者は、「あるべきところの自己」について意識しているが、それが他者(=神)によって決められていることにまったく納得できない。だから、彼はその「あるべきところの自己」というものを、自分の自己が措定するものと見なそうとしているのである。しかしこの試みに、一体どのような価値があると言えるだろう。自己が理想的な自己を措定し、自己がその段階に至っていると見なすなど、あまりに馬鹿馬鹿しく、子供のお遊戯のようではないだろうか。彼はそうすることによって、一体何を手にするというのか。「……自己は自己自身を見ることによって自己自身より以上のものを自己自身に与えることはとうていできはしないからである。自己は始めから終わりまでどこまでも自己なのであって、自己を二重化してみたところで、自己より以上にも以下にもなりはしない。この意味において、この自己は、自己自身であろうと欲する絶望的な努力をしながら、かえって正反対のものに向かって努力している」(p.130) のであって、いくら彼が自己に自己を重ねてみたところで、それは「単なる」自己でしかない。永遠なものに手を伸ばせば伸ばすほど、彼は永遠なものから遠ざかっていくのである。彼の絶望は、自己を措定した者に対する「反抗」であり、その力への「挑戦」である。
 
・女性の絶望と男性の絶望
これで3種類の絶望形態については、おおかた記述し終えたわけだが、もうひとつだけ、最後にジェンダーの問題に触れておきたい。ここまで触れてこなかったが、アンチ・クリマクスは弱い絶望を女性の絶望、強い絶望を男性の絶望としている。彼は強い絶望について解く前に、「男性こそが精神の規定に属しているのであって、これに対して女性は一段と低い綜合なのである」(p.126) と述べている。これだけ見ると、女性方は彼が女性差別主義者であるようで、不快な思いをされるかもしれない。私に、彼に女性蔑視のきらいがなかったと断定できるわけではないが、もう少し彼の考えを明らかにしてから、その先の判断を行ってもらうことにしよう。
 
先の文言は、強い絶望に入るところで言われたものだが、それよりもっと前に、弱い絶望に入ったところで、具体的な言及がなされていた。
「……けれどもわたしは、男性的な絶望の諸形態が女性のもとにおいても見られうるし、逆にまた、女性的な絶望の諸形態が男性のもとにおいても見られうることを、けっして否定しようとするものではない。しかしそれは例外なのである。いうまでもないことであるが、典型的なものは事実ごく稀にしか存在しないし、男性の絶望と女性の絶望とのあいだのこの区別にしても、それが完全に真理だと言えるのは純粋に典型的な場合だけである。女性は、男性に比べてどれほど多くやさしくこまかい感情をもっていようとも、利己的に発達した自己の観念も、決定的な意味での知性も持ってはいない。むしろ、女性の本質は従順、献身であり、もし女性が献身的でないなら、それは非女性的なのである。」(p.95) まず確認すべきは、男性が男性的な絶望をし、女性が女性的な絶望を「典型的」に行うことは、「ごく稀」と言われていることである。彼は社会一般的な見方で、この分析を行っているわけではなく、本質論を語っている。彼が言うに、女性の本質は「献身」であり、男性の本質は「利己(傲慢)」である。男性は献身を持つべきでないとも言わない。それどころか、「献身しないような男性はくだらぬ男である」(p.96) とすら言い放っている。しかし彼の考えの根底には、このような本質論があるので、「神との関係においては、男と女といったような区別は消滅するが、そこでは、献身が自己であること、また献身によって自己が獲得されるということが、男性にも女性にも当てはまる。実際には、多くの場合、女性はただ男性を通じてのみ神に関係するのではあるが、そのことは男性にも女性にも同じように当てはまる」(p.97) と言われる。これでは女性の方が、男性なしには自己を獲得することができないと言うようで、女性を低く見ている風に思える。
 
