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キルケゴール 読書日記・メモ

キルケゴールに関して、
読みながら思ったこと・状態などを書いていく。





2009/12/25
・いや違うやん。
下で角川って書いたけど筑摩書房だよ。
何かおかしいと思った。
今出てるのは、2,5,6,24巻の4冊かな。
主に『誘惑者の日記』『恐れとおののき』『反復』『死に至る病』
講話も少し入っているみたい。
でももう関係ない話か。

2009/12/1
・キルケゴール全集について興味深い記述を見つける。

以前に、角川書店だったか、そこから全三十八巻の全集の刊行が予定されていると聞いた。パンフレットでその内容を見てみたら、「あれか=これか」なんかは、白水社の著作集では四冊にわたっておさめられていたのだが、角川では二冊で収められている。この、倍の密度でもって、それで三十八巻なのだ。38×2÷22=3・4545……。三・五倍の量! 日記も三巻にわたって収められている。そして、キルケゴールの本領といわれる、キリスト教の教義や説教、説話などが多かったと記憶している(白水社のほうにはこれがひとつもなかった)。
 僕はいつか発売されるだろうと待っていたのだが、どうも遅い。それで、大書店に行き、
「あのう、もう刊行されているかと思うのですが、キルケゴール全集を予約したいのですが……」そして、「調べてきます」と言われて約十分のち、
「あれは刊行中止になりました」
「……どういうことでしょうか」
「訳者の桝田啓三郎という人が亡くなったのです」
(『二十歳の遺書―私が拾った、ある二十歳の手記』 p.145)

私も、なんで日記その他が
いつまでもまとめられていないのかと
ずっと疑問に思っていたが、やはり彼の死が大きかったのか。
それにしても、いつまでも放置したままとは、
納得いかぬところでもある。

ちなみに上の本はグーグルで読めたりして。

2009/11/29
キルケゴールTシャツ
(Philosopher online shop)

なんでこんなの作っちゃったの(笑)
しかし一体だれが買うんだろう。

つかZEAMIもすごいな。
elegance of Silence って

2009/11/9
セーレン・キルケゴールに加えられた虐待
女子大生説教ブログ

まあ両者が無意識のうちに虐待し、されてたってことも、
可能性として考えられなくもないですけどね、
それにしたってやはり可能性のうちに、
とどまるしかないでしょうって話。

こういうのに無批判な研究者滅びろとか、
言いますけど、
何を根拠に批判するんでしょう。

本人が虐待されたって言ってないんだから、
そんなもん批判のしようもないでしょうよ。
人の家庭事情に、根拠なしにどう入っていくんでしょう。
思い込みもいいところじゃないですか。

大体問題提起の仕方が投げやりすぎでしょう。
無責任にも程があります。
そんなに言うんだったら、まず自分が調べろって話ですよ。

こういうところから、俗説って広まるんですよね。

2009/10/25

・訳者より
キェルケゴオルが1855年11月に死んだ時、彼は嘗ての許嫁に、恰かも自分の妻に対する如くに、彼の遺産の全てを定めていた――その嘗ての許嫁が、老年に到っても尚お且つどんなに彼に愛着を感じ、誠実を保っていたかは、彼女が1904年3月に死ぬ数年前に、キェルケゴオルの姪ヘンリエッテ・ルンに対して、自分の死後に公表するようにとて、嘗ての婚約者の自分への手紙を掛けがえのない宝物として遺した事が示している。(大谷長『日記』1949,p.85)

・Peter Christian Kierkegaade(1805-1888)
セーレンの兄より。
あの老ミカエル・ペゼルセン・キエルケゴオルは、少年の頃ユランの荒野で羊の番をしていたが、自分を大変不幸に思う事が屡々あった。彼は飢えと寒さに苦しみ、かと思うと太陽の燃えるような暑い光に晒された、彼は顧られずに棄てゝ置かれ、家畜に委(マカ)し切りにされた、彼は孤独で不幸だった。そのような気分の時、嘗て彼は恐ろしい孤独感に圧倒されて、荒野の岩石上に立って、眼と声を天上に張りあげ、そして「主なる神を呪った、神もしそこに居まし給うならば、無援且つ悲惨な子を救い給う事もなく、かくは苦しむまゝにあらしむるをよく忍び給うや」と。だが少年のこの呪いの記憶は、子供の時も大人の時も老年になっても、その霊魂から消え去る事は決してなかった(同上p.344)

