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大地震について

大地震の記述がごちゃごちゃしてて分かりづらすぎるので、
自分で勝手にまとめる。
他人に読ませることを第一義的な目的とはしていないが、
自分のために分かりやすくまとめるということなので、
興味のある人には有益…かな? 
(キルケゴールを全く知らない人が読んでも面白くはないだろうな)

それから、この記事ではキルケゴールの生年月日が結構重要だ。
1813年5月5日生まれ。念頭においておくべきデータである。

1. 大地震への予感

キルケゴール家はずっと死の影に付きまとわれていた。
父の最初の妻クリスティーネの死から、
1819年に次男が6歳、
1822年長女は24歳で、
そして1832年からいよいよ死霊渦巻き、
それはもう家内バイオハザードな事態に陥ってしまうわけである。

1832/9/10次女:33歳の誕生日目前、
1833/9/21三男:25歳、
1834/7/31母(年齢? さすがに33よりは上だろう(笑))、
1834/12/29三女:33歳、

兄弟たちはみな33歳を越えることなく死んだ。
この4つの死は、セーレン・キルケゴール19-21歳のときのことだ。
このことが彼の関心を神学から文学へ向けるきっかけになったと考えられている。

後に兄ペーターは語る。
まる二年余りの間、キルケゴール家の家族は、喪服に身を包んで、墓の傍に立ち尽くしていたかのようだった、と。

大地震の前から父のミカエルは(当事者なので当然だが)、
自らの罪を認識していた。
それが彼に熱心な宗教教育を子供たちにほどこさせたし、
またこの連続死で、子供たちは33歳よりも長く生きられず、
自分が最後まで子供たちの墓の前に立たされるのだろう
との信念を強めたのである。
そしてそういった固定観念は
兄のペーターやセーレンにも不安として伝染していった。
セーレンは日記に書いている。

なにかがまさしく陰鬱な姿で現れてくるという場合には、ありうべきあらゆる順境のただ中に、まず、これでよいのかという予感が頭をもたげるにちがいない。だがまだ人は、そのよくないことがなんであるのかをはっきりと自覚しているわけではない。しかし家族関係の中には、そういったことがあるにちがいない。そこでは、すべてを焼きつくす原罪の力が現れ、絶望にまで深まることもありうる。そしてこの予感は、予感の正しさを確証する事実そのものよりも、はるかに恐ろしい影響を与えるものである。


彼は家族の中に何かがあると感じ、
それは恐ろしい予感として彼に迫った。

2. 大地震とは何か
要するに父が自分の罪を子供たちに告げたことである。
その程度の認識で十分なのだが、一応もう少し述べておこう。
大地震はキルケゴールの遺稿に書かれていたものだ。
一部引用しておく。

大地震が、恐ろしい変転が起こって、突然、あらゆる現象の新しい、誤りない解釈原理が私につきつけられたのは、そのときであった。そのとき私は、私の父の高齢は神の祝福ではなくて、むしろ呪いであることを、また家族の優れた精神的素質は、ただお互いにしのぎをけずり合うためだけに与えられているのだということを予感した。私の父が私たちのだれよりも生きながらえなければならない不幸な人であり、彼自身のあらゆる希望を葬る墓の上に十字架が立てられているのを見たとき、死の沈黙が私のまわりに深まっていくのを感じた。罪責は、全家族の上におおいかぶさっているに違いない。神の裁きは、全家族の上にくだされるに違いない。私の家族は、消滅し、神の力強い手によって抹殺され、失敗した試みとして抹殺されるよりほかはない。


しかしこの大地震については、
他の日記や遺稿の文章で全然触れられていないので
詳しいことがさっぱり分からないのである。
これに関して4つの説を以下に示す。

・ これはキルケゴールが新しく小説を書くために用意したプロットだよ派
極端な解釈だと一蹴されている。

・ 22歳の誕生日(1835/5/5)に起きたんだよ派
W・ラウリーという人が『キェルケゴール小伝』の中で、
キルケゴールは大地震で精神の危機に陥ったけど、
ギレライエに旅行して、そこで実存の原体験をして復活したんだよ、と言っているらしいのだが、これも論証がなってないとか、お前は伝記物語としてつじつまを合わせたかっただけちゃうんかと、
却下されている。