少々私的な見解だが、彼にとって、本質的な女性は「献身」なので、そのような女性は、自己に対する欲求が薄いように思われるのではないか。一方、男性は利己的なので、自己に対する欲求もまた大きなものに思えた。その意味で、女性は男性を通してしか自己を獲得できないと言われるのではないか。もっとも、そう言ったからといって、女性が男性を経由しなければならないというのは、いくらかの女性にとっては、屈辱的なことだろう。それに関しては、私からは何と言うつもりもない。彼は、男性と女性との本質の違いに着目し、男性と女性を区別した。それがどう思えるかは、読み手の考え方次第である。私は、これで十分、本書におけるアンチ・クリマクスの男女観については述べたつもりである。この上で、どう判断されようと、そこから先は私の立ち入るところではない[15]
 
3節 絶望は罪である
罪とは、「神の前で、あるいは神の観念をいだきながら、絶望して自己自身であろうと欲しないこと、もしくは、絶望して自己自身であろうと欲することである。」(全文強調分、p.143) 要するに、罪は一つの「反抗」であって、絶望しているということである。
本節では、『死に至る病』のメインテーマである「罪と絶望、罪と信仰」の関係を明らかにしていく。『死に至る病』では絶望分析のために大きく紙幅が割かれているが、それは「罪と信仰」について述べる前段階として置かれているのであり、アンチ・クリマクスの目的は、この病をキリスト教的に分析し、キリスト教的な治療法を伝えることなのである[16]。従って、本節はこれまで以上に、キリスト教的、神的なものへの言及が多くなることであろうことを、先に述べておく。
 
・詩人(作家)の絶望、もしくは罪
罪について、アンチ・クリマクスは詩人への言及から始める。それは、前に出てきた美的なもののみに傾倒する想像的な作家のことではなく、「宗教的なものの方向を目指す詩人」(p.143) である。なぜここから始めるかと言えば、そのような人間の生き方が、先の人間的な絶望の段階から、これから述べる神的な絶望の段階へと移行する上でのかけ橋となるからである。それはちょうど人間的なものと、神的なものとの間にある。
 
彼は神の観念を持っている。「この詩人の宗教的なものの描写には、既婚者や聖職者の描写には見られない魅力があり、抒情詩的な感動がある。彼の語るところも虚偽ではない、けっして虚偽ではない、」(pp.145,146) にもかかわらず、「詩人の生き方はいずれも罪」(p.144) なのである。それは一体どのような罪か。「存在するかわりに詩作し、空想によって善と真とにかかわるばかりで、善や真であろうとしない、すなわち、生き方として善や真であろうと努力しない、という罪なのである。」(p.144)
 
彼はこの世で何よりも神を愛しているが、その自己は苦悩のうちに生きている。彼はこの世において、永遠的な幸福がもたらされると、完全に信じ切れていないのである。彼の苦悩にとって、神は唯一の慰めであるが、神によってその苦悩がさっぱり拭い去られるとまでは、信じることができないのである。彼はただただ苦悩に絶望するのみである。彼の中には、背理な力、この世ならざる力が宿っていると感じている。しかし彼はそこに思い悩むのである。彼はその力によって、何か普通ではないことを求められている、何か使命を帯びた存在なのではないかと[17]
 
・自己意識としての罪
それではいよいよ本格的に罪というものを考えていくとしよう。まず先に、意識の度が上昇すると、絶望(=罪)の強さも増すと言われたが、その理由について、神観念をもとに解いてゆく。
アンチ・クリマクスは、「自己が現に神の前にあることを意識するにいたるならば、神を尺度とする人間的な自己となるならば、自己は、なんという無限な実在性を獲得することであろう!」(p.147) と、神による自己を称揚する。犬、猫、奴隷などに面して自己であると言ったとしても、それは何の価値も持たない。自己は神の前にあるからこそ絶大な価値を持ち得るのである。しかしこれは、逆に考えると、自己は神の前にあるからこそ、罪というものが余計に罪深くなるとも言える。そしてこれは、現実においても実際に言われることである。「法律家でさえ情状加重犯ということを問題にするではないか、法律家でさえ、或る犯罪が、たとえば、官吏に対してなされたものであるか、私人に対してなされたものであるかを区別し、刑罰を加えるのにも、父親殺しと普通の殺人とのあいだに区別を立てるではないか。」(p.149)
 