・1838年夏
さあ大地震だ、現象全体を説明する新しい間違いのない法則を突如として私に用いざるを得なくさせる恐るべき転換が起ったのだ。今こそ私が感付いた事は、私の父の高齢は神の祝福ではなくして、寧ろ呪いだったという事、我々家族の優れた精神的素質はたゞ互に相反して磨り耗らすためのものだったという事だ。私の父を、我々皆んなに先立たれる筈だった不幸な者、つまり彼自身のあらゆる希望の墓の上に立つ墓標の十字架、として考えると、もう私は死の静寂が私の周囲に増して行くのを感じた。或る責罪が我々家族全体の上に横たわっているに相違なかった、神の罰だ。それは消え去るべきだった、神の強力な手によって拭い去らるべきだった、恰も過失であった如く拭い去らるべきだった、(同上p.125)

私が34歳になったという事は奇妙な事だ。これは全く私には合点が行かぬ。私はこの誕生日の前かその当日に死ぬ事を全く確信していたので、私の誕生日が誤って申告されて居り、そしてやはり実際の34歳で死ぬのだ、と仮定する気持にほんとに誘(いざな)われざるを得なかった。(同上p.138)

私はいつも無から、零から初める、明日は死ぬと予期する、然し今日をかなり激烈に利用する。こういう風にして私はこっそり生き延びる――そして豈図らんや、背後に置いて来たものを振り返って見ると、私は自分自身が不安で恐ろしい、というのは、背後にあるものは非凡なものなのだ。然しその同じ瞬間に、再びもとのまゝの事が初まる、私は恐らく明日死ぬだろう、だから今日を非常に激烈に利用する必要がある、そしてこのようにして私はまたこっそり生き延びる。(同上p.143,144)

「豈図らんや」は、「あにはからんや」と読む。
意味は「どうしてそんなこと考えよう」とか「意外にも」
ってことだけど、
ここでは、「不意に」とかそんな感じだと思うよ。

よく明日世界が滅亡すると思って生きろとか言うけど、
実際そんなことが実行できる人なんていないわけで(笑)
しかしほんとにそんなことを考えながら、
生きる人がいたとすれば、
その人はストレスで早死にすること請け合いでしょう。

人々、つまり実用的な人々が私に就て言う所は誠にその通りだ、即ち、私は何の役にも立たない、私はこの実用的な世間には何の関係する所もない全く非実用的な人間だと人は言う。(…)だから私は全く余計なもので、勿論贅沢品だ、その上邪魔になるからこの世から一歩踏み出して無くなってしまえば具合がいゝようなものだ。(同上p.173)

ずいぶん卑屈だと思ったかもしれませんが、
この後、私は愛することに天才だとかなんとか言って、
こんな憐れむべき時代に、
女は愛について何も知らず、やっぱり私は天才だな
とか何とか続く。

罪の赦しが宣べられる、だが誰が驚くか? 何人も。それは可能か、おゝ、それは確かに可能か? と言う者は誰もない。それは不可能だ、不可能だ! と言う者は誰もない。
 誰も驚かない、誰も躓かない。(同上p.197)

教会がただのたまり場になってしまったからこんなことに。
日本でも病院がじーさんばーさんのたまり場になってるよね。

信仰を持とうとする人が、
教会に集まる不信心者をうっとうしがるのと同様、
治療を受けたくて病院に来る人が、
ぺちゃくちゃ雑談をしに来るじーさんばーさんのせいで待たされて、
うっとうしがっています。

本当になんとかしてください(笑)

2009/10/19
・日記さえあれば、
解説書など目ではない、
そう思っていた時期が、私にもありました…

・1月23日はレギーネの誕生日。
キルケゴールは5月5日のこどもの日(笑)

2009/10/18
四九年十一月
私の死後、著作は彼女と私の亡父に捧げられるべきだという私の意志は変わらない。彼女を歴史に属させる。
S・K・
(『キェルケゴール選集別巻 許嫁への手紙』訳:大谷長、1949、p.240)

