10
1
2
3
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
   

『キェルケゴールの日記』 訳:玉林義憲・久山康

この日記を読んでイメージが変わった。
敬虔なキリスト者。
普段の著作でも神と信仰の話が出てくるが、
日記ではもっと出てくる。
驚いたがなかなかおもしろかった。

敬虔なキリスト者だなんて、何をいまさらという感じもするが、
思っていた以上にそうだったということ。

しかし残念ながら、日記の彼とは仲良くできそうにない。
神や信仰にすがることでどれほど救われる思いがするだろう。
それはキリスト者でも何でもない私にも少しは想像がつく。
だからと言って、私はその中に一緒に入っていくことは、
やっぱりできない。

端的に言うなら、そんなものは信じていない。
そうとしか言いようがない。

さて、この記事はキルケゴールカテゴリーに入れた。
ただの感想というにはあまりにも、ねぇ?
以下、いくつか気になったところを抜き書きしておく。

ただ、キルケゴール自身
「熱心な記録係のだれかが、パラグラフを鵜呑みにする輩が、著者を節々(ふしぶし)に切り、刻み、しかも、句読点学に仕えようとして、自分の語る言葉を語の数で区分し、……根気よくやってくれることを思っては、ここなる著者はぞっとするのである」(『おそれとおののき』p.14)
とまで言っているので、
まったく気休め程度にしかならないかもしれないが、
私の考えたことを簡単に付け加えながら、引用するとしよう。
キルケゴールの真意は、私にはわからない。

                                        


~p.29までが1847年(34歳)
p.30~が1848年(35歳)のときの日記となっている。

それから、この本は1949年に出版されており、
旧仮名、旧漢字とまあ、とてつもなく読みにくいことになっているので、
基本的に現代の言葉に直している。
果たしてそれが正しい姿勢と言えるかどうかわからないが、
漢字の変換も面倒だし、妥協した。
時々読みにくい字に振り仮名つけたりもした。
それでは、始めよう。

                                        

p.19
大抵の人間は自分自身に対しては主観的で、他の一切の人に対しては客観的である。しかも時としては驚く程客観的である。ああなさねばならぬことは、正に自分自身に対して客観的であり、他の一切の人に対して主観的であることなのだが。

自分に優しくて、
他人には厳しい態度の人間が多いと言ってるんじゃないかな。

たとえば学生は勤勉に学び、
労働者は勤勉に働くべきだということが、
客観的に言えるかもしれないけれど、
勉強嫌いな子はいるし、やる気のない労働者もいる。

そういう人たちに、厳しい言葉を浴びせながら、
自分は少々サボっても何の批判も受けない。
だから、自分のことを厳しく律しつつ、
他人には優しく(愛をもって接)しなさいよ的なことを
言ってるんじゃないかと、
私は思いました。

それと、「ああなさねば」ってとこは、「嗚呼、なさねば」と解釈。

p.27
私は未だ嘗て誰をも信頼したことがない。私は著作家としては、ある意味で読者を私の信頼する者として利用した。しかし私の読者に対する関係について言えば、私はやはり後代の人々を私の信頼する者としなければならない。嘲笑するためにそこにいるその同一人を、信頼する者とすることは不可能である。

1846年がコルサール事件です。
『コルサール』ってのは適当に有名な人をあげつらって、
面白おかしく書いてたゴシップ雑誌。

みんなこの雑誌のことを
品のないクソ雑誌みたいに、表では言いながらも、
蔭では楽しく読んでたりっていうね。

キルケゴールが標的になった時も、
周りの人は彼が正しく、そして勇敢だと感じながらも、
誰も彼を助けようとまではしなかったわけだ。
彼はそういうとこにデンマーク国民の俗物根性みたいなものを
見てとったのだね。

だからそんなもん読んで自分を嘲笑してるような奴らに、
自分の書物がちゃんと理解されるわけがないと思ったんだろう。

ところで、信頼されるべき後代の人というのはどうやら我々ではなさそうだね(苦笑)

p.30
願望し、希望し、憧憬する人物は決してアイロニカルであることは出来ぬ。アイロニーは(全実存を構成するものとしては、)他の人々なら願望をもつその場所で自己の苦痛をもつという全く逆の人に宿るのである。恋人を得ることが出来ないというのは、それは決してアイロニーとはならぬ。しかし恋人を余りにもた易く得ることが可能であり、恋人自身がその人のものとなることを、乞い求めているのに、しかもそのときやはり恋人を得ることが出来ぬというのは、それはアイロニーとなる。この世の栄華を得ることが出来ないというのは、それは決してアイロニーとはならぬ。しかしこの世の栄華を常ならぬ程に得ることが可能であり、同時代の人が挙(こぞ)って、殆(ほと)んど乞わんばかりにして、その人に権力や支配権を押しつけようとするのに、しかもそのときやはりこの世の栄華を受けることが出来ぬというのは、それはアイロニーとなる。このような場合に言われ得るのは個人が秘密を持っているに違いないということ、即ち憂愁に満ちた智恵の秘密を持っているに違いないということである。それ故アイロニカルな人は決して願望する人物からは理解され得ない。何故なら願望する人物は、唯(ただ)その願望を満たしてもらうことが出来ればと考えているからである。アイロニーは一種の超大な力であって、周知の如く、人はそれにふれて死ぬことさえあるのである。

p.42
同情的に、私が自分の婚約を解消しなければならなかったということによって、憂愁の深淵に突き落とされるのである。何故ならそれはひとえに、神が私の存在の根本的な不幸を、取り除こうとし給うているとは、即ち私の殆(ほとん)ど狂気に近い憂愁を取り去ろうとし給うているとは信ずることが出来なかったからである。しかもそのことを私は彼女のためにも、又翻って自分のためにも、魂のありったけの熱情を傾けて望んでいたのであるが。私自身の悲惨を再現せねばならぬということは、この上もなく困難なことであった。私は又もや二回目の諦めをしたのである。唯私は彼女を自由にするように努めようと考えて、そのような人生に立ち向かったのであった。しかし神は讃(ほ)むべきかな、私にとって神は愛であるということは、常に確信せしめられ、有難いことに確信せしめられて、それ以上確実なことは外にないのである。


これだけ長い引用をしておいて、
言いたいことは一つだけだったりします。

レギーネとの別れは弁証的で逆説でアイロニーであった。

ただこれはやはり、必ずしも真実を示すということでなく、
あくまでこの日記を見たところ、
そうであると言いたがっているのではないかということ。

ちなみに弁証法とか逆説とか
キルケゴールの著作によく出てきますが、
そのうち解説でもしようかなと思ったり。
もっとも、
自分でもまだあんまり理解できてるっていう自信はないんですけども。

                                        

ひとまず日記の引用はここで終わり。
最後に、
『理想』という雑誌を読んだときにいくつかの感想を書いたんですが、
そのうちの一つを、ちょうどよい機会なので、のせておきましょう。

キルケゴールの「真」意というのは、
誰にもつかみようのないものなのかもしれない。
彼は多くの著書を仮名で出版し、
自ら、そこに自分自身の言葉は一切ないのだと言い張る。

それに従い、
仮名の著書は仮名の人間が書いたものとして
紹介してくれるよう注文した。

それならば、彼を理解しようとする研究者というのは、
キルケゴールに共感しすぎている、
自分と彼を過剰に重ねてしまっている、
彼らは冷静ではない、
といった批判を避けようがないのではないか。

キルケゴールが自分の「真」意を隠してしまった以上、
彼を理解するために、彼を感じるしかなかった。

キルケゴールは沈黙に、伝達手段として、
言葉と同じだけの価値を見出していた。
言葉がアルファベット26文字で表現されるなら、
沈黙もそれと同じだけの表現、
アルファベット26文字を持っていた。

そうであるから、彼の解説者は一人ひとりが別人格を持っていた。
それは枡田=キルケゴールであったり、
大谷=キルケゴールであったりしたかもしれない。

真実のキルケゴールというものを
見つけ出すのは不可能なんじゃないか。

それはどんな人間についても言えることだろうが、
こと彼に至っては、
逆説やら弁証的やら偽名やら沈黙やら、
さまざまな目くらましをしかけてきおるので、
ますますわけがわからんのではないか。

落伍者か、病弱軟弱野郎か、
孤独に闘ったキリスト者というマッチョか、
キルケゴールを語ろうとすると、
いつの間にやら、キルケゴールを見た「私」というものを
語るなんてことになってしまっているのかもしれない。


キルケゴールの真意云々というのは、
どうでもいいことなのかもしれない。
皆多かれ少なかれ、仮面をかぶっているものだ。


参考
『キェルケゴールの日記』アテネ文庫64、訳:玉林義憲・久山康、弘文堂、1949年。
『理想』1979年8月号No.555、理想社。
『キルケゴール著作集5』白水社、1962年より、沈黙のヨハンネス『おそれとおののき』訳:枡田啓三郎



日記は、1985年の訳がどうやら一番新しそうだけど、
ななせんごひゃくえん・・・
図書館おとりよせでも、郵送料で¥1,000くらいとか。
借りるだけで1000円はちょっとなあ。

旧漢字で書かれた日記をあさるしかないのか(笑)

No title

キルケゴールは日記も膨大にあって、ほんの一部しか訳されてないんですよね。橋本さんの訳もレギーネ関連に絞ったものだし。昔の訳は、あんまり研究も進んでなかったので、偏った訳も多いし。

キルケゴールって文献がそろってるようで、実はまともに読めるのは一部なんだなーと思いました。白水社の全集もドイツ版全集の訳だし、創言社の著作集はデンマーク語訳だけど、やたら読みにくい訳のものが多いし。日誌は訳されてないし。

Re: No title

>橋本さんの訳もレギーネ関連に絞ったものだし。

「永遠のレギーネ」って、ねぇ(笑)

創言社はHPに2009年中に3巻と13巻出すって告知してますけど、どうもこれはまた遅れてそうですね。

日記は日本語だとほとんど見つかりません。
戦後に出た人文書院の全集に日記が入ってますけど、
それぐらいじゃないかな。

ちなみにここで紹介したのは、たったの60ページ。
ぺらっぺらですよ。
1847,8年の日記しか入ってないんです。

キルケゴールってブームのときに
ばばっと色々出てきたって感じで、
実存主義が流行らなくなってからは、全然ですね。

ほこりかぶった本が多すぎて、
喉と鼻の調子がすこぶる悪い(笑)
Secret

プロフィール

bq69pd

Author:bq69pd
バイクや車でドライブしたり、電車や飛行機で旅したりします。忙しいからブログさぼってもいいよね?

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

Lc.ツリーカテゴリー

全記事表示リンク

全ての記事を表示する

検索フォーム

FC2カウンター

リンク

RSSリンクの表示