このように、神に対する罪もまた、同様に「情状加重」が行われるのである。しかも自己が神観念を持ち、神が自己であるようにと求めているにもかかわらず、そうあろうとしないというのは、まったく罪深いことである。自己は、自己を意識し、神観念を増せば増すほど、自己を無限に強くする可能性を得られるが、それと同時に、自己が本当に自己にならない限り、無限に深い罪の淵に沈むこととなる。
 
「罪とは、神の前で絶望して自己自身であろうと欲しないこと、あるいは、神の前で絶望して自己自身であろうと欲すること、」(p.151) である。しかしこれはあまりに精神的で観念的、非現実的な話ではないだろうか。自己であるか、ないかなど、その人の気持ちの問題であって、罪などと大げさに過ぎはしないだろうか。これに対し、アンチ・クリマクスは次のように反論する。「それなら、いったいなぜ、あの定義が精神的にすぎるというのであろうか? この定義が、殺人、盗み、姦淫などを問題にしていないからなのであろうか? しかし、この定義はそれらのことをも問題にしているのではあるまいか? それらもまた、神にさからう我意、神の命令に反抗する不従順ではないか?」(p.151) 私たちは通常、罪と言えば「殺人、盗み、姦淫」といったことを問題にする。しかしこれらもまた精神的な規定に属すのである。殺人は人を殺そうと思って殺し、盗みは何か盗もうと思って盗む。姦淫も不倫しようと思ってするのであり、そう考えれば、自己であろうとしないこともまた罪であるということが、精神的にどうとか言われる道理はないことが分かるだろう。
 
自己であるか、ないかを精神的に過ぎると言うのは、神を侮った発言なのである。神にはいかなるものも見えている。「殺人、盗み、姦淫」は人間の目にも見えるから、罪として捉えやすいが、自己であるかどうかは、人間の目に判断がつきにくい。よって罪にあらず、とするのは、まったく人間的な感覚でしかものを捉えておらず、神を人間的な尺度で測ろうとする「傲慢不遜な」態度とされるのである。
 
こうして先に述べた罪の定義は正当性を与えられる。この定義が一切の罪を包み込むとすれば、その反対を考えた場合、おのずと信仰の定義が現れる。「信仰とは、自己が、自己自身であり、また自己自身であろうと欲するに当たって、神のうちに透明に基礎をおいている、ということである。」(p.153) 罪が神に対する「反抗」に他ならないとすれば、その反対は信仰しかない。神のうちに自己の基礎を置こうと欲し、信仰すること、これが「キリスト教全体にとってもっとも決定的な規定の一つなのである。」(p.153)
 
・罪の積極性
それでは信仰とは具体的にどういったものなのか、そちらについて述べたいところだが、引き続き、罪を取り上げる。信仰は最後まで置いておくことにしよう。
アンチ・クリマクスは「罪は消極的なものではなく、積極的なものである」(p.179) と言うが、彼は当時のデンマークキリスト教界において、罪が概念的に把握されていると考えていた。「いわゆる思弁的教義学は、もちろん哲学といかがわしい関係を結んでのことであるが、奇妙な誤解をして、罪は積極的なものであるというこの規定を概念的に把握することができるものと考えて」(p.180) おり、「罪が単に消極的なものであるというのは汎神論であり、合理主義であり、その他何かしらである」(p.180) としていたが、彼はこれを「積極的なものが概念的に把握されうるかぎりにおいて」(p.180) 積極的[18]であると見なす。
 
罪が積極的なものであるということは、皆の共通認識としてあるようだが、もしそれが概念的に把握されるのならば、そのとき、その罪の積極性を概念的に考える人間のほうが、積極的に措定される罪そのものよりも、常に上に存在することになる。積極的なものであるはずの罪を、理性で考える人間は、罪というものを概念的な枠の中に押し込めてしまっているのであり、罪の積極性を相対的に消極化してしまっている。罪よりもむしろ、それを考える人間の方がより積極的なものとして成り上がってしまうという、宗教的な絶対性の定義を吹き飛ばしてしまうかのような、なんとも笑うべき冗談のような矛盾に陥ってしまっているのである。
 