彼女というのはレギーネのこと。
キルケゴールは日記の中で、
しきりにレギーネを歴史に残すんだと言う。

古い本はくさい。
手に匂いがつく。
ほこりっぽい。
マスクが必要ではあるまいか。
しかしマスクは嫌いだ。


・『新キェルケゴール研究』第4号の森田美芽「レギーネとキェルケゴール --- その関係の再考察」を読んだ。

なかなか面白い。
確かにその可能性を考えることは出来るし、
私も疑うところではあるけれど、
断言は出来ないだろうと思う。
論文の体裁上のやむをえない問題なのか、

今まで桝田氏を始め、ほとんどの研究者が
宗教上の問題としているのに対し、
ここまで明確に否定するのはどうなんだろう。

それなりに批判を浴びそうな内容ではあるけど、
いい意味でも、悪い意味でも
女性的な視点による分析だなと思った。
2009/10/17
キェルケゴール協会
リンク貼っておきたかっただけ。
後でいくつか読もう。

・いつか、それなりにまとまったら、
目次作ろう。


2009/10/15
わたしの記憶は忠実な妻であり、わたし自身はそうでないが、わたしの想像は勤勉な小娘で、この小娘は一日じゅうすわって静かに自分の仕事にいそしみ、夕方になると、わたしがその光景をありありと目のあたりに見ずにはいられないほど、じつにたくみに、おしゃべりをしてきかせてくれるのである。もちろん、彼女が描いてみせてくれるものが、いつも風景とか、花とか、羊飼いとかの話ばかりとは限らないのである。(『おそれとおののき』p.56、白水社)

えっ?

2009/10/15
・他人の日記を読むというのは、
なかなか背徳的で面白いものではあります。

しかしそれを実行するのは、
やはり無粋ともいえる気がして、
いつから私はそんなことが出来るようになったのかと、
まあ複雑な思いにあるわけです。

それと同じく、
他人の恋愛沙汰についても、
当人以外の者がとやかく言ったりするもんじゃねえ、
と思っており、

人の本当の人格というものに、
過度に迫ろうとするもんじゃない、
深いプライバシーを侵しにずかずかと踏み込むもんじゃない、
というのが私の主義でして、

周知の通り、
キルケゴールにはレギーネという
ただならぬ女性がおるわけですが、
この彼氏彼女の関係というのを、研究者たちは、
躍起になって突き止めようとしておられます。

しかしながら、私などは、正直に言いますと、
そんなもん必死に掘り返そうとして、
なんちゅうでばがめ野郎の集まりだ、
などと胸に抱いておったりしたわけです。

まあしかし、解説書を読むだけで、
既にそのでばがめさんたちからの
恩恵を受けておろうわけでもありまして。

いつもどおり冗長になってまいりましたが、
それは恐らく、今回日記を読んで、
レギーネについて軽く考えたことで、

それは宗教的苦悩だったか、
通俗的苦悩だったかと、

アラ、ワタクシもしかしてお下品なことをしておりませんこと?
と不意に思ったことによりましょう。
前にもどこかで言った記憶がありますね。
私は幼稚なまでに潔癖症になることがあるのだと。


でばがめでばがめって言ったけど、
その研究にものすごく助けられてるところもあるんだろうな。
ただ、そういうことを感じていたのは事実で。
そうなると、自分が見下すような仕事を他人にやらせといて、
お前はその果実だけを持ってったんかって。


・私はキルケゴールの本性を知りたいとは思わない。
彼の日記を始めて読んだとき、
私はいくらか失望感を味わうことになった。

私が魅かれた人物は、
世間や教会、そして不安などと孤独に闘う
一人の「人間」であった。

しかし仮面を一枚脱いだところにあったのは、
ちょっと高慢で、
信仰や神に必死に取りすがろうとしているみじめな姿だった。

彼にしてみれば、
それが主体的な個別者(個人)の表現であり、
私たちは倫理的なものに縛られた
普遍的なものでしかないのかもしれないが、
私はそんなものに憧れはしない。

私が憧れていたのは、
私が勝手にイメージしていたものにすぎないと、
わかっている。
それでも私は、・・・


やれやれこの先何を書けばよいのか分からなくなってしまった。
何が言いたかったんだったか。

ところで彼の日記は後で誰かに読まれることを
想定していたところがあるとかないとか。
まあそれでも、著作の人格よりは、
幾分彼本人の人格に近いとは思いますが。

ブログを書いているおかげかどうか、
人格については、ある程度経験的に分からないでもないですね。
見せる人格と見せない人格の使い分け。
公と私。

まだ少し前に読んだアーレントの新書の知識が残っているようです。
どうもこのまま消えずに定着するのではないかとすら思えます。

2009/9/20
・キルケゴールとアーレントは割りと
近いこと言ってるんじゃないかと思ったり。

キルケゴールの方は下にもあるように、
「さあ、人間になりましょう」だし、
アーレントも「人間性」を問題にしてる。
『人間の条件』なんて本を書いてるぐらいだし。
それに「活動」っていうのがまた「主体性」を匂わせる。