・ ギレライエから帰ってきたとき(1835年秋)に起こったよ派
本命その1。精神覚醒したと思ったらこれだよ。
小川が上2つのトンデモ説を紹介しといて、
こっちを紹介してないのは気になるね。

・ 25歳の誕生日頃(1838/5/5前後)に起きたんだよ派
J・ヒンメルストゥルプという人が言ってるらしい。
本命その2。
大地震→精神危機→実存原体験の流れではなく、
大地震の予感→精神危機→実存原体験とする。

3. 時系列まとめ
やっと本題に入れる。
結局1835年秋説と1838年説で
順番はどう乱れるのかが知りたいのだ。
主要な事件をまとめておこう。


1832-1834年
4つの相次ぐ死
1835/8/1
ギルベールの断崖で実存の原体験

1835年末頃-38年3月頃
文学論に傾倒。
学生クラブ、カフェハウス通い、遊蕩生活。「破滅の道」
1838年1,2月頃の日記
「ほとんど死者のごとく生きている」
1838/3/13
恩師P・M・メラー教授突然の病死。

1838年4,5月
気持ちを改めて
「いかにして真のキリスト者になるか」
「いかにして真の人間として生きるか」
という本来のテーマに戻る。
1838/8/9
父ミカエル死去。


まずは、1835年秋に大地震があったとすれば、

子供たちの死→家庭内での不安→実存原体験
→大地震→遊蕩→教授の死→父の死

兄弟死んで、
家の中暗くなって、
旅行で気持ちが上向いて、
帰って大地震でまた落とされて、
しばらくぐれて、
メラー教授の死で目を覚ます。
最後には父が死ぬ前に和解も済ませてて、
話としては上手くまとまってる。

次に大地震が1838年だったとすれば、

子供たちの死→家庭内での不安→実存原体験
→遊蕩→教授の死→大地震→父の死

このときの大地震は精神回復と見る。
教授の死と、大地震のダブルパンチで目を覚まして、
心機一転、自分のやるべきテーマへ! ということらしい。
でも実存の原体験でものすごい決意をしたはずなのに、
何で帰ってきて遊蕩生活に突入してるんだろう。

まあいくら考えても答えは出そうにない。
実は他にも判断材料があって、
大地震を記述した書簡が
1838年の日記のまとめから出てきてて、
内容的にも1838年説にかなり有利な証拠になってる。
ストーリー的には、1835年秋説っぽいけど、
状況証拠から見ると1838年説だな。
これは難しい。

私は元々1835年秋派だったけど、
今は分かんないな。
腑に落ちないとこもあるけど、
1938年説もありそうではあるし。
大穴狙いで
単なる小説のプロットっていうのも悪くない気がしてきた(笑)


参考
小川圭治『人類の知的遺産48 キルケゴール』,講談社,1979.
工藤綏夫『人と思想19 キルケゴール』,清水書院,1968.

ギーレライエ

おととしの夏にデンマークにいってきたんですよ。
ギーレライエにも行ってきました。
さぞ陰鬱なとこだろうなと思ってたんですが
こんなんでした。
なんでもキルケゴールを憂鬱と結び付けるのはチガウんじゃないかと思い始めました。
『後書き』とかってかなり可笑しいですしね。
基本的に信仰者は「救われて」るんですもん。

Re: ギーレライエ

おお、いいですねえ。
確かにキルケゴールの言葉を残した碑文ってのがあるとこって、
よく本に写真がのってますけど、白黒なもんですごい暗く見えるんですよね。
実際画像検索したら、バックに青い空と海が、それと白い雲が綺麗に映ってて、あぁ明るいいいところだなあと感じました。
沖縄っぽい印象。

ちなみに私の中のキルケゴールは、
憂鬱とか貧弱というより、何だかよくわからないけど強い人って感じです。マスコミや教会相手にたった一人で、あんな激闘を繰り広げて、大衆もここまでバカだとは思わなかったといわんばかりに、後期は、かなり直接的な批判を始めるんですもの。主体的で行動派な彼は素敵です。彼の強さに惹かれます。
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bq69pd

Author:bq69pd
以前に鳥取で大きな地震がありましたため、日本一危険な国宝とされるあれ、投入堂はしばらく見ることができないかと危ぶまれてましたが、実は今年の4月に開山されてたんですよね。危険ではありますが上がっていくと見晴らしはすばらしく、一見の価値はあるんではないかと思われますよ。私もちゃんとのぼったよ。

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