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ひとつの論文とわたしのノート

ただの記録。
大したことは書いてありませんよ。
無駄に長いから、
よほど暇な方以外には読むことを勧められませんね。






たいそうな作品なので、
逐一コメントしていく形をとることにしました。
だらだらした感想も多いかもしれませんがご容赦を。

・序論
キルケゴールと同時代的であろうとするというのは、
私も気になっていたところです。
実際彼の言葉は私たちの現代にも肉薄してくるものであり、
彼は表現がうまいんですよね。
困ったことに。

私たちは彼の思想→私生活に入っていくけど、
本当に同時代の人は私生活→思想に入っていくとか書いてる人がいましたが、
その通りだなと思いました。
そういう意味で、
彼を「19世紀デンマークという歴史的文脈」から捉える
というのは興味深いところです。

2009/11/18
やけに丁寧語だったり、
何か気を遣ったような口ぶりなのは、
このときはまだ見せる相手のことを考えていたからでしょう。



・第1部 第1章 第1節、第2節
実存の形態について、
きれいにまとまってるけど、少し読みにくい。
引用が多いせいか。


審美-イロニー-倫理-フモール-宗教の領域区分を初めて知った。
そうだったのか…。
特にイロニーとフモールの違いは混同していたので、参考になった。


・第3節
「我々は体系の第14節ではじめるために生まれるのだろうか」(p.46)
キルケゴールからのありがた~いお言葉ですね(笑)
とかく現代人は理性信奉者として振舞いがちで、
合理的でないものを嫌いがちです。
ほかならぬ私もその通りで、
感情ぐらいは持ち合わせているつもりですが、
神さまを信じない私に信仰などどうして持てましょう。
外的存在の神さまこそ、私にとって紛れもない空想なのでした。


キルケゴールに関して言えるのは、
確かに彼が哲学者ではないということでしょう。
彼の思想の全体は、
哲学的なものに収斂されえないのだということを
改めて考えさせられます。

しかし私は彼を哲学の中で捉えようとしてしまうのです。
彼の思想を自分の中に取り入れようとしたとき、
明らかに私の理性は宗教的なものを拒みます。
一方で私にも情熱的なものはあります。
その情熱は彼の思いの強さを感じ取ります。

そのとき理性が、
その思いを宗教的なものから別のものに
変換しようとするという
何とも不届きな行為に出ようとするのです。
だから、私がこの論文のタイトルと序論を読んだときに、
少しドキッとしてしまったのは無理からぬことでしょう。


・第4節
p.62 「主体性は真理」で、
「主観的認識が真理」だなんて言うのは傲慢でしかないだろう。
しかし、「自分自身の最深部に見出した永遠なる真理」
における「真理」は、
キリスト信仰でしかありえないだろうか。
そんなのはセコいと思う。
納得いかない。
キルケゴールは、
「そのために生きて、そのために死のうと思える真理」に出会った。
その「真理」はすべての人に共通する「真理」であったろうか。


・第2章 第1節
原罪というのは本当に理解しがたい。
それは一つの方便のようだ。
人がみな罪人であると言うための。
気に入らない概念ではあるが、
キルケゴールにおいてはこれが、
人を堕とし、解放するという契機にもなっているだろう。
彼の考えを説明するためには、役立つ方便だった。


・第2節
瞬間というのは、時間が停止したその瞬間だろうか。
永遠(キリスト)が入ってきたとかいう、
時間的なものと永遠的なものの間で、
質的な飛躍のあったその瞬間かしら。


「『反復(Gjentagelse)』という語は、gjenとtagelseから成るが、gjenは『再び』を意味し、tagelseは『取る』を意味する動詞のtageの名詞形である。」
「反復」が「受け取り直し」であるわけがわかった。


・第3節
ソクラテスはあの真実探求への無邪気さがよいのであって、
キリストがどうとか言い出したらつまらなくなりそうだ。


pp.93,94 偽名ってやっぱりばれてたのか。
大衆と仲が良かったとは、意外。


おそらく私も
「右の手で左の手をつかもうと」している者のうちに、
数えられるだろう。


・第4節
「意志」とは何か。
主体の意志がただあきらめるための意志でしかないとすれば、
それは最初から、
神が人間の信仰を試すための道具でしかなかったというわけだ。

神というやつは一体どこまで傲慢なのか。
神の庇護とやらの下で、
神の操り人形となることが、
「単独者」だとでもいうのか。


・第2部 第3章
キルケゴールが34歳までに死ぬと信じていたのは、
かなり大きな意味があったろう。
彼が「諦めの騎士」になれたのは、
このことがあったからだと思う。
私たちはいつまで生きるかわからない、
長生きリスクみたいなものをしょっているので、
それがまた「諦め」を困難にする。


・第1節
デンマークの歴史は助かるなあ。
「黄金時代」のところなんかは、
読んでてわくわくするものがある。


・第2節
「彼と神との間には倫理的なもの以外には何もない」
いや宗教的だったんちゃうんかい。

「ここに言う倫理は『畏れとおののき』で信仰によって留保される第一倫理」
ではないのだそうな。

「実践的な人間-人間関係」と。
これはキリストによる媒介を言っているのか。
人間-キリスト-神で、
倫理とは人と人の間での関係なので、
人間-キリストについて言っているということか。

さらにその「倫理を発動させる力を、神から受け取る」
すなわち、神がキリストとしてやってきたことは、
人間が人間としてのキリストを通じて、
神と関われるようにしてくれたということで、
人は倫理をもって神に関われるようになったのであり、
神様ありがとう!
な事態であるということかね。
その意味で、
倫理イヤッホゥ!
ということなのかね。


キルケゴールの「他者」というのは、
多くの場合、
神を指していると思っていたので、
「神関係のみに終始し、他者関係を忘れるような信仰の在り方を批判する」
といったあたりには、目が覚めたような気分。
「孤独」とか「単独者」とか出てくるからねえ。
つい見落とす。


「来世の報いを約束して貧しいものを慰めるのは、そもそも愛がないからだ」
いやもうまったくね、
宗教って言ったらこんなんばかりですけどね。
死んでも救われるとかいうのが第一義なら、
それはもう紛れもなく俗物なんですよ。


・第3節
「大衆」の何が悪いかというと、その概念が悪いのである。
「人間を数的存在として捉え」、
「一人の人間が『一』として、複数の人間が数としてカウントされる」
ことが、イカンと彼は言うのだが、
まったくその通りで、
一人の人間が自分を「大衆」の中に埋没させて、
その中で行為しようとするのがケシカランのである。
当然そんなところに責任などというものはなく、
そもそもどこにその所在を求めるかという話なのだが、
これをまた彼はうまく表現するのである。

「だが『大衆』に『負わせる』ということは笑うべきである。あたかも風に責めがあるというように」
と思ったけど、
やっぱり「大衆」に参加した人間全員に、
責任負わせたほうがよくない?
とも思ったり。


「大衆」とは概念である。
一人でも「大衆」になれる。
「大衆」の強さとは数の強さである。
自らの意見を「大衆」に仮託することで、
それは責任ある個人の意見から、
責任のない「大衆」の意見となる。
「大衆」という概念は容易に悪用されうる。

インターネットの普及とともに、
日本では匿名圏が格段に広がった。
たとえば、人の大勢集まる場所で、
ねつ造じみた証拠や恣意的な情報のピックアップによって、
何かあるものに対して否定的意見を匿名の個人が発したとする。
その意見をほかの個人がどう受け取るかは自由である。
しかし、そのような意見でも何の疑いもなく受け入れる人が、
何割か、数%でもいたとする。
受け取った中のうち、
ある数%の個人がまた別の場所でその意見を表明したとする。
するとやはりまた賛同者(潜在的なものも含め)が現れる。

こうして広がりを見せたとき、
当初、単なる個人の意見だったものが、
「大衆」の意見として形成され、
一定の地位をもつようになる。
そして最初の個人は、個人として意見を発した時、
すでに「大衆」であった。

なぜなら、彼は最初からそれを責任ある個人として発言したわけではないからだ。
彼が意見を発したそのとき、
その意見はすでに「大衆」の意見となっていた。

ここからは余談のようなものだが、
「大衆」の意見の犠牲となるのはどのようなものだろうか。
それを考えるならば「大衆」を形成している個人の属性を考えればよいのである。
その多くは大した取柄もない普通の人々である。
また、人というのは、多かれ少なかれ利己主義である。

そんな彼らの標的となるのは、異端なもの、
障害者、高齢者、女性、貧困者などの社会的弱者、
あるいは権力を持ったものたち、有名人、
そのようなものどもである。
普通の人々は異端を排除し、
もしくは異端を異端として据え続けることで、
ある種の自己防衛を図る。

盲目な「大衆」は何を言っても聞かないし、
仮に自分が過ちを犯していたことが、
後に、発覚したとしても、決して「自己」の非を認めはしない。


・第4節
「論証しているうちにも時間は過ぎるのであり、実践へと移さずに過ぎ去った時間は、そのまま罪として数えられる」
見事な表現だ。
この罪にもし現実的な実体があれば、
今頃世界中罪まみれで人間の足の踏み場などなかっただろう(笑)


『畏れとおののき』にあるのは「ユダヤ教的宗教性にすぎ」ず、
「旧約聖書の『試練』は、子供じみたカテゴリー」
だったらしい。
私はこの『おそれとおののき』の描写に圧倒されて、
むしろこの著者に「驚嘆」していたのに、
「子供」って。

ともかく、『おそれとおののき』のインパクトが強すぎて、
「倫理的なものが目的論的停止」するっていうのを真に受けてたわけだけど、
いやそれは「沈黙のヨハンネス」が書いたものであって、
キルケゴールの宗教性とは違うよということで、
いつの間にやら私も迷宮入りしていたようだ。


「キリスト教的な愛は、いかなる外面性によっても表現されえない。というのは、それがまさに内面性にほかならないから」
であって、
「幸福な恋愛は、恋人たちがお互いを得ることによってもちろん外面的に表現される。」
要するにあれか。
神様とラヴラヴなのが外的に証明されないから、
それが「考えうる最も深い苦しみ」というわけか。


・第5節
「『死に至る病』で展開された絶望論は、絶望という語を用いて語られているが、しかしその実は躓きの諸形態を論じるものであった。」
絶望を続けて死を続けるということだったから、
信仰に躓きっぱなしの人間が死を継続するということだ。
躓くことで死に至る。


「キリストを模範として隣人を愛すべしというのが、神が人間に示した律法である。この律法に対し人間が応答するか否かによって、神が人間に恩寵を与えるかどうかが決定する。」
ケチくせえ神だ。
愛にまみれた神だってんなら全員救って見せろってんだ。
そんなんだから空想の域を出ないんだよ。

人間の親にだって、
どんなバカ息子・娘だろうと愛して、
何でもしてやるってのがいるぐらいなのによう。


・第4章 第1節
カントが神学と哲学を切り分けて、
ヘーゲルがまたくっつけた。


フォイエルバッハが言ってるのは要するに、
近頃の哲学はどいつもこいつも神学なんぞを前提にしてやがって、
そのくせ唯物論とか経験論とか、
神学的(一神教的)に見たら、
無神論唱えてんだから、マジでクレイジーだぜってことか。

神学ってのは思弁の中での運動でしかなくて、
そんなもん頭痛は痛いのだ、とか言うのと同レベルで、
何も言ってねえのと同じじゃね? っと。


「私の教説の一つの帰結は、いかなる神も存在しないということであります。すなわち、自然および人間から区別された抽象的で非感性的な存在者であって、世界および人類の運命について気ままに決定を下すようなものは何も存在しないということであります。」
いいぞいいぞー、言ってやれー。
フォイエルバッハのことは全然知らず、
イメージとして聖職者かなと思っていたが、
全然違ったようだ。


「キリスト教の『神中心主義』と近代『理性中心主義』は同一の構図をもつものとして、連続しているのである。(中略)人間は依然として『他律』的なのである。」
理性が人間の主体的能力であるとしても、
もし理性に自己の行為が規制され、
縛られ、言いなりになるなら、それは従来の、
絶対的神観念の中に埋没してるのとかわらんのかもしらん。

いやしかし、
個人の理性というものについて考えれば、
一人一人の理性は自ら生きていく中で構成されてきたものであり、
前もって神が決めたものを守るということとは少し違うのかもしらん。
まあ哲学における「理性」というのは、
所与みたいなとこがあるから、
ふだん私たちの使う理性と、ここで言ってる「理性」は違うよね。


・第2節
フォイエルバッハの投影論がおもしろい。
神を信じない私には、スッキリする議論。
キルケゴールからすると、
フォイエルバッハら「自由思想家」は、
キリスト教を理解しながらもつまずいた人々とされる。

そうするとキリスト教を信じようと信じまいと、
キリスト教の前には敗者の残骸ばかりが、
うずたかく積み上げられるばかりであり、
キリスト教大勝利じゃないか(笑)
鉄壁だな。


・第3節
「私は神を信じない」と言ったところで、
それは客観的に通用するものではなく、
実際のところ、
ただ自分に対してしか意味を持たないものであったりする。
というか、自分で言ったことがそのまま自分に戻ってくるだけ。

また、その表明によって私が宗教性から離れられるわけでもなく、
新たな、「私は神を信じない」という、
また別の宗教性へと迷い込むだけであったりするのである。

私は普段無神論者を自称するが、
神という概念について突き詰めて考えていくと、
とてつもない、
それこそ無限の広がりを持っているのであって、
いくら神を言葉によって否定しようとしても、
いずれは袋小路へと追いつめられてしまうのである。

しかしだからと言って、
あらゆる神を否定することができないなどとは思っていない。
少なくとも、人に作られし、
空想の神ごときは打ち破ることができると、
確信している。


・第4節
少し前から緊張という単語が気になっていた。
ひとまずの理解をここに残す。
緊張とは、あるものとあるものの間における緊張関係のことか。

つまりここでは、
自然的人間は一重の世界を生き、
キリスト者は二重の世界を生きるのであり、
自然的人間の判断とキリスト者の判断という、
両者の間における緊張関係、
言い換えるならば葛藤とでもすることができるのではないか。


・第5節
特になし。
キルケゴールは人間本質論語ったんちゃうわ!
ってこと。


・第5章 第1節
キルケゴールはプロテスタントかと思っていたが、
そうでもないようだ。
カトリックへの評価も意外だった。


「キリスト教会」とはまさしくデンマークそのものにおいて。
デンマーク国民皆キリスト教徒。


キリスト教徒の条件
その1 神を信じる
その2 神が人になって降りてきて、愛の業(奇跡)を行って、十字架で死んだことを信じる


・第2節
この世界に真実とか真理などというものはない。
すべては変わる。

自分を外から認めるものは、自分を規定できない。
自分が自分であるということ、
アイデンティティとか言うが、
その規定を外に求めることはできない。
私が日本人であるということは、
本質的に私を私として規定しない。
外部にあるものはすべて儚い。
確実に私を私として、
私という単独者として規定するものはあるか。
名前はどうか。
たとえその名前が世界に一つであったとしても、
やはり意味がない。
それは単なる記号にすぎない。
表面的なものでしかない。
外にあるものはすべて変化する。
とはいえ、内にあるものもやはり変化する。
私も変化する。

しかし、絶対者を信じない私にとって、
私を私として規定するものは、
私を措いてほかにない。

私を規定できるのは、その都度の私である。
今日の私を規定するのは今日の私であり、
明日の私を規定するのは明日の私である。
もっと思弁的にいえば、
今の私と、1秒後の私とを置き換えてもかまわない。
今の私が認識できるのは今の私だけであり、
1秒後の私を認識できるのは1秒後の私だけである。
過去の私を今の私が規定できないのはなぜか。
今の私による過去の私に対する認識は絶対になりえないからである。
今の私の意識が過去の私の認識を書き換えるかもしれない。
そうすると一つ問題が出てくる。
今の私がリアルタイムに今の私の認識を書き換えていたとしたらどうなのか。

……失敗した。
この思考の行き着く先はどう見てもデカルトだ。
今回の旅はどうやらデカルトで座礁してしまったようだ。
仕方ないからだれもが知っているあの決め台詞で終わろう。
「われ思う、ゆえにわれあり」


2009/11/18
この別パターンはそのうちちゃんと考えないとねえ。
これ書いてた時は、実はほかの考えがあった気がするけど、
どんなんだっけな。



・第3節
キルケゴールの他人とのすれ違いっぷりには切ないものがある。
彼は人間嫌いというより、
むしろ人間好きなほうだったが、
彼の周りからはどんどん人がいなくなっていく。

とりわけミュンスターとは、
意見の相違が抜き差しならぬところにまで達していたというようなもので、
別れさせられざるを得なかったというところか。
いや、というより「立場」の問題だったか。


ヨハネスとアンチ・クリマクスの話を聞くと、
いつもプラトンの『国家』で言われていたことを思い出す。
イデア界で真実を見た「哲学者」はそこに安住するのでなく、
降りて「(洞窟の)囚人」たる国民を導く、哲人王思想。

アンチ・クリマクスは、
その「哲学者」とおーばーらっぷしてくるね。


キルケゴールが、
たとえミュンスターと戦って教会を終焉させることができたとしても、
たとえ多くの人々が「改革」を望んでいたとしても、
あくまで教会―それは真の「教会」である―に真理を見出し、
「修正剤」に徹したというのは、彼の策士ぶりを思わせる。


「マーテンセンによれば、時代は変わるのであり、キリスト教もその中で変わるものである。」
マーテンセンの主張を直接読んだことがあるわけでもなく、
これがどんな文脈でなされたかは知らないが、
もし本当にこんなことを述べたとすれば、
キリスト教が真理ではないということを、
自ら告白してしまったようなものではないか。

私のおなかがすけば食物を必要とし、
満腹ならば食物はいらないということが、
私にとっての真理だが、
キリスト教もまたその程度の真理性しか有していないということか。
なんと笑える冗談のような教えだろう。


・第4節
政治と宗教の話。
論者が「人と人を繋ぐ『中間規定』が曖昧であり、多くの場合に不在ですらある、とキルケゴール」
が言ってるってことを取り上げてる。
もっと詳しく見ると、
宗教では、人は神を通して他者とかかわる。

でも政治では、
「恣意性」を持った「偶然的な目的」によって人は集団を形成して、
その時目的となっているのは、
「連帯」つまり集団なのであって、
数の力を形成することなわけだ。
まとめると、政治では勝利(目的実現)するために、
人は「連帯」を作成する。

となると、ここでは「中間規定」が問題とされているから、
それについて考えると、
宗教では「神」、
政治では、「恣意性のある偶然的目的(の達成)」がそれにあたるだろう。

このことについて論者は、
キルケゴールの視点のベクトルが
キリスト教から政治へ向かっている
(まず先にキリスト教がくるのだということだろう)
として、いったん締めくくる。

ただ私が気になったのは、
それら中間規定の間にどのような優劣を見たかということだ。
単にゆるぎなさがその基準になったのだろうか。
人が人に関わるときの関係が絶対的か相対的かということならば、
それらの間にどう優劣をつけるのだろう。
というようなことを思った気がするが、
この議論における神関係の素晴らしさは、
すでに十分すぎるほどに聞いているので、
あまり意味のない問いだったやもしれぬ。
一人で議論の深みに落ち込んだだけだ。

とにかく、何かしらの違和感を覚えたのは事実だが、
それはもっと一般的な、
絶対と相対の間の優劣に悩んだだけかもしれない。
よくわからん。「中間規定」への疑念?
書きながら何を考えていたか忘れるとかどうしようもないな。


・第3部 第6章 第1節
こうして理念のキリスト教と実際のキリスト教界の乖離をみると、
人間はいかに怠け者であるかがよくわかる気がする。


キルケゴールは「理念人間」だったから、
就職と結婚もできなかった。
だとすると、理念に生きる人間、実践する人間もまた、
やはりそういうものが望めないのではないか。
彼は「受け取り直し」つまり「反復」を唱えたけれど、
有限である人間に、その実現は望めないだろう。

理想的人間は卑賤のキリストを倣い、
彼はこの世で敗者となる。

しかしキルケゴールは、
人に「殉教者」たることを要求したのではないと論者は述べた。
では彼がこの世の人々、
キリスト教界に生きる人々に語ったのは妥協であり、
「値引き」されたキリスト教だったのか。
それとも、やはり彼は最後まで理想を語ったのか。
つまり、卑賤のキリストを倣うことを志す人々に、
神が恩寵を与え、その倣いを可能にし、
さらには「殉教者」としてではなく、
この世の生を最もよく受け取ることのできる人間に成らしめるということだったか。

しかしである。
キリストはこの世で、明らかに敗者であった。
神と関係しつつ他者と関わったはずの彼は、
この世において大敗を喫したのである。
卑賤のキリストの倣いを恩寵によって可能としたとして、
どうしてこの世の就職、結婚といったことが実現できるだろう。
アブラハムの物語、ヨブの受け取り直し、
それらは旧約聖書の物語なのではなかったか。
ユダヤ教的なものなのではなかったか。


2009/11/18
キルケゴールは理想を持っていたけれど、それをすべての人々に強要したわけではなかったんだよね。このことに関する反応は第7章のノートに再び現れる。



キルケゴールの思想がなぜわかりにくいか。
彼の思想がその時代に縛られすぎているからではないか。
彼は普遍的時代・場所に通じる原理を述べたのではない。
彼は彼の生きた時代の、
デンマークキリスト教界においてその思想を残したのである。

彼は単なる「修正剤」としての役割を果たそうとしたにすぎない。
プロテスタンティズムがカトリシズムの過ちを修正して、
すぐに消え去るべきであったように、
彼の思想もまた
デンマークキリスト教界がその非を認めた時点で
消え去るべきものとしてあったのかもしれない。

結果としてその願いは叶えられることなく、
いつの間にやら辺境の島国にまで
彼の思想は到達したのであるが、
そこで彼の思想はさまざまに解釈された。
無理もない、
彼が修正しようとしたものがその国にはなかったのだから。
人々は彼を大きく持ち上げたが、
本当に彼の思想の全容を理解できていたのはごく少数でしかなかった。
そしてわたしもまた、彼の中途半端な理解者の一人にすぎない。


「神が人間としてこの世に来たり、だが神の愛を解さないこの世の『大衆』によって迫害され磔にされた、という新約聖書の物語の簡約と、それを受け取る人間の実存の諸相」という「この『単純な』理解だけで十分だ」
と言いながら、あんたはそれで現実に苦しんで、
こっちはその「単純な」理解もできなくて困ってんだって言うね。


・第2節
アドルノがキリストを「偶像」呼ばわりしているのは興味深いね。
しかしなんでそんなに偶像が忌避されるのか。
記録を残させないため、
証拠を消すためじゃないかと勘繰ってしまうよ。
もちろん作り話がばれないための、ね。


・第3節
キルケゴールは「単独者」とか
いかにも個人性を感じさせるようなことを言っておきながら、
信仰という彼の考える普遍的なものを強調する。
啓蒙主義的な理性もみんな持ってると思われがちだけど、
それを行使する能力である「理性的認識力」というやつには、
実際のところ個人差がある。
でも信仰という「意志」の力に個人差はないから、
みんなイーブンだ。

どことなく博愛主義的な、
好意的表現をすれば、
キリスト教的な寛(ひろ)い心を感じさせる思想といったところか。
現実の「キリスト教」がそういうものだったかは別にして。


・第4節
今更な気もするが、
なんでみんなそんなに真理にこだわるのか。


・第5節
1846年の『後書き』売上50部。
コペンハーゲン人口10万人なので、
2000人に1人しか買わなかったことに。

だが待ってほしい。
日本の人口1億2500万人で考えるとどうか。
62500部となる。
驚くべき結果だ。
というか私が一番驚いている。
哲学書にしては大ヒットではないか。
自分のやり方にまずいところがあったのではないかと思えるほどである。
…本当にいいのか、これは。


2009/11/18
試しに学術書の売上というものを少しググってみた。確かなことは分からなかったけど、ほんとに売れてないのね。大体が数千冊で、5000冊が一つの壁と見た。ますます62500のすごさが際立ってくる。当時のコペンハーゲンの教養レベルが高かったせいかというと、そうでもなく、ここの文脈ではいかにコペンハーゲンで哲学書が広まる要因が存在しなかったかということが述べられているのである。たとえば初等教育の義務化が1814年であるとか。では現代の日本人があまりに本を読まないせいなのか。
ところで、あのかわいらしいマスコットキャラクター「ひこにゃん」で一躍有名となった滋賀県彦根市の人口が約11万人です。この町で哲学書が55冊売れるか。微妙なところですねえ。キルケゴールはコペンハーゲンで名前を知られるぐらいの人ではあったから、そのおかげかなあ。



・第7章 第1節
弁証法的複雑さからは打って変わって、
「素朴性」が取り上げられる。
キルケゴールを読んでいると、
表と裏を頻繁に行き来させられているようで、混乱する。


・第2節
特になし。


・第3節
キリストの実存?
そういうのは言葉で語れないんじゃなかったっけ?


・第4節
やっぱりキルケゴールは、
素朴で牧歌的なものを求めていたのかもしれない。
あんな激烈な戦いを望んだわけではなかったろう。

彼が信仰に求めた救いというのは、
癒しとか平穏で、
心の中に憂鬱を持たなくてもよくなるようなものだったろうか。

でもそれが果されなかったのはなぜだろう。
出自だろうか、キリスト教界だろうか。
彼はどうすれば素朴な生活に入れたのだろう。
こうして考えると彼はやっぱり殉教者っぽいなあ。


「卑賤論は教会によって掲げられるべき理念でこそあったが、大衆によって『果されるだろう』理念ではなかった。むしろ、そのもとに教会と大衆が調和的に集うよう、『果されないことによって』存在し機能すべき理念だった」
キルケゴール自身は、
ストイックな生き方をすることになったけど、
実際に彼が求めていたのは、
もっと現実的で素朴で牧歌的な生活とか空間だったのかもしれない。
そういう意味では、
彼は本当にデンマークキリスト教界という
ごく狭い世界しか対象にしてなかったのかもしれない。

彼の理想に刺激された部外者が
勝手にキルケゴールの現実の生き方に
理想的なものを見出し、惹かれ、
彼が胸の裡に持っていた素朴な思いを見落として、
彼がすべての人に理想的キリスト者たるよう説いたものと、
おかしな勘違いをしていたのかもしれない。

だから、
キルケゴールの言うとおりに生きるならば、
結婚も就職も諦めて、
現実では殉教するしかないような生き方しかできないと、
捉える人も出てきたのだろう。

しかし、もし彼が田舎の抒情的で牧歌的な牧師として
生きられるようなキリスト教界というものを
第一に考えていたとすれば、
そういった厳しさは
すべてレトリックだったのではないかと思えてくる。
彼は一級の著作家だった。


・第8章 第1節
「世俗化」とは。
3つある。
宗教なくなる。
人と神を対等に。
宗教的なものの枠の縮小。


・第2節
キルケゴールは学者じゃないんだから、
キリスト教界の外を無視したとかそんなのどうでもよくない?
と思ったが、どうやら、
それだけにほかのところで応用するのが難しいから
何とかならぬか的なことが言いたいようだ。

確かにそこで誤解している人が多いのだとすれば、
問題かもしれない。


・第3節
確かに神関係っていう
絶対的な保証があったからこそ
キルケゴールが何でも言えたってところはあったよね。

のちに彼の思想を換骨奪胎しようとした人たち、
主に無神論者たちは、
この神関係っていう土台を否定することで、
思想を台無しにするか、
もしくは神を自分にでも置き換えて暴力的主体性だ!
とか批判されることになっちゃったよね。


・第4節
特になし。
どうやらキルケゴールの新たな読みなおしの可能性として、
デリダやらフーコーやらが出てきていたらしい。
あまり興味が持てなかった。


・第5節
キルケゴール思想がどう活用されるか。
私は別に学問的なものの上での
活用などはどうでもよいのであり、
自分の中にどう取り込めるか
ということに最大の関心を寄せる。

しかし無神論者の私がどう受け取るか、
それが問題だ。
ただ単に主体性サイコー!!
などと称揚するバカなことはできまい。


2009/11/18
終わった。やっと。
ノートそのものはすでに完成していたので、
打ち込むだけだったのだが、
なんせ全部で11000字を超えるのである。
めんどくさくて大変だった。
ノートを紙で作ったのが間違いだったのか。
それにしてもまさか、
A4で7枚を埋めてしまうほどの量になるとは思いもしなかった。

正直なところ、大いなる自己満足として
終わってしまっている感じは否めないが、
それもまたよし。

ちなみに色は空の虹をイメージ(笑)
赤橙黄緑青藍紫(せきとうおうりょくせいらんし)
は素晴らしく覚えやすい覚え方です。
ただ、8章あったんで緑を一つ増やしました。
私は緑色が好きなんです。
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バイクや車でドライブしたり、電車や飛行機で旅したりします。忙しいからブログさぼってもいいよね?

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