・心理学というのがよく出てくるけど、
この時代の「心理学」は「人間学」と考えた方がよいとのこと。


2009/9/18
・「さあ、人間になりましょう」

最近のお気に入りの言葉(笑)

キルケゴールの口癖として、
アンデルセンが皮肉った。
でもそのおかげで彼の口癖が明らかに(笑)

2009/9/14

・キルケゴールはレギーネとの関係についての
インパクトが大きいので、
その名を聞くと、

あぁ、あの元カノのために本書いてた人ね。

みたいなことを言われやすい。
キルケゴールを少し知ってる人は、
こういう理解をしてる人が多い…いや、してる人もいる(笑)

これに対して、
反論したいかなと思っても、
実際に口に出したところで、
それは相手の心に触れないというか、
どうも何か言うと、
私が信者扱いされそうで怖いところではある。

だから、そう言う人が現れても
そこで何か言おうとは思わない。

でもここでは、少し思うところを述べておく。

確かに初期の作品では
明らかにレギーネに読んでもらうことを意識しているところがある。
特に『反復』とか。

でも大事なのは、そこに書かれてあることから、
自分が何を思うか、何を受け取るかであって、
ある程度
著者の意図を無視することだって出来るんじゃないか。

ほらこう書くと何か胡散臭くなっちゃう。
自分でもこの論理はどこまで通用するのかと疑わしく思える。
ほんとにただの信者なんじゃねーのコイツ、
という見方だって出来る。

でも実際この考えはそう悪くないと、自分では思ってる。
受け取り方は自由だというような、そんな感じよ。

そもそもそんなにキルケゴールに入れ込んでるつもりはないし、
別に彼を擁護したいとかそういう気持ちも、
まあほとんどない、というか、
自分で(自分を)認識している範囲では、
そのような思いはない、といえる。

2009/8/6
・私自身の目標は、キルケゴールの理解。
そして私が表立ってみなさまに提示したいのは、
一つの生き方・考え方。
もちろん強制なんてしないのよ。

より深い理解についても(達成できれば)述べるかもしれないけれど、
それについては好きな人だけ読めばいいの。

そこのところ、よろしくて。


2009/8/5
・キルケゴールがレギーネをフったのは本当に不可解な話。
例えて言うなら、
葬式の途中でいきなり大声を出したらどうなるかなあ
人ごみの中でいきなり周りの人間を蹴飛ばしたらどうなるかなあ
そんな心の中に浮かぶかすかな、
やってはいけないと思う妄想を本当にやっちゃった、みたいな。
そんな印象を受けたね。

そしてほんとうに、神は恐ろしい仕方で罰する。重荷を負わされた良心にとっては、なんと恐るべき罰であろう。このようなかわいい娘を手中におさめ、彼女の生活を魅惑し、彼女のいいあらわしえない喜びを見るといった、憂鬱な者にとっての最高の幸福を体験しながら――しかも心の内では、あの裁きの声を聞かなければならないとは。《おまえは、彼女を手ばなさなければならない》。これがおまえの罰なのだ……。(小川1979、p.125 「誘惑者の日記」 孫引き)

「おまえは、彼女を手ばなさなければならない」
だってさ。
こんな呪いの言葉をかけてくる神っていうのは、
紛れもなくヤツのことだよね。
いかにもあの傲慢で愚かな、嫉妬深い神の言いそうなせりふだ(笑)

確かにキルケゴールはこのとき、
実の息子を手にかけようとしたアブラハムになったんだろう。
でも彼の神は、今回はとめてくれなかったようだ。


・彼はできるだけ多くの人に真のキリスト者になってほしかった。
福音を届ける一人の使徒になりたかった。
でもそのために、キルケゴールは天才だ、
または精神病のイカレ野郎だと思われてはいけなかった。
もし彼を天才としてしまえば、
読者は彼が特別な存在なのだと思い、
自分が真のキリスト者になれるとは思わなくなるから。


2009/8/4
・ギルベールの断崖の碑

真理とは、理念のために生きること以外のなんであろうか。1835年8月1日、ギレライエにて。セーレン・キルケゴール(1813-1855年)

ギレライエにて。ギルベール断崖の碑(画像は、http://homepage2.nifty.com/skrcj/kaikopic.htmから。)
1855って数字の右側が本文ですかね。
見づらいですけど。


・『人類の知的遺産48キルケゴール』 小川圭治
どうも解釈が少しずれる。
内容的にはかなり詳しいのだが、
少しバイアス? のようなものを感じなくもない。
気のせいであってもらいたいが。

青年期キルケゴールについて、
「誘惑者ヨハンネス」のモデル、「破滅の道」に言及しておいて、
遊蕩に身を持ち崩したかどうか、
微妙に懐疑的な見解を見せるところに、違和感を覚える。

変な擁護に見えるし、
それに対して疑問があるなら、もう少し論を展開すべき。
さりげなくそういうことを言って流すのは、
ずるいし、読み手を惑わす。


一部修正(2009・8・6)。
誘惑者ヨハンネスのモデルは元悪友のP・L・メラーだ。
当たり前だけど、P・M・メラー教授とは関係ない。
(名前がまぎらわしい。)

「誘惑者ヨハンネス」はキルケゴール自身がモデルだと思ってた…
ひどい思い違いをしていた・・・

2009/12/25
何で今頃修正してんだろ、と思いつつ、
仮に「誘惑者ヨハンネス」のモデルがP・L・メラーだったとしても、
キルケゴール自身が関係してないわけないでしょう。


2009/8/3
・父ミカエルの幸運は、逆に神からの挑戦で、神のイロニーに思えた。
(彼にとって)


・1825年夏、キルケゴール12歳。
一番下の妹ペトレアと、知り合いの家に遊びに行った。
そのとき木から落ち、背中を強く打ったことで、彼は猫背に・・・


・下書きカテゴリーには、単なるまとめ的なものを作っておいて、
別に何か、オリジナルなものをこしらえた方がいいかもしれないな。
でないと、本を読めば済むことなのに・・・
って話になっちゃう。
でも私に文才がない。どうしよう。ヤバイ。
本気で困ったな・・・

ブログ始めて、自分がいかに物を書けないかわかった。
今からハウツー本でも読むか?(笑)


2009/7/29

自分探しはおやめなさい

ルソーとかその辺の名前が出てるパラグラフ。
うなるような議論だね。
感動した。
彼らをそういう風に捉えたことはなかったよ。

「本来的自我が非社会的存在として表象されるようになった」

それが本来的であったとしても、
彼らの言ってる自我は社会には成り立たないんだね。
彼らの議論で引っかかる、
どこか非現実的に思えるような違和感が、
この言葉に集約されてる。
見事な表現だ。

私個人は、正直であろうとも正真正銘であろうともしている。
究極の自己みたいなのに興味はないけどね。
この記事に関して言えば、
自分探しって聞くと、お前はそこにいるだろなんて
脊髄反射のように反応しそうになるけど、
このブログを書いてることは
正直な自分と正真正銘の自分を出そうとして、
それを探そうとしているようにも見える。

ところで私は上手く芝居を演じているだろうか。
ちょっと微妙なところだ。
自分にこだわりすぎて、役どころを放棄しかねない勢いだ。
でも今のところ、そう大きくは外れていないつもりだよ。


このままじゃキルケゴール日記にならない気がしてきたので、
少しそれっぽいことを。

最近は聖書に時間を取られてあまり読めていない。
ちょっとまずいな。

あとキルケゴールでググっても、
このブログがなかなか出てこないようになった。
ひとまず安心だ。
でもやっぱり何か物足りないね。
自信を持って自分の論文をネットにぶち上げてやるぜ
って人がもう少しいたっていいんじゃないの。


2009/7/20
私がキルケゴールをブログで紹介するのは、
少しでもキルケゴールのことを分からせてやりたい!
知らしめてやりたい!
という思いからです。

だからといって、
みんなに死に至る病で言われているようなことを
実践しろというわけではなくて、
少しかじる程度でやってもらえたらいいんです。
それだけで十分すぎるほどです。
ぶっちゃけた話、自分が自分として生きるという一言です。
これさえ分かってもらえればあとはもうどうでもいいんです。
いま、ここ、の人ですからね。

じゃあ私はどうかっていうことですけど、
今私が気になっているのは、信仰がどうのこうのというところです。
確かに、死に至る病を読んでいるときは、
赦してくれる神の寛大さとか、内容の展開に、
ああこれはキリスト教を信じたくなる人も出るよな、
と思いましたが、やっぱりそれは納得いかないし、生ぬるい。

彼は何をどう信じろと言っているのかを考えつつ、
最終的に私は彼から離れるのだろうなと思っています。
どういう離れ方をするのかは、まだ予想もつかないけれど。

一回書いたけど、全文消えちゃった…


2009/7/16
なんとはなしに、キルケゴールでグーグル検索をかけてみると、
まさかの1ページ目にこのブログがヒット。
なんてこった。

別にまだ大したものは何も書けてないのに、
キルケゴールを知りたいと思って、
こんなとこに来られては困る。
せめてあと1年ぐらいしてから来いよ、と思う。
(そのときにちゃんとしたものが出来てるかどうかはわからんが。)

それもこれもすべて、キルケゴール関係者が
ちゃんとネットに情報を出さないせいだ。
もうちょっと何か書けよこのやろう。
キルケゴールで検索して、
こんなしょぼいブログが最初のページにきていいと思ってんのか。
ほんと日本のネットは学術関係が貧困すぎ。

それとグーグルいったいどういうシステムで引っ掛かるようになってるんだ。
前に見た時は、数10件ぐらいまで見てもなかったぞ。
ちくしょうめー。


2009/7/15
偉大なるダメ人間シリーズその1 キルケゴール

あんまり紹介したくなかったんだけど。
メイドキングダム・デンマーク。
実現してたら危うく、ヨーロッパ中からハブられるとこだったかも。(笑)

2009/7/12
用語集カテゴリを作ってはみたものの、
思っていた以上に難しい。

理解するのもそりゃ難しいけれども、
それよりどう書けばいいのかわからない。
やさしめか、むずかしめか。
引用を多くするかどうするか。
(引用使うほうが圧倒的に楽なんだけど。)

そもそも何のために作ったんだっけ。
どうすればいいのか全然わからないので、
しばらく放置になりそうだ。


ヘーゲルを見てて思ったけど、
キルケゴールはヘーゲルの概念にかなり依存してないか、これ。
ヘーゲル研究者は、ヘーゲルは抽象的なことなんかに
弁証法を使ってません!!
変な言いがかりつけんな!!
とか言ってるし、どうしよう。

行くとこ行くとこ、どこも袋小路みたいで、
どこへ行けばいいのかなあ。
どこまで行けばいいのかなあ。


2009/7/9
『不安の概念』より

現実性のなかでは、もうそれ以上沈めないほど深く、あるいはもっと深く沈んでいる人影が見えないというほど深く、沈んだ者はない。だが、可能性のなかへ沈んだものは、眼がくらみ、物が見えなくなって、そのため物事の目安、というのはそのへんの誰かれが溺れる者に投げてくれる藁だが、それをつかむことができない。その耳はふさがって、そのため同時代人が人間につけている通り相場、おまえも人並みの人間だという声、が聞こえない。かれは絶対的に沈没したのだ。しかし、やがてまたかれは深淵の底から浮かびあがってくる。人生のありとあらゆる重圧と恐怖に打ち勝つ軽やかさで——。(白・全10 p.235)

最後のほうがカッコいいよね。
沈んだと思ったら、復活だよ。
シーンが思い浮かんできそうさ。
中二病っぽいか(笑)

問題は本当の不安とか、可能的なものとかが
いったい何なのかというのを、はっきりさせることだろう。
そうでなければ、ただの観念論と何も変わらない。
個人がそれをイメージできるようにしないと。
今は精神論スレスレな虚弱なイメージしか湧かないので、
もう少し具体化すべきか。

すんなり納得できるものは、
そうなるように、適当に解釈してるからそうなんだ。
わかりやすいものがいつだって正しいとは限らない。
むしろわかりやすさこそ疑うべき。

一般論は一般論であるがゆえに、恣意がはたらきやすい。
よく解釈で問題になる憲法と同じだ。
はたしてどう応用させるか。


回り道ということで、
今ヘーゲルについて少し調べているところ。
もう少し早くこちらに取り組むべきだったかもしれない。


ところで、下書きで
キルケゴールと親父の関係を書いてみたが、分量に悩む。
あれで2ページ分ぐらいだったが、
ブログに載せてみたら、意外と少ないなという印象。
無駄に長くなるよりはましか。
あれくらいの量を