・罪の積極性―罪のソクラテス的定義―
「罪とは、神からの啓示によって、罪がなんであるかが解き明かされたのちに、神の前に絶望して自己自身であろうと欲しないこと、あるいは、絶望して自己自身であろうと欲することである。」(p.178)
 
ソクラテスは、罪を無知であるとした[19]。しかしこれは罪を消極的なものとして捉えてしまっている。ソクラテスの罪理解には、人の意志や反抗への規定が欠けていた。「人がそれと知りながら善をなすことを怠ったり、それと知りながら、正しいことについての知識をもちながら、不正なことをなしたりしうるということを理解するにしては、ギリシア的な知性は、あまりに幸福であり、あまりに素朴であり、……あまりに罪深かったのである。」(pp.166167)
 
ソクラテスは、いや「ギリシア的な知性」全体がそのことに対して、あまりに無関心に過ぎた。彼らにとって、真とか善といったものは、世にも美しいものであり、それを知っていながら、それをなさないなどということは、到底考えられないことだったのである。
 
しかしキリスト教的なものは、罪が無知であるというような、素朴で単純な考えを持つことができない。罪とは「反抗」なのである。罪において、認識と意志は必ずしも一致しない。「人間が正しいことを認識したその同じ瞬間にそれを実行しない」(p.174) など、私たちの日常においてもよく見られる光景ではないだろうか。今自分の目の前にやらなければならない仕事が置かれている。もちろん、認識はそれをすぐにやるべきだとサインを送ってきている。だが意志のほうはどうか。保留するのである。「つまり、明日までまあ成り行きを見ていよう」(p.174) と言い、そんなことをしているうちに、「認識はだんだんと曇りを帯びて」(p.174) ゆく。物事の引き延ばしが、意志の得意技なのである。そうして伸ばされているうちに、曇りきった認識がいつの間にか意志と同レベルまで落ち込んでしまい、認識と意志とが互いに手を結ぶに至る。ここにおいて、私たちの意志は勝利する。仕事などしなくてもいいのだ、そんなものは放っておけ、何とかなる、という認識を勝ち取るが、これは一時的な勝利に過ぎない。間もなく彼は、すぐにやらなかったことを後悔するに違いないのだから。
 
「純粋な観念の世界では、思惟することから存在することへの移行」(pp.174175) が容易に行われる。頭の中ではどうとでもなるのである。しかし実際には、今見てきたように、認識から行為へ向かうのには、意志による涙ぐましいまでの抵抗があり、善というものは、「それが認識されたとき即座に、おこなわれねばならないもの」(p.174) なのである。
 
・罪の積極性―まとめらしく―
罪は、積極的なものである。絶望もまた「自己意識の度が強まること」「受動的な悩みから意識的な行動にまでその度が強まること」「外からくるのではなく、内からくるものであること」(p.185) から、積極的なものである。絶望の段階は、意識の上昇の段階であり、積極性の段階でもあった。罪の積極性は、絶望とはまた違った意味で、「つまずきの可能性」(p.185) を含んでいる。「まずキリスト教が出てきて、人間の悟性ではけっして概念的に把握できないほどしっかりと罪を積極的なものとして措定する、それから、その同じキリスト教が、人間の悟性ではけっして概念的に把握できないような仕方で、この積極的なものを取り除くことを引き受けるのである。」(p.185) 罪のマッチポンプのようにも思えるが、それは措いて、罪は積極的なものとして置かれている。それは個人の主体性によって、自らの意志で乗り越えられるべきものである。しかし、ただ単に自己「でしかない」もののみの力によっては不可能である。それはまた信仰によって、背理なものの力を借りて、乗り越えられるべきものなのである。
 
・つまずきと信仰
さて、そろそろ信仰について明らかにするとしよう。ただそれにはまず「つまずき」について述べておく必要がある。信じがたいことかもしれないが、自己自身にならないことが罪である以上、「悔い改められない罪は、そのおのおのが新しい罪であり、罪が悔い改められずにいる瞬間瞬間が、新しい罪である。」(p.194) 罪人たる人間は、寝ても覚めても、年がら年中、1秒ごと、瞬間ごとに、おまえは罪深いなどと宣告されているもののようだ。信仰を持たない人には、何を馬鹿げたことをと思われるだろうが、それこそ「つまずき」なのである。神は人間を救うと言っている。しかし人間はそれを信じることができない。あまりに突拍子もないことに、人はつまずいてしまう。自分に理解できないことは信じることもできないというつまずきである。
 
たとえばある日、玄関に皇居から来ましたとかいう黒のスーツにサングラスをかけた男が現れたとして、彼があなたに、天皇があなたに会いたがっているので、ぜひお越しくださいなどと言ってきたとする。その男が本当に皇室関係者かどうかも分からない。はたしてあなたは彼の言葉を信じることができるだろうか。もしあなたが北海道あたりに住んでいたとして、直接確かめに行こうと思えるだろうか。ここではすべてがその人間の信仰にかかっている。「それをあえて信ずるだけの謙虚な勇気を(というのは、厚顔な勇気などというものは信仰の助けにはなりえないからである)彼がもっているかどうかに一切が委ねられていると仮定してみると、」(pp.157158) そのような人間が一体どれほどいるだろうか。
 
キリスト教もこれと同じである。キリスト教は教える、信じる者ならば、あらゆる人間を救うと。それだけでなく、人間のために、神がわざわざ人の体をもってこの世において、人の子として生まれ、苦難の人生を送り、死んでいったのである[20]。「そしてこの受難の神が、この神が、この人間に向かって、どうか救助の申し出を受け入れてくれるようにと、ほとんど乞いかつ嘆願していられるのである。……あえてそれを信じるだけの謙虚な勇気をもたない者は、誰でもそれにつまずくのである。」(pp.158159)
アンチ・クリマクスはつまずきを次のように表現している。「つまずきとは不幸な驚嘆である。」(p.159)
 
・罪と赦しとつまずき―私は罪人である/私は罪人ではない―
引き続き、つまずきについて見ていくが、ここでは2つのつまずきを考察することにする。このつまずきは、絶望の定義とほとんど変わりない。神が人間の罪を赦そうと言うわけだが、つまずく人間はその言葉に絶望しているのである。「すなわち、それは、つまずいて信じるだけの勇気のない弱さの絶望か、つまずいて信じようとは欲しない反抗の絶望かのいずれかである。」(p.210) ただ、ここでは弱さと反抗とが、先の絶望の場合とは逆になる。
 
先に見た絶望では、「絶望して自己自身であろうと欲すること」が強さ=反抗の絶望であるとされたが、ここではそれが、「絶望して自己自身、つまり罪人であろうと欲し、したがって、罪の赦しなどありえないと考える」(p.210) 弱さの絶望となる。彼は神からの罪の赦しという申し出に対して、「いや、罪の赦しなどというものはありはしない、そんなことは不可能なことだ」(p.211) と言ってつまずいてしまうのである。彼はキリスト教を尊敬し、自分にとってなくてはならないものと意識しているが、そこで足踏みをして止まっている。
 
次に、「絶望して自己自身であろうと欲しないこと」は先の場合、弱さの絶望とされたが、これが今、「人間が現にそうである自己自身、つまり罪人であろうと欲しないで、それがために、罪の許しを不必要なものにしようとする」(p.210) 強さ=反抗の絶望となる。彼は、「キリスト教を虚偽であり嘘であると説き、」(p.242) 地上に降りたイエス・キリストなどという人物についても、まったく認めはしない。彼は罪や神などというものに強さを認めず、自らの強さに頼り、そのようなものに対する攻勢を強めていくのである。
ずいぶんややこしくなってきたので、絶望の図のまとめを置いて、終わる。

絶望、罪、まとめ

・信仰―信じる者は救われる―
つまずく者はいずれも絶望しており、罪である。罪は信仰と対立する。では、信仰とは何か。それはキリスト教とは何か、と言うのと同じである。「キリスト教は、天と地が探し出すことのできる一切のつまずきの可能性を一点に集中する……これがキリスト教なのである。かくしてキリスト教は、めいめいの単独者に向かって言う、なんじ信ずべし、すなわち、なんじはつまずくか、それとも信ずるか、いずれかをすべきである、と。」(p.226) では、何を信じればいい。イエス・キリストが人の体をとって地上に降りてきたこと、「神はみずからを賤しい者となし、下僕の姿をとり、苦しみを受け、人間のために死ぬことができる」(pp.232,233) ということ、そして実際にそうしたということ、さらに、「神にとっては一切が可能である」(p.133) ということ、これらを信じればよい。ただこれだけである。


[1]『死に至る病』に関して、主に桝田啓三郎訳『死にいたる病』,筑摩書房,1996.を参考とする。本書からの引用はページ数のみを示す。
[2]綜合とは総合である。総合を大げさにしたものと思えばよい。詳しい違いは読んでいく中で感じ取ってほしい。分からなければ分からなくても、それでよい。総合もしくは統一である。
[3]「ひとつの関係」たる自己のこと。
[4]「ひとつの関係」たる自己に関係する関係なのだから、「精神=自己」のことである。
[5]そう考えれば、図において、「絶対的他者=神」からのびる矢印は、上にある要素・関係すべてを囲うことになるであろう。
[6]もし無神論者がキルケゴールの実存概念を換骨奪胎し、神概念を自らの手で葬りさることを望むのならば、そのとき彼はよくよく考えてその思想を取り扱わなければならない。その思想はキルケゴールの思想としてではなく、また別の、独自の無神論的実存主義とも言うべきものとなるのだ
[7]城塚登『人類の知的遺産46 ヘーゲル』,pp.102103を参照。
[8]ヘーゲルの弁証法が思弁的に過ぎるというキルケゴールの批判については、ヘーゲル研究者から、読みが不十分であるといった指摘がなされている。『理想』555号所収の、上妻精「ヘーゲルから見たキルケゴール」参照。
[9]彼は、創造されたばかりの人間のために、主神ゼウスの元から火を盗み出し、それを与えたことによって、罰として高い岩山の岩に繋がれ、毎日毎日再生する自分の内臓をそこにやってくる鷹に啄まれ、まさに死ぬに死ねない苦痛を与えられたのである。
[10]καταδυναμιν. アリストテレスに始まる概念だが、ここでは説明しない。
[11]桝田は可能性を「あるところの自己」、必然性を「なるべき自己」としている。p.291を参照。
[12]神と言うと引いてしまう人が多くあることと思う。そういう人は、神というものを、ひとまず絶対的なものを表す記号か何かと考えておけばいい。日常において私たちは、この世に絶対的なものなどないと思いながらも、何かに立脚してものを言うのであり、そうせざるを得ない。現代において、それは多くの場合、経験や科学的知見であったり、客観と言われるものである。アンチ・クリマクス=キルケゴールにとってはその立脚点がキリスト教的な神であった。
[13]キルケゴールの3段階論は、色々と誤解を招くところで、別に美的なものや倫理的なものを排除しようとしたわけではないので、気をつけておくべきである。これらの分析が、ばらばらの偽名著者たちによって、なされているところを考えると、少しは分かりやすくなるかもしれない。
[14]人間的狂気というものを考えるなら、『おそれとおののき』は十分参考になるだろう。旧約聖書に現れるアブラハムの子殺しへの意志というのは、まさに人間的狂気であり、「倫理的なものの目的論的停止」であった。
[15]キルケゴールと女性観について日本人研究者として、森田美芽を挙げておく。彼女以外知らない。
[16]『死に至る病』は分析に終始しており、治療法は『キリスト教の修練』に回されている。しかし、私が『キリスト教の修練』を開いたことすらないということは、気に留めておいてよいだろう。
[17]私は、この詩人の記述が、キルケゴール自身について述べたものなのではないかと思う。以下に、彼がレギーネとのことについて語ったときの日記を引用しておく。「同情的に、私が自分の婚約を解消しなければならなかったということによって、憂愁の深淵に突き落とされるのである。何故ならそれはひとえに、神が私の存在の根本的な不幸を、取り除こうとし給うているとは、即ち私の殆ど狂気に近い憂愁を取り去ろうとし給うているとは信ずることが出来なかったからである。しかもそのことを私は彼女のためにも、又翻って自分のためにも、魂のありったけの熱情を傾けて望んでいたのであるが。私自身の悲惨を再現せねばならぬということは、この上もなく困難なことであった。私は又もや二回目の諦めをしたのである。唯私は彼女を自由にするように努めようと考えて、そのような人生に立ち向かったのであった。しかし神は讃むべきかな、私にとって神は愛であるということは、常に確信せしめられ、有難いことに確信せしめられて、それ以上確実なことは外にないのである。」(玉林義憲・久山康訳『キェルケゴールの日記』,アテネ文庫,1949,p.42.
[18]この積極的とは、罪を消極的としている合理主義などに対して、積極的ということである。つまり制限付きの積極性であると考えるべきなのである。実際のところは消極的なものに過ぎないということ、それは本文以下に述べられる。
[19]訳注より「ソクラテスによれば、正しいこと、善いことを知っている人は、これをおこなうはずである。正しいことをなさず、善いことをおこなわないのは、正しいこと、善いことが何であるかを知らないからである。つまり、不正をなし、不善をおこなうのは、無知のゆえである。だから、徳は知であり、それを裏返しにいえば、無知は不徳、つまり罪である。」(p.311)
プラトンの初期対話篇では、しばしばソクラテスが善を知恵のことだと表明していたという(藤沢令夫訳『国家 下』,岩波書店,1979,p.379.)。これに関して2つ引用しておく。「もし善のすべてを、そしてそれが現在・未来・過去においてどのように生じるかを、ことごとく知り、また悪についても同様に知っている人があるばあいに、そのような人が、徳に関して、何か欠けるところがあるようにあなたには思えますか。このような人が、節制や、正義と敬虔とに関して、欠けるところがあると、あなたはお考えですか。すくなくとも、このような人だけが、神々に関することでも人間に関することでも――正しく〔彼らと〕交わるすべを心得ているので――恐ろしいものとそうでないものとに十分気を配り、善きものを手にいれることができるわけですが。」(『プラトン全集7,岩波書店,1975,p.162より、生島幹三訳『ラケス』199D-E.
「知識ではないと君に思えるもの、知識とは別のものであると思えるものが何かあるならば、そのようなものは、ときによって有害であったり有益であったりするのではないかね。たとえば勇気だが、もし勇気が知ではなく、一種の空元気のようなものだとしたら、どうだろう。人間は、ただ元気を出すだけで知性がそこに伴わなければ害を受け、知性が伴う場合には益されるというのが、事実ではないだろうか?……節制にしても、……知性を伴ってこそ有益となり、知性を伴わなければ有害なものとなるのではないだろうか?……これを総括すると、魂が積極的に心がけたり、受動的に耐えたりして獲得するすべての資質は、知が導くとき幸福を結果し、無知が導くときは反対の結果になるのではないだろうか?……もし徳というものが、魂にそなわる資質のひとつに数えられるようなものであり、また、かならず有益なものでなければならないとするならば、徳とは知でなければならないことになる。なぜなら、いやしくもすべて魂の資質というものは、それ自体単独では有益なものでも有害なものでもなく、そこに知もしくは無知がはたらくことによってはじめて、有害なものとなったり有益なものとなったりするのだから。こうしてこの議論にしたがえば、徳が有益なものである以上、それはひとつの知でなければならないのだ。」(『プラトン全集9,岩波書店,1974,pp.300301より、藤沢令夫訳『メノン』88B-D.
[20]無論、イエス・キリストのことである。
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以前に鳥取で大きな地震がありましたため、日本一危険な国宝とされるあれ、投入堂はしばらく見ることができないかと危ぶまれてましたが、実は今年の4月に開山されてたんですよね。危険ではありますが上がっていくと見晴らしはすばらしく、一見の価値はあるんではないかと思われますよ。私もちゃんとのぼったよ。

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