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永遠の恋人レギーネ

レギーネ キルケゴール

私のレギーネ!
 私達の 大切な 可愛い レギーネ
S・K・[i]
 
 
 

1. レギーネとの出会い
キルケゴールが生涯をかけて愛した女性レギーネ・オルセンに出会ったのは、1837年5月9日、レールダム家のパーティにおいてであった。彼はこの家のボレッテ・レールダムという女性に少々ひかれており、彼女のほうもその気であったらしい。それでしばしばレールダム家を訪ねていたのである。

そこで彼は若い娘たちが、春の陽気な日差しの下で楽しくお茶を飲んでいる風景を目撃する。その中にレギーネ・オルセンの姿があった。レギーネ14歳、キルケゴール24歳の年の、ある晴れた午前のことであった。

以降、しばらくキルケゴールは神学試験のための勉強に専念し、1840年に見事合格を果たす。ただ彼は父が亡くなる前(父の死は1838年8月9日)からもう彼女に心を決めていたと、日記に残している。

試験合格後の7月19日から8月6日まで、彼はユラン地方を旅する。それはかつて父が神を呪った貧しい故郷であり、のちの彼の行動を考えると、彼なりの決意や意気込みの表れだったのかもしれない。
 
私はお前のもの
お前は私のもの
お前は私の安らき
そして歌のひびき
また悩みの落着き
全ての生命の喜びのとずき[ii]
 
2. レギーネとの婚約
旅行から帰ってきた8月と9月が、厳密な意味で彼女に近づいた期間であると日記に述べており、実際旅行から帰ってきてすぐに、彼はレギーネの家を訪問するようになる。

そして9月8日、彼が彼女との関係に一つの決着をつけることを望んだ日のことである。レギーネの家には、彼女以外誰もいなかった。居間で二人っきりになった。彼女は少し不安そうだったが、ピアノが得意だったので、彼はいつも彼女がしてくれるように、何か弾いてくれないかと頼んだ。彼女は彼の言うとおりにしたが、彼は何か、そうではない気がした。彼は急に楽譜を取り上げ、激しく閉じ、ピアノの上に放り投げて、プロポーズを行った。彼女には親が決めたスレーゲルという婚約者がいたのだが、そんなことは全くお構いなしであった。

それから両者とも黙ったまま、キルケゴールが先に家を出て、彼女の父の所へ出かけていった。彼女の父は、彼の行為に関してよいとも悪いとも言わず、それでもどうやら乗り気のようであったのだが、キルケゴールがレギーネとまた話をさせてほしいと頼んだところ、9月10日の午後許されて話をした。彼は何も言わず彼女の言葉を待った。彼女は、えゝ、と言った。この日、キルケゴールとレギーネは婚約した。

キルケゴールはすぐに持ち前の社交力を発揮して相手の家族、特に父親との関係を深めていった。彼はレギーネの父に対して好ましい感情を持っており、その思いはレギーネに対してと同様、最後まで変わりなかった。
 
私の生涯は何と経済的にできている事だろう。
ただ一人の娘がありさえすればいいのだ。[iii]
 
3. 婚約破棄―スベテハ失ワレネバナラヌ―
愛し合う二人、家族との関係にも何の憂いもなく、だれの目からしても、すべては円満に進むように思われた。しかしキルケゴールの持つ不安や憂愁、神を志向する意思がこのままで終わらせはしなかった。婚約が決まってからすぐに、彼は自分の行いを悔いることになったのである。そのときのことを彼は次のように述べている。

「しかし内面はどうかと言えば、その後数日して、私は過ったということが分かった。私のような痛悔者、私の従前の経歴(vita ante acta)、私の憂愁、それだけでもう充分だった。」[iv]

彼は婚約してすぐに、それを後悔していたのである。それは決して彼女のことが嫌いになったからというごく単純な理由によるものではない。彼はレギーネのことを何よりも愛していた。地上的なもののうちで最も大事な存在だった。

「しかし、神の抗議があったのだ、と私はそれを解釈した。即ち結婚。私は非常にたくさんのことを彼女に秘密にしなければならなかった、全体のことを虚偽の上に作り上げねばならなかった。」[v]

こうしてキルケゴールは最も愛する人を、自分から捨てて、さらにそのことについて語ることはできず、また誰にも理解されえぬという過酷な運命の中に身を投じることを強いられることとなってしまったのであった。
婚約から11ヶ月後の1941年8月11日、キルケゴールは次のような内容の手紙とともに、婚約指輪をレギーネに送り返す。

「どうしても起こらなければならなくて、いったん起こってしまえば必要な力を与えてくれると思われることを、このさき何度も試してみることはやめて、それはもう起こったことにしてください。何よりも、こうしてこれを書いている者を忘れてください。
絹ひもを送ることは、東洋ではそれを受け取る者の死刑を意味しますが、指輪を送ることは、ここではたしかに、それを送る人間の死刑を意味することになります。」[vi]

さて、このような意味不明な手紙を受け取ったレギーネは、もちろん納得しなかった。彼女は自暴自棄になり、自殺までほのめかすようになった。キルケゴールに出来たことはひたすら荒れ狂う彼女を全力で突き放すことぐらいであった。娘の姿を憐れむ父もキルケゴールに彼女と別れないでほしいと頼むが、それでも彼は彼女との復縁を口にすることはなかった。
 
私は真実に次のように言うことが出来る。彼女は恋人だった、唯一人の恋人だった、私は彼女を層一層愛した、私が彼女を棄てた時に彼女は愛された人だった、そして私は他の誰をも愛そうとは思わない、と。[vii]
 
4. 再会
レギーネとの関係を断ち切り、1841年10月25日、彼はベルリンに留学のために出発した。そしてベルリン大学に行き、講義を受けていたのだが、どうも講義が我慢ならないということで、それからあとは『あれか・これか』の原稿を書いて過ごした。予定では1年半の滞在であったが、4ヶ月半ほどで切り上げることにし、1842年3月6日にコペンハーゲンへと戻ってきた。

『あれか・これか』の草稿を完成し、新たな著作活動に励んでいたころ、思いがけない出来事が起こり、この書物は未完のまま中断されることになってしまった。

1843年4月16日の復活祭の日曜日のこと、「聖母(フルーエ)教会(キルケ)での晩の讃美歌の時に、彼女は私に頷きかけた、それが乞い願う意味か、許すという意味かは私には分からないが、しかしともかく彼女は赤くすらなった。私は離れた席に腰を下ろした、けれども彼女は私を見つけた。おお、そんなことを彼女がしなければよかったのに。今となっては一年半の間の苦痛は無駄だったのだ、私の非常な努力は全て役に立たなかったのだ、彼女は私が欺瞞者だとはやはり信じていないのだ、彼女は私を信じているのだ。」[viii]

のちに彼自身、遠くからだったので彼の見間違いか別の人への会釈だったのかもしれないと反省しているが、この時の彼にとっては決定的な出来事であった。彼が神の前で諦めの騎士となり、捨て去ったレギーネをもう一度、神から受け取りなおす可能性が出てきたのである。そこで彼はレギーネと別れた後の行動を、ベルリンへの旅を「反復」するのである。

会釈から3週間後の1843年5月8日、彼は再びベルリンへ発つ。そしてまたわずか3週間後の5月30日に帰ってくる。この短い期間で、『反復』、『おそれとおののき』の二著の草稿をほとんど完成させている。しかしそのあとすぐに、レギーネとスレーゲルの婚約を知ることになる。その結果、『反復』の内容は急いで書き換えられねばならなくなり、その上で、本来の完成順序とは逆の順番で、つまり『おそれとおののき』、『反復』という順番で出版社の広告に載ることになり、10月16日に両書が出版された。

さてここで、これらの本についてもう少し説明が必要であろう。しかしそろそろ紙幅の問題もあるので、ごく簡単な説明にとどめておく。結論を先取りすると、『おそれとおののき』がレギーネと別れた理由であり、『反復』が再び彼女を取り戻すための試みである。もちろん一読してそれが理解できるというものではない。彼の本は難しいのである。

『おそれとおののき』は聖書の中のアブラハムとイサクの問題が主に取り上げられている。アブラハムは神に告げられて、息子のイサクを生贄にしようとする。そして自らナイフを向けて、息子を屠ろうとした。神はアブラハムの信仰を認め、間一髪その行為は止められるのだが、普通に考えればアブラハムは人殺しである。だのになぜ牧師は平気な顔をしてこれを語ることができるのだろうか。もしこの話に何か意味があるとすれば、アブラハムは信仰の騎士であったことによる。そうでなければ空虚であろう。アブラハムは信仰を持っていたのである。息子イサクを誰よりも愛し、かつ息子を放棄する、しかし彼は神を信じていた。イサクは必ず自らの手に戻ってくると。

『反復』は先にも述べたようにいろいろと込み入った事情があるので、当初予定されていたものとは内容が少し、特に結論のあたりが変わっている。「反復」とは、レギーネとの関係で考えると、単に彼女を受け取りなおすということでいいのかもしれないが、彼は「反復」というものをもっと大きくとらえている。

仮名の著者コンスタンティン・コンスタンティウス(ラテン語で不動・不変を意味するコンスタンスからか、国家で初めてキリスト教を認めさせたあのローマ帝国のコンスタンティヌスからか。)は実際にキルケゴールがやったように過去旅行したベルリンに行き、「反復」を試みる。「反復」は想起や期待と対比され、想起は過去の思い出しのようなもので、すでに終わっている。「反復」は過去の行いをさらに未来への可能性に託すものであり、期待とはまた違う。期待にはまだ不安が付きまとう。どうなるかが分からないからだ。ここで、申し訳ないのだが、私自身「反復」についてよく理解しているとは言い難い。正直なところ、自分で言って、何を言っているのかよくわからないので、もう結論に入らせてもらう。コンスタンティウスの反復は失敗に終わる。彼には冷淡な知性があった、信仰はなかった。もうひとつ、青年の愛を利用した実験めいたものがあり、こちらは青年に相手の少女との「反復」をやらせようとするが、コンスタンティウスが倫理的に問題のありそうなこと―コンスタンティウスが金で別の娘を用意してきて、その子と付き合ってるように見せかけろとか、わざと嫌われるような態度をとってみろとか―を提案し、青年は逃げる。結局「反復」が何なのか、それは私にはよくわからない。
 
ともかく全く確かなことは、彼女に対する私の関係は、私にとって、
信仰とは何かを理解する非常に身近な生々しい学習だったということだ、[ix]
 
5. なぜレギーネを手放したか
この件に関して、まず私が言わなければならないことは、そんなことは私に分かるはずがないということである。真実は墓の中まで持ち去られた。その上で、なされている見解を大まかに分けると、パターンは2つである。

第1に宗教的理由である。一応今回はこの立場から説明してきたつもりである。今のところはこの考え方が主流であり、過去の多くの偉大な研究者たちがこうであると信じて研究を尽くしてきた。

第2に通俗的理由である。これはさまざま考えられるもので、最近はこういう考え方を持つ人も増えている。それというのも、大谷愛人氏や橋本淳氏によるキルケゴールのプライベートな面の研究が進んでいるためと思われる。特に日記の詳細な研究がなされており、キルケゴールは日記も、後に誰かの目に触れるであろうとの考えでいろいろと書きつくしているのだが、そういったことも含め、彼とレギーネを強引に永遠に結び付けようとしているのではないかとか、ストーカーだったのではないかとか、婚約破棄となるとそのことで自分の著作者としてのインパクトが増して歴史に残ると考えたのではないかとか、本当にさまざまである。

このようなことを踏まえて、あえて私の見解を述べるならば…と続けたいところなのだが、本当にさっぱりわからない。そもそも宗教的か通俗的かすらも分からない。表に出ている著作を読み、日記を読む限りでは宗教的であるということは出来る。それ以上先にどうやって進めというのか。結局のところ、通俗的であると断言するのは、どうしても自分の思い込みが入り込まざるを得ないのであり、そんなものは一個人による一つの妄想にしかなるまい。
 
私が人に記憶される限り、
彼女の名は私の著作家としての影響力の要素たるべきだ[x]

 
 
参考文献
大谷長訳『キェルケゴオル選集別巻 許嫁への手紙』,人文書院,1949.
大谷長訳『キェルケゴオル選集第13巻 日記』,人文書院,1949.
小川圭二『人類の知的遺産48 キルケゴール』,講談社,1979.
工藤綏夫『人と思想19 キルケゴール』,清水書院,1968.
『キルケゴール著作集第5巻』,白水社,1962.より、沈黙のヨハンネス,(桝田啓三郎訳)『おそれとおののき』,コンスタンティン・コンスタンティウス,(前田敬作訳)『反復』
 
インターネットから
三井直人のホームページ』より「キルケゴールはなぜレギーネを捨てたのか?」(http://www.geocities.jp/jbgsg639/kirke.html),2009/10/20確認.
新キェルケゴール研究第4回』より森田美芽「レギーネとキェルケゴール―その関係の再考察」(http://www.kierkegaard.jp/kenkyu4.pdf), 2009/10/20確認.
上が著作家としての箔をつけたかったんだろう説で、下がストーカー説です。


忘れてたけど、一番上の写真は、
小川『キルケゴール』から、
p.120にレギーネ、p.121にキルケゴール。
携帯カメラでパシャっと。

[i]大谷長訳『キェルケゴオル選集別巻 許嫁への手紙』1949,p.33.
[ii]同上p.41
[iii]同上p.259
[iv]同上p.208
[v]同上p.211
[vi]佐藤晃一訳『キルケゴール著作集14 人生行路の諸段階』白水社,1963,pp.73,74
[vii]大谷長訳『キェルケゴオル選集第13巻 日記』1949,pp.60,61.
[viii]同上p.30
[ix]同上p.54
[x]同上p.48


今回はこっちとセット。
文字数は5700程度。
さてどうしますかね、これ。
かなり読みづらい気がしますね。

気が向いたときに、
もう少し(?)適当に手を加えたりするかも。

今回の文章は第5章、
つまり何故レギーネが振られたかを
考えることが目的となっていた。

最近ちょっと妙な見解が一人歩きしてるんじゃないか。
特にネット上で。
何を根拠にそんなことを言ってるのかと疑わしいものがあり、
ここらである程度冷静に考えてみたかった。
内容的には中立というわけではなく、
キルケゴール側から見たものとなっている。
これは残ってる資料が彼の側のもののほうが
圧倒的に多いので仕方のないところではある。

ネット上の書き手は典拠を示さなすぎである。
お前その文章一体どこからとってきたんだと、
そう思わせるものが出てくる。
引用してるつもりならちゃんと場所を示せ。
常識だ。ルールだ。
匿名だからって調子に乗るんじゃないぞ。
大体、俗っぽい捉え方は受けがいいから困る。

キルケゴールがどういうつもりでレギーネを振ったか、
それはもはや誰にも分からないことである。
とにかくここをはっきりさせておきたかった。

たとえタイムマシンで時代をさかのぼり、
彼の横にぴったりくっついて生活できたとしても、
私には彼の考えが分からない自信がある。

理由など考えようと思えばいくらでも出てくる。
しかしだからといって、
それについて考えるなと言うわけではない。
実際読んでいて面白いと感じるものがあるのも事実だ。

ただ、あたかもその見解が決定的で、
証明されたかのように振舞うのはやめてもらいたい。

ところでこれは上に挙げたリンクに対して言ってるわけじゃないよ。
念のため。
ネットは玉石混交と言うけど、
その石っころについて言ってる。

上のリンクについては、面白い。
それでも、結局は分からないってことが前提だよねってことを
示したいと思った。

ものを書くのに曖昧な態度を決め込んだらダメって
ルールでもあるのかね。
少しでも分からないところがあることに関して、
こうなのだ! と断言するのには、
私としてはどうしても躊躇せざるを得ないのだが。

2009/10/26

 ここでぼくたちはたいへんな問題に出くわすことになるが、それは、今後の研究の中でもたびたびぶつかる問題だ。つまり、「ものすごくいい頭」にどれくらい探りを入れていいものなのか? という問題だ。そして、―さらにデリケートな問題だが―その頭脳の持ち主以外の人間が、その心をのぞいていいのか? この場合で言うと、風船がしぼむように希望がおしつぶされたときのプーの感情をああだこうだと詮索するのは、ずうずうしくて押しつけがましいことなのではないだろうか? ということだ。
 プーの気持ちを思いやって詮索を遠慮するのはあっぱれな思いやりだ。が、遠慮すること自体がまちがっている。それがプーへの敬意のしるしだとはお世辞にも言えない。というのは、そんなことをしたら、プーもまた、プーに代表される哲学者たちと同じように、知識の限界に苦しんでいると言っているようなものだからだ。(ジョン・T・ウィリアムズ[小田島雄志、小田島則子:訳]『クマのプーさんの哲学』河出書房新社、1996、p.24,25)

まさか・・・こんなのに説教されるなんて・・・
私は間違っていたのか・・・

と思ったが、よく読むと、
プーはちっとも苦しんでないのに、
我々が彼は苦しんでいるだろうと思い込むのは、
プーを愚弄することだという文脈のようだ。

しかしこのふざけた本に書いてある、
かの言葉は私を悩ませる。
何でこんなのに・・・


キルケゴールも自分で、
レギーネ問題を解明したものが
私の全思想を理解するんだとか何とか言ってるし、
一体どうしろと。
Secret

プロフィール

bq69pd

Author:bq69pd
以前に鳥取で大きな地震がありましたため、日本一危険な国宝とされるあれ、投入堂はしばらく見ることができないかと危ぶまれてましたが、実は今年の4月に開山されてたんですよね。危険ではありますが上がっていくと見晴らしはすばらしく、一見の価値はあるんではないかと思われますよ。私もちゃんとのぼったよ。

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