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第1章 生涯

がうざいことになっているので、
引用を示すものでないとこだけ、
緑色で背景を塗っておきました。

1
章 生涯
キルケゴールの容姿について、姪のヘンリエッテ・ルン(姉ペトレアの娘)が後に『家族の思い出』の中で、以下のように綴っている。
「彼の聡明そうな顔、その洗練された風貌全体……鼻は繊細すぎる位いな、貴族的な反りを示していた、ソェーレン叔父の鼻は、湾曲してはいるが大胆そうな、また肉付のよいものであった。一方、口と眼、頭の形と髪の豊かさは見事なものであった。挙措もまた大変特徴のあるものだった。彼の口は大きかった、けれどそれは、淡い憂愁と深い情から、大胆な嘲弄と洗練された皮肉――これは少なからず顕著な特徴だが――に至るまでの色んな段階の気分をその反りの線に表わしていたのは不思議な位いだった。そして眼と来たら、年と共に失われて行くといったものは何もなく、寧ろその元来が精神の籠った表情は益々強い輝きを持って来て、病院で私が最後のお別れに彼を見た時にも、星のように輝いていた」[1]
今風の言葉で言えば、彼は「イケメン」だったのではないだろうか。何かと波乱の人生を送った彼だが、家族の目から見るとどうであったのか、合間合間にヘンリエッテ・ルンに語ってもらいながら、紹介していくことにする。

 
1節 大切な人との関係
キルケゴールの生涯を語る上で、必ず出てくる人物、彼に思想上の決定的な影響を与えた人物として、二人が挙げられる。彼の父ミカエルと、「元」婚約者レギーネである。思索家としてのキルケゴール、著作家としてのキルケゴールはこの二人の影響なくしてはあり得なかったであろう。本節で語られるのはその二人との関係である。
 
・父ミカエルとセーレン
キルケゴールは1813年、父ミカエルと母アンネの7人目の末っ子として、デンマークの都市コペンハーゲンに生まれた。このとき父は56歳、母は45歳であったが、そのせいかキルケゴールは病弱で体格もよくなかった。
父ミカエルは卑しい身分から勤勉と商才で裕福な毛織商人となったが、アンネと再婚する頃に40歳で引退し、宗教や哲学などによる静かな内面生活を送っていた。キルケゴールの生活はほとんどこの父の財産によって営まれていたが、彼が父から受けたのは経済的な支援だけではない。「私は何と言っても私の父に初めから全ての事を負っている。」[2]と言われるように、彼の思想は彼の父に絶大な影響を受けているのである。

父のミカエルは貧しい農民の子として生まれ、荒野で羊飼いをしながら、寒さと飢えと孤独な生活に苦しんだ。そして12歳のある日、彼は雷雨の中で絶望に駆られて激しく神を呪った[3]。ただ一度のこの神への反抗が敬虔な彼の胸に生涯つっかえ続けた。彼はその償いの意も込めて、幼少からキルケゴールに厳しい宗教的しつけを課した。その厳しさはどれくらいのものだったかと言うと、「……幼時私は厳しくかつ熱心にキリスト教をたたき込まれた。人間的にいえば気違いじみた教育をうけてきたのである。憂愁の老人は自身がその憂愁の重圧の下敷となっていたのであったが、すでにきわめて幼いころからその重みを私の上に載せかけたために、私は圧しつぶされていた。正気の沙汰とも思えないが、一人の小児が憂愁の老人の扮装をさせられたのである。空おそろしいことだ。」[4]と彼に言わせるほどのものであった。

 
父ミカエルが神を呪った直後に、突然の親戚の招きでコペンハーゲンに出てからは、靴下商から始め、店を広げて織物や食品材料を手広く扱う卸商になった。彼はこの富裕への道をたどりながら、そこに神の手がはたらいていることを見、それがかえって神の復讐ではないかとおびえた。

彼は自分が果たそうとして果たせなかった信仰による幸福を、子供たちに期待した。長男のペーターは牧師となったが、父の期待は特に末子セーレン[5]にかけられていた。宗教的敬虔と義務を大切に考える生活を厳しく求め、セーレンも父に対する素直な愛情と尊敬の念から、父の期待に応えようと従順な努力を積み重ねた。この親子関係は一見辛く大変そうだが、それほどのものでもなかった。父ミカエルは宗教だけでなく哲学にも深い関心があり、友人を招いて哲学的議論をしばしば行っていたのだが、この論争をそばで聞き入ることがセーレンの楽しみの一つだった。ここで発揮される父の優れた弁証の才は、幼いセーレンにとって賛美と驚嘆の的となった。また、セーレンが外で遊びたいと言っても父はそれを許さず、代わりに部屋の中で子供の手をとって歩き回りながら、まるで町や海岸や森の中を本当にめぐっているかのように物語を聞かせてくれることが多かった。セーレンは父と共にする想像の楽しさを持っていたので、他におもちゃなど必要ないほどだった。
ところで、女中上がりのキルケゴールの母は快活で気立てがよく、彼は母から陽気でユーモラスに振舞う社交的能力を譲り受けた。母親譲りのこの能力によって彼は先生や友人にも愛された。

 
・父からの独立
1830年に17歳でキルケゴールは、宗教を重んじる老いた父の願いにしたがって、コペンハーゲン大学に入学した。彼は1834415日から20巻に及ぶ膨大な日記を書き始め、この年と翌年の1835年の日記の内容はほとんど神学に関する感想文だったが、だからと言って神学の研究に没頭していたわけではない。彼はこの時期、神学よりは文学や哲学などの自由な教養を求め、多面的興味にめざめて学生たちの討論クラブやカフェや劇場に出入りし、放浪していた。こうして彼はしだいに父からの独立の道を歩み始めた。

そんな彼にとって厳しい宗教的な雰囲気に包まれた家庭での生活は窮屈で重苦しかった。この空気を和らげる役割の母は前年に亡くなっており、兄のペーターはまじめな神学者として精進を重ねながらも、父が弟にばかり期待するのを不満に思っていた。その父も、妻や3人の子供たちが32年から34年にかけて次々死んでいき、セーレンは神学から遠ざかっていき、兄と弟の仲が悪くなっていくのを見て、深く悲しんでいた。そこで父はセーレンを気分転換にと少しの間旅に出す。
 
・実存の原体験
ギレライエ周辺地図  
キルケゴールが訪れたのはギレライエである。シェーラン島の北端にあって、スウェーデンの向かいに位置する。地図を置いたので参照してもらいたい。ちなみに左端に見えるセディングが父の出身地であり、この地方で彼は神を呪ったのである。
さて、キルケゴールはこの保養地で、馬車を駆り、散歩し、癒されていたわけだが、中でもよく訪れたのはギルベールの断崖だった。200メートルもあるという断崖に立ち、広大な空、はるかにある水平線、打ち寄せる波、そのようなものを見て彼は、「人生のわずらわしい騒音」が消えるのを感じ、安らいでいた。

彼の実存の原体験が起こるのはこのような土地でであった。「一八三五年八月一日、ギレライエにて。……もともと私に欠けているのは、私がなにをなすべきかについて、私自身で決着をつけること、なのである。それは、私がなにを認識すべきかについてではない。もちろん、あらゆる行為には、ある認識が先行すべきだということは別としてである。問題は、私の使命を理解すること、私がなすべきこととして神がそもそもなにを欲しているのかを知ることである。重要なのは、私にとって真理であるような真理を見出すこと、私がそのために生きかつ死ぬことをねがうような理念を見出すことである。いわゆる客観的真理を私が発見したとしても、それが私になんの役に立つというのか。」[6]これがあの有名な「主体性は真理である」というテーゼの元型である。

 
・絶望と遊蕩の中で―「大地震」[7]と父の死―
旅から帰って、彼は再び青春の彷徨を始めてしまう。そしてコルサールのゴーストライターとなったP.L.メラーや、アンデルセンらとカフェハウスや行きつけのレストランなどで、ワインを酌み交わしながら文学論に夜を更かすといった日が続いたのである。18367年の日記には自殺こそが最大の救いだという絶望的記述もちらついており、「破滅の道」であったとも後に回想されている。そんな時、恩師であったP.M.メラー教授が病に伏した。彼はこのときキルケゴールに対し、「君はまったくポレミカルだ」と言い残し、この世を去っていったのである。これは知的な抗議を表すものとしての「論争的」ということではなく、人生に反逆し、これを食い尽くそうとする彼の傲慢を戒めるものであった。また時期を同じくして、「大地震」が起きる。

「さあ大地震だ、現象全体を説明する新しい間違いのない法則を突如として私に用いざるを得なくさせる恐るべき転換が起ったのだ。今こそ私が感付いた事は、私の父の高齢は神の祝福ではなくして、寧ろ呪いだったという事、我々家族の優れた精神的素質はただ互に相反して磨り耗らすためのものだったという事だ。私の父を、我々皆んなに先立たれる筈だった不幸な者、つまり彼自身のあらゆる希望の墓の上に立つ墓標の十字架、として考えると、もう私は死の静寂が私の周囲に増して行くのを感じた。或る責罪が我々家族全体の上に横たわっているに相違なかった、神の罰だ。それは消え去るべきだった、神の強力な手によって拭い去らるべきだった、恰も過失であった如く拭い去らるべきだった、」[8]

「大地震」についてこれ以上具体的に述べられることはなかったが、おそらく父の罪と、それに基づく深い不安を知らされたことだと信じられている。つまり父が子供の頃、神を呪ったことか、抵抗できない立場の女中を父が犯して、結婚以前にその子をはらませたということを知り、自分が罪深い父と母の子であることに気付いたことである。尊敬していた父がとてつもない罪びとで、自分もその罪を受け継いでしまったのだと自覚させられたことが、「大地震」の内容と言われる。

彼の兄弟は1834年までの間に、7人中5人が死んでおり、一番長生きした次女と三女は共に33歳で死んでいた。このことから父は、子供たちは皆33歳までしか生きられず、自分は最後まで生きて、孤独な老年を迎えさせられるのだと信じていた。それはセーレンにとっても同様で、彼が34歳になったときの日記からも窺える。「私が34歳になったという事は奇妙な事だ。これは全く私には合点が行かぬ。私はこの誕生日の前かその当日に死ぬ事を全く確信していたので、私の誕生日が誤って申告されて居り、そしてやはり実際の34歳で死ぬのだ、と仮定する気持にほんとに(いざな)われざるを得なかった。」[9]

恩師の死と「大地震」を経験し、彼は遊蕩生活から復帰する。そして父との和解を果たすが、それからまもなく、183889日、父ミカエルは亡くなった。
 
私は何と言っても私の父に初めから全ての事を負っている。父は憂愁だったが、その彼が憂愁な面持ちで私を眺めて、私に乞い訴えた言葉は、「いいか、お前は本当にイエス・キリストを愛していいのだよ!」[10]

 
・永遠の恋人レギーネ
次に紹介するのは、キルケゴールの「元」婚約者レギーネ・オルセンである。「元」という付属語が気になるかもしれないが、そんなことはすぐに明らかになることだ。キルケゴールは彼女から大きな影響を受けた。特に彼の最初の頃の著作などは、彼女のために捧げられたと言ってもよいほどだ。果たして何が彼をそこまでさせることになったか、それをここで見ていくことにしよう。
 
・レギーネとの出会い
キルケゴールが生涯をかけて愛した女性レギーネ・オルセンに出会ったのは、183759日、レールダム家のパーティにおいてであった。彼はこの家のボレッテ・レールダムという女性に少々ひかれており、彼女の方もその気であったらしい。それでしばしばレールダム家を訪ねていたのである。そこで彼は若い娘たちが、春の陽気な日差しの下で楽しくお茶を飲んでいる風景を目撃する。その中にレギーネ・オルセンの姿があった。レギーネ14歳、キルケゴール24歳の年の、ある晴れた午前のことであった。以降、しばらくキルケゴールは神学試験のための勉強に専念し、1840年に見事合格を果たす。ただ彼は父が亡くなる前からもう彼女に心を決めていたと、日記に残している。
試験合格後の719日から86日まで、彼はユラン地方を旅する。それはかつて父が神を呪った貧しい故郷であり、後の彼の行動を考えると、彼なりの決意や意気込みの表れだったのかもしれない。
 
・レギーネとの婚約
旅行から帰ってきた8月と9月が、厳密な意味で彼女に近づいた期間であると日記に述べており、実際旅行から帰ってきてすぐに、彼はレギーネの家を訪問するようになる。そして98日、彼が彼女との関係に一つの決着をつけることを望んだ日のことである。「彼女の家の前の路上で私達は出くわした。家には誰も居ないと彼女は言った。私は大胆にも、これこそ自分に必要な誘いだと思った。私は一緒に家へ上った。私達二人だけになって居室に入った。彼女は少し不安そうであった。私は彼女にこれ迄よく彼女がしたように何か弾いてくれるように頼んだ。彼女はその通りした、しかしそれではどうもうまく行かない。で急に私は楽譜を取上げて、かなり激しく閉じ、それをピアノの上に投げやる、そして私は言う、ああ音楽の事なんか構わないのです、私が求めているのはあなたなのだ、私は二年間あなたを求め続けて来たのです。彼女は一言も言わなかった。私はそれ以上は彼女の心を奪うような事は何もしなかった。寧ろ私自身に、また私の憂愁に用心するよう警告すらした。しかし彼女がスレーゲルへの関係[11]について述べた時に私は言った、それではその関係は括弧に入れた挿入句にして置きなさい、何といっても私が第一抵当権を持っているのだから。」[12]


それから両者とも黙ったまま、キルケゴールが先に家を出て、彼女の父の所へ出かけていった。彼女の父は、彼の行為に関してよいとも悪いとも言わず、それでもどうやら乗り気のようであったのだが、キルケゴールがレギーネとまた話をさせてほしいと頼んだところ、
910日の午後許されて話をした。彼は何も言わず彼女の言葉を待った。彼女は、えゝ、と言った。この日、キルケゴールとレギーネは婚約した。
キルケゴールはすぐに持ち前の社交力を発揮して相手の家族、特に父親との関係を深めていった。彼はレギーネの父に対して好ましい感情を持っており、その思いはレギーネに対してと同様、最後まで変わりなかった。

 
 
・婚約破棄
愛し合う二人、家族との関係にも何の憂いもなく、誰の目からしても、すべては円満に進むように思われた。しかしキルケゴールの持つ不安や憂愁、神を志向する意思がこのままで終わらせはしなかった。婚約が決まってからすぐに、彼は自分の行いを悔いることになったのである。そのときのことを彼は次のように述べている。
「しかし内面はどうかと言えば、その後数日して、私は過ったということが分かった。私のような痛悔者、私の従前の経歴(vita ante acta)、私の憂愁、それだけでもう充分だった。」[13]

彼は婚約してすぐに、それを後悔していたのである。それは決して彼女のことが嫌いになったからというごく単純な理由によるものではない。彼はレギーネのことを何よりも愛していた。地上的なもののうちで最も大事な存在だった。
「しかし、神の抗議があったのだ、と私はそれを解釈した。即ち結婚。私は非常にたくさんのことを彼女に秘密にしなければならなかった、全体のことを虚偽の上に作り上げねばならなかった。」[14]
こうしてキルケゴールは最も愛する人を、自分から捨てて、さらにそのことについて語ることはできず、また誰にも理解され得ぬという過酷な運命の中に身を投じることを強いられることとなってしまったのであった。

婚約から11ヶ月後の1941811日、キルケゴールは次のような内容の手紙とともに、婚約指輪をレギーネに送り返す。
「どうしても起こらなければならなくて、いったん起こってしまえば必要な力を与えてくれると思われることを、このさき何度も試してみることはやめて、それはもう起こったことにしてください。何よりも、こうしてこれを書いている者を忘れてください。
絹ひもを送ることは、東洋ではそれを受け取る者の死刑を意味しますが、指輪を送ることは、ここではたしかに、それを送る人間の死刑を意味することになります。」[15]
さて、このような意味不明な手紙を受け取ったレギーネは、もちろん納得しなかった。彼女は自暴自棄になり、自殺までほのめかすようになった。キルケゴールに出来たことはひたすら荒れ狂う彼女を全力で突き放すことぐらいであった。娘の姿を憐れむ父もキルケゴールに彼女と別れないでほしいと頼むが、それでも彼は彼女との復縁を口にすることはなかった。

「彼女は私に尋ねた、あなたはもう決して結婚しないつもりですかと。私は答えた。そう十年間は、しかしもし私の気分が静まった時には、若返るために若い血潮のお嬢さんを得なければならないと。どうすることも出来ない残酷さ。それから彼女は言った、私があなたにしたことを許して下さいと。私は答えた、それは私が言わねばならないことですと。彼女は言った、私のことを考えると約束して下さいと。私はそうした。彼女は言った、接吻して下さいと。わたしはそうした――けれど情熱は無しに。おお可哀想に。」[16]
 
分るかい、レギーネよ、永遠の内には結婚というものはないのだよ、そこではスレーゲルも私もみんなお前と一緒に居る事を楽しむのだよ[17]

 
・再会
レギーネとの関係を断ち切り、18411025日、彼はベルリンに留学のために出発した。そしてベルリン大学に行き、講義を受けていたのだが、どうも講義が我慢ならないということで、それからあとは『あれか・これか』の原稿を書いて過ごした。予定では1年半の滞在であったが、4ヶ月半ほどで切り上げることにし、184236日にコペンハーゲンへと戻ってきた。そこで思いがけぬ出来事に出会った。

1843416日の復活祭の日曜日のこと、「聖母(フルーエ)教会(キルケ)での晩の讃美歌の時に、彼女は私に頷きかけた、それが乞い願う意味か、許すという意味かは私には分からないが、しかしともかく彼女は赤くすらなった。私は離れた席に腰を下ろした、けれども彼女は私を見つけた。おお、そんなことを彼女がしなければよかったのに。今となっては一年半の間の苦痛は無駄だったのだ、私の非常な努力は全て役に立たなかったのだ、彼女は私が欺瞞者だとはやはり信じていないのだ、彼女は私を信じているのだ。」[18]

後に彼自身、遠くからだったので彼の見間違いか別の人への会釈だったのかもしれないと反省しているが、この時の彼にとっては決定的な出来事であった。彼が神の前で諦めの騎士となり、捨て去ったレギーネをもう一度、神から受け取りなおす可能性が出てきたのである。そこで彼はレギーネと別れた後の行動を、ベルリンへの旅を「反復」するのである。

会釈から3週間後の184358日、彼は再びベルリンへ発つ。そしてまたわずか3週間後の530日に帰ってくる。この短い期間で、『反復』、『おそれとおののき』の二著の草稿をほとんど完成させている。しかしそのあとすぐに、レギーネとスレーゲルの婚約を知ることになる。その結果、『反復』の内容は急いで書き換えられねばならなくなり、その上で、本来の完成順序とは逆の順番で、つまり『おそれとおののき』、『反復』という順番で出版社の広告に載ることになり、1016日に両書が出版された。
 
・永遠の二人
18491121日、「<彼女>に関する最後の処置」と題される日記の中で、彼は次のように述べる。
私の死後、著作は彼女と私の亡父に捧げられるべきだという私の意志は変わらない。彼女を歴史に属させる。[19]
この文章について、訳者の大谷は一つの見解を示している。「……ここに最後の意志表示をなして彼女を『飾り』歴史的な盛装を装わしたものと言える。1849年といえば、彼の主著の大部分は既にこの世に出で、立派に式場長の資格を名実共に自認出来たのである。」[20]
こうして、キルケゴールは彼女との関係を永遠なものとし、歴史の中では、スレーゲルは本当に「括弧に入れた挿入句」となってしまったというわけである。

 
 
・レギーネのその後
キルケゴールとはもうあまり関係がないが、気になる人もいるだろうから、少しだけ触れておくことにする。レギーネは元々の許嫁であったスレーゲルと結婚したわけだが、スレーゲルは彼女の過去について何も咎めたりすることなく、流れでキルケゴールの名前が出てきたときも柔らかい調子で彼女と接した。またスレーゲルの部屋でキルケゴールの著書を一緒に読むこともあったし、1869年にキルケゴールの遺稿第1巻が出たときも、スレーゲルは彼女の願いで、すぐにそれを買い求めたとのことである。

「彼女に向かって、あなたのお手紙なぞから考えてあなたの心は充分安らかではないと思える、と言う人があると、彼女はそれに答えて、我々人間は気分というものに大変左右されるものだから、私の差上げた手紙なぞからそういう気分を読み取られたのはあるいは自然かもしれないけれど、もし私が自分は幸福じゃないと言うなら、私は誠に恩知らずでしょう。いえ私は稀な位い幸福なのです。そして幸福な結婚という事が人生における主要事をなすという事はしばしば言われていますが、スレーゲルと私はお互に非常に強く依存し合っていますから、私達は互に豊かになっています、と書いて送ったのである。」[21]
ここに出てくる「手紙」が一体何を示すものか、判断付きかねるところがあるが、彼女からキルケゴールへの手紙は、すべて彼女の手によって燃やされた。

 
間奏曲 Intermezzo―ヘンリエッテ・ルンとキルケゴール叔父―
私の父が務めの銀行から帰宅して見ると、私の母と彼とがまるで二人の子供のように遊んだり争ったりしているのを見る事がしばしばだった。私の母はこの繊細な華奢な弟に心から愛着していた、……ソェーレン叔父は休暇には私達と色々係り合った、そして少くとも私の場合は、よくからかわれる結果になる事もあったが、そんな時に、私がその痩せた身体(からだ)つきを眺め、身体全体を揺するような、短い圧し潰した笑いを聞くと、たちまち私は最初「もう和解なんて出来ない、関係はこれっきりだ」と考えた、するとやがて間もなく、からかいの背後に情愛の隠されているのが分る、そして彼に会う勇気と喜びが再び帰って来るのだった。物の答えが活発にやりとりされればされる程、ソェーレン叔父は喜んだ、そして彼のクックッ笑いは直ぐ人に(うつ)って行く始末であった。ある時私は妙案がなかったのと絶望的になっていたために、争いに熱した挙句、すぐ手出しをして、答える代りに彼の横面をはたいた事があった。ソェーレン叔父は、相手が自分にそういう権利があるからといって、顔に唾を吐かれるような事になった人が言うようにそう、だがそれは何の証明にもならない」と言う事は出来ただろう。そして実際一瞬の間、私の頭上にはそれよりももっと鋭い注意が下されようとしているかのように思われた。だが彼が私の狼狽を見て取った時に、彼は無邪気な大笑いをドット爆発させた。[22]

 
2節 コルサール事件
『コルサール』とは、ゴルスミットによって編集出版されていた反抗的風刺新聞である。1840年代のデンマークにおいて、この新聞は一つの「恐怖政治」を行っていた。多くの公人がプライバシーを暴露され、大衆の哄笑にゆだねられた。しかし地位のある人々は、この新聞を許せないとしておきながらも、他人がその対象となっている限りは、密かに読んでいたのであった。
本節では、キルケゴールと『コルサール』の戦いを追い、この戦いが彼に何をもたらしたかを考察する。
 
P.L.メラー
P.L.メラー(Peder Ludvig Møller 1814-1865) は、『コルサール』のゴーストライターであった。
彼は文学や美的生き方に長けていて、キルケゴールの遊蕩時代は気の合う仲間だったが、その当時からキルケゴールの中には深い憂愁が渦巻いていたのであり、メラーはその決定的な相違には気付いていなかったであろう。彼はその才能ゆえにコペンハーゲン大学の美学の教授ポストに就きたいと野心を抱いていた。

キルケゴールが『コルサール』のゴーストライターが彼であることを知ったことも『コルサール』攻撃の原因になったとされるが、直接的なきっかけは、メラーがキルケゴールの著作に関して的外れな評論を重ねたことである。184612月、彼は『人生行路の諸段階』について、美的段階である第1部「酒中に真あり」を賞讃し、深い宗教的段階を描いた第3部「罪責があるか・罪責がないか」をよく評価しなかった。これは、本来宗教的著作家であるキルケゴールからすればとんでもない片手落ちに終わってしまっていると見えたことだろう。宗教性を否定し、美的段階の面白さのみを評価されたのでは何の意味もない。それでは、「私と仮名著者とをそのままごっちゃにしてしまっている」[23]と言われざるを得ない。
これに対し、キルケゴールは別の雑誌『祖国』に次のような論文を寄稿することで、『コルサール』との戦闘に入る。

 
vs.コルサール
「わたくしはむしろコルサールで取りあげてもらいたい。なぜかといって、そこでののしられないただひとりの作家としてデンマークの文学史上に残ることは、作家としてつらいことではないか。P.L.メラーのあるところ、そこにコルサール紙あり」[24]
『コルサール』のゴーストライターがメラーであるという暴露は、美学教授を狙っていた彼にとって大打撃となった。

年明けの1847年からコルサールからの攻撃が始まる。19277号では、「キルケゴールは仕立屋にズボンの長さの違った服をつくらせたが、それは、ズボンも、長いか短いか、あれか、これかでなければならない」[25]という攻撃がなされ、2ヶ月ほどの間、ほとんど毎号のように、キルケゴールの猫背や痩せた足、だぶだぶのズボンをだらしなくぶら下げたキルケゴールを嘲笑する漫画が掲載された。こうしてキルケゴールは、公衆の物笑いの種に仕立て上げられ、だらしない服装をした子供は母親から、「セーレン=キルケゴール!」と注意され、キルケゴールの散歩姿を見かけた子供たちは、『あれか、これか』と彼を馬鹿にするほどだったという。彼はこのときのことを日記に書きしたためている。

「教会で腰を下していると、23の野人共が無作法にもその側に腰をかけ、その者のズボンを絶えず覗き込み、ことごとく人に聞き取れる程の大きな声で話し合って、その者を罵ける[26]、という事。」[27]
「侮慢を以て、胸の悪くなるような仕方で、私は取扱われた、国民的な犯罪が私に向って犯された、私と同じ世代の人々による裏切りだ。」[28]
禍害(わざわい)なるかな新聞! キリスト今もしこの世に来り給わば、狙いをつけ給うのは、きっと祭司長等々にはあらずして――新聞記者であるだろう。」[29]

日記の一部を取り出したものだが、さすがに外に出るたびに公衆の悪意ある目や侮辱的な嘲笑をされることで、コーヒー店に腰を下ろすことも街中を歩くことも出来なくなり、参っていたようだが、それでも彼は『コルサール』に対する攻撃の手を緩めることはなかった。そしてついに刊行者のゴルスミットが『コルサール』から手を引き、この新聞を売却した。それと同時に、この事件は幕引きとなった。実際のところ、ゴルスミットはキルケゴールの毅然とした態度には、密かに尊敬の念も持っていたと言われる。ゴーストライターであったメラーは、彼の美学教授という目標が達成されなくなったので、パリに去り、そこで悲惨な生涯を終えたらしい。

 
・一件落着…?
これでコルサール事件は解決したということになるが、このことは彼の胸中に大きな問題意識を植え付けた。彼は、かの新聞の卑劣なやり方に対して、良識ある人々や教会などからの支援を期待していたが、誰一人助けてくれる者はなかった。『コルサール』の手口は非難しておきながら、自分に火の粉が降りかかってこない限りは、競って読み漁り、キルケゴールの勇敢な姿を個人的には讃えるが、公的には沈黙を守ろうとするそのやり方に、彼は、コペンハーゲン知識人たちにおける小市民的生活態度を見出すことになったのである。ここでまた彼の日記を見ておこう。

「しかり、確かに私は貴族だ(そして実際に自ら進んで善をなそうと思う者は全て貴族であり、貴族であったと言える、そういう者は何時の時でもごく僅かしか居ないのだから)、しかし私は、巷間路上に、また危険と反抗の渦巻く人間達の間に立とうと思うのだ。私は(マルテンセンやハイベルグ風に)、妄想のお添物の付いた孤立した仲間の中で、臆病に女々しく、上品さの中に立籠って生きようとは思わない(大衆がそれらの者を見る事が極めて稀で、従ってそれらの者が偉い人物なのだろうと思わせるような風にしようとは思わない)。」[30]

コルサール事件は彼にとって、一つの転機となった。神のみを絶対とするキリスト者は世間的な義務や幸福を絶対のものと考えてそれにしがみついている者たちからの迫害を覚悟しなければならないということに、身をもって思い知らされたのである。彼はこの世で自ら「単独者」、「例外者」として生きることを真剣に考え始める。

 
間奏曲 Intermezzo―ヘンリエッテ・ルンとキルケゴール叔父―
日曜の朝は一片の雲もない空で明けた。で午餐は庭の築山(つきやま)[31]の上で外でする事になった。その時ソェーレン叔父がどんなに活発に言葉を述べ、また面白い話や思い付きをどっさり出して私達を楽しませたかを私は憶えている。しかし夜になって、私達が小さな池の所で草の上に横たわっていた時に、彼の溢れるような快活さは突然止まって、深い沈黙を守ったままうっとり前方を見つめていた。
……次の日、ソェーレン叔父は、私達が説き勧めたにもかかわらず、早くも帰途に就いていた……その後ずっと年月が経た後、『遺稿』第1巻が出た時に、クリスティアン叔父[32]がこれについて次のような言葉を述べたのを私は微笑を以て聞いたのを憶えている、「いつも満足しているように見えた一人の人間が、こんなに心の底から憂鬱だったというのは考えるだに気味の悪い事じゃないか。だがこんな風に自分の能力を消耗して行く時には、人は上機嫌で居れるわけはないのだが!」……[33]

 
3 教会攻撃
キルケゴールがコルサール事件を通じて見たデンマークは、水平化され無名化した無関心的大衆の集まる小市民国家であった。そしてその彼の怒りの矛先は、無知な大衆ではなく、むしろそのことに対して無関心なキリスト教会に向けられた。
 
・教会攻撃への準備
彼の後期著作は、このような問題意識をはっきりと持ち、宗教的な性格に転ずる。1848513日には後期主著『死に至る病』の草稿がほぼ完成しており、この原稿が印刷所に渡されたのは1849628日のことであった。ここで1年余りのブランクがあるのは、彼がこの本の出版をためらったからである。この本を出せば、もう後には戻れないかもしれない、そういう思いが彼を引き止めていた。

キルケゴールが慎重にならなくてはならなかった理由は2つほど挙げられる。一つは、牧師になりたいという思いをまだ持っていたこと、もう一つは、父と彼の一家の牧師であったミュンスター監督に対する信頼と尊敬が失われてはいなかったことである。

牧師になるというのは、以前から考えていたことだったが、この時期になって、父からの財産が尽き果てようとしていた経済的な事情もある。彼はずっと自費出版で本を出してきたが、前述の通り、自分は33歳までに死ぬと思っていたので、これは痛い誤算となった。結局これは、父親譲りの家や、著書の版権を売るなどして乗り切った。19493月には、牧師になれないかとミュンスターに打診してもいるが、自分の考える神学校を作ればいいのでは、と冷たく返答している。

重要なのはこちらだが、教会攻撃をすれば、それはミュンスターを批判することにもならざるを得ない。キルケゴール自身、彼からは多くを学んでいるし、「父の牧師」でもあったミュンスターに対しては、ずっと尊敬の念を抱き続けていたのである。ミュンスターが目を覚ますと信じ、彼は足しげくミュンスターのところに通い続けたのであるが、やがて多忙を理由にあまり会ってもくれなくなり、1849730日『死に至る病』を、1850927日『キリスト教の修錬』を出版する。これらはキルケゴールの問いかけに答えようとしないミュンスターへの攻撃を含むものだったが、彼は『修錬』を「聖なるものとの冒瀆的なたわむれ」だと評している。こう言われてもなお、キルケゴールはミュンスターが生きている限りは、デンマーク国教会を、あからさまに非難しはしなかった。彼ら二人は、立場的には完全に対立しているようだが、個人的には、そこまで仲が悪くなっていたということでもないのではないか。1851年の日記には、ミュンスターと楽しく会話をしたということも書いている。
そして1851910日に『自己省察のために現代にすすめる』を出版して以来3年間、何も出版せず日記の内容も簡素になっていった。
 
・ミュンスターの死―国教会批判へ―
1854130日、ミュンスター監督が死んだ。マルテンセン[34]25日の葬儀で追悼説教を行い、「殉教者、真理の証人」と讃えた。それからマルテンセンはミュンスターの後任として監督に任命された。185431日にキルケゴールはミュンスター監督というタイトルの日記を書いている。

「彼は既に亡くなった。
もし彼の生涯が、彼が代表した所のものが本来キリスト教ではなくして一個の軽減[35]に外ならなかったという事を彼を動かしてキリスト教に対して告白させる事で終っていたなら、これは非常に望ましい事であっただろう、なぜなら彼は時代全体を担っていたのだから。
この告白の可能性はだから最後に到るまで、恐らく彼がなお死に際にでもそれをするのではないかと、そのまま未決定に保たれねばならなかったのだ。だからこそ彼を攻撃する事は許されなかったのだ。
……彼がこの告白をせずに死んだが故に、全ての事情は変った、今や、彼がキリスト教を錯覚のままに説き固めてしまったという事実のみが後に残っている。
……もともと私は自分の活動の全体が、ミュンスターの勝利に変る事を願ったのだ。この事を私は後年に到って一層はっきり理解したと共に、いつも変らぬ私の願いだった、ただ私は右の小さい告白を望まねばならなかったのだ、これは私が自分のために望んだというものではないのだ、そしてそれ故にこそ、ミュンスターの勝利だったと言われるように旨く整えられてあった事なのだ、これが私の考えだったのだ。
だが事態は余りにも進展したので、遂に私は彼を攻撃しなければならないと信じた。……」[36]

「真理の証人」や「殉教者」といった概念は、彼にとって重要なものとなっていた。そんな彼には、このマルテンセンの表現が、自分に対する挑戦のように受け取られたのである。彼は直ちに、マルテンセンに対する反駁文「ミュンスターは『真理の証人』であり、正真正銘の真理の証人のひとりであったか――それは真理か」を書いた。
しかし彼はここですぐに、マルテンセン攻撃を行ったわけではない。ミュンスターが亡くなって、マルテンセンへの引継ぎなども忙しかろうという配慮を見せ、2月に書かれたこの文書は、18541218日になってから、『祖国』紙上に公表された。キルケゴールを保守的な人と信じ、教会と国家の忠実な支持者として知っていた当時の人々は驚いて、彼の頭がおかしくなったのではないかと疑ったほどである。彼はこの後1855526日までの間に、21の新聞論説を発表しているが、教会も政府も、あのコルサール事件の折と同様の、賢明な沈黙を守って見せた。やがて『祖国』も扱わなくなったので、今度は『瞬間』というパンフレットを自費出版していった。

「キリスト教はこの国では全然存在していない、だが、キリスト教を再び獲得するという事が問題となるためには、まず誰か或る詩人が断腸の思いをしなければならない、そしてこの詩人は私だ」[37]彼はまさに身を切るような思いで、教会攻撃を行っていたのである。

闘争のこの期間、彼は攻撃論文の執筆に精力を傾け、訪問客も、手紙の返事も相手にしなくなっていた。ただブリュクナーという人が『キルケゴールの思い出』の中に語るところによると、「キルケゴールは、最大の明瞭さと落着きをもって、かれが引きおこした状況について語った。かれの生活にあのように深く侵入してそのさいごの力を要求した烈しい闘争のもとにあって、かれがいつもの心の平静さと確信を維持しえたばかりでなく、冗談をすら維持できたことは、わたくしを驚かした。」[38]とのことである。

 
 
・戦いの終焉
『瞬間』の第10号を準備していたとき、キルケゴールは意識を失って床に倒れた。しばらくは歩行の困難を感じたが、散歩できる程度には回復したので、街中を散歩していたが102日、再び路上で昏倒し、無意識のままフレデリク病院に運ばれた。それから死ぬまでずっと病院で過ごした。
18551111日午後9時、国家の官吏である牧師による最後の聖餐を拒否し、彼はこの世を去っていった。1118日、聖母教会にて葬儀、兄ペーターの告別説教の後、家族の墓に埋葬された。
 
間奏曲 Intermezzo―ヘンリエッテ・ルンとキルケゴール叔父―
あの最後の闘争の時期、あの苛烈な年においてもソェーレン叔父は彼の近親者の事を考えるのを忘れなかった。私の従兄弟と次兄が少し前に出発しているパリとロンドンに向って外国旅行をすればよいという考えを暗示したのは彼が最初だったかどうか、私はもはやはっきりとは憶えていないが、しかし彼はこの事を喜び、そして私も一緒に行くように彼が配慮したのだという事を私ははっきり知っている。私達が闘争を余りにも思い煩いはしないかという感情が彼を心配させたのだ。そして全く満足しきった表情で私達に別れを述べ、別れの最後の瞬間においてさえ、例のからかい調子で私の耳に囁く余裕を持っていた、「そして何はともあれお前の国の言葉を忘れなさるなよ」と。
その秋の初めに、突如、ソェーレン叔父が意識を失って路上に倒れたという報知が来た。……[39]


[1]大谷長『キェルケゴオル選集 日記』,人文書院,1949,p.6. 以下引用の際は『日記』と略す。
[2]『日記』p.121
[3]このときのことは、兄のペーターによって伝えられている。「あの老ミカエル・ペゼルセン・キエルケゴオルは、少年の頃ユランの荒野で羊の番をしていたが、自分を大変不幸に思う事がしばしばあった。彼は飢えと寒さに苦しみ、かと思うと太陽の燃えるような暑い光に晒された、彼は顧られずに棄てて置かれ、家畜にまかし切りにされた、彼は孤独で不幸だった。そのような気分の時、かつて彼は恐ろしい孤独感に圧倒されて、荒野の岩石上に立って、眼と声を天上に張りあげ、そして『主なる神を呪った、神もしそこに居まし給うならば、無援且つ悲惨な子を救い給う事もなく、かくは苦しむままにあらしむるをよく忍び給うや』と。だが少年のこの呪いの記憶は、子供の時も大人の時も老年になっても、その霊魂から消え去る事は決してなかった」(『日記』p.344
[4]『キルケゴール著作集 第18巻』,白水社,p.95より田淵義三郎訳『わが著作活動の視点』
[5]当たり前のことだが、キルケゴール家の人間はみな「キルケゴール」という名前を持っている。よって、明確に分けるため「セーレン」とすることもあるだろう。
[6]小川圭治『人類の知的遺産48 キルケゴール』,講談社,1979,pp.9899.
[7]「大地震」には1835年説と1838年説がある。実は以前別の機会には1835年説で説明し、しかもそっちの方が流れとして、受け入れやすいのだが、今回はあえて1838年説をとった。1835年説もいいが1838年説もそれなりに有力な証拠があるのだ。
[8]『日記』p.125
[9]同上p.138
[10]同上p.121
[11]スレーゲルはこのとき、彼女の婚約者であり、互いに引かれ合っていた。
[12]大谷長訳『キェルケゴオル選集 許嫁への手紙』,人文書院,1949,pp.206207. 以下『手紙』とする。
[13]同上p.208
[14]同上p.201
[15]佐藤晃一訳『キルケゴール著作集14 人生行路の諸段階』,白水社,1963,pp.7374.
[16]『手紙』p.214
[17]同上p.17
[18]『日記』p.30
[19]『手紙』p.240
[20]同上p.241
[21]『日記』pp.2728
[22]同上pp.68より、一部日本語として分かりやすく表現しなおした。
[23]『キルケゴール著作集18,白水社,1963,p.150より田淵義三郎訳『わが著作活動の視点』
[24]工藤綏夫『人と思想19 キルケゴール』p.74.
[25]小川圭治『人類の知的遺産48 キルケゴール』p.164
[26]「罵ける」だが、読みは分からない。「あざける」の間違いかとも思ったが「ののしける」でも雰囲気は出ている。
[27]『日記』p.94
[28]同上p.100
[29]同上p.105
[30]同上p.98
[31]庭の中で丘のように少し盛り上がったところ。庭園などにあるような。
[32]セーレンのもう一人の姉、ニコリーネの夫。復習がてら、ヘンリエッテ・ルンはセーレンの姉ペトレアの娘である。
[33]『日記』pp.89
[34]キルケゴールとは1834年に出会っており、彼の神学の講師であった。
[35]キリスト教の軽減とは、キリスト教の安売りで、本来のキリスト教が空疎にされたことへの批難を表す。当時のデンマークキリスト教界では、誰でもキリスト者という、キリスト教のバーゲンセール状態だったのである。
[36]『日記』pp.264265
[37]同上p.164
[38]工藤,前掲書p.86
[39]『日記』pp.910
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以前に鳥取で大きな地震がありましたため、日本一危険な国宝とされるあれ、投入堂はしばらく見ることができないかと危ぶまれてましたが、実は今年の4月に開山されてたんですよね。危険ではありますが上がっていくと見晴らしはすばらしく、一見の価値はあるんではないかと思われますよ。私もちゃんとのぼったよ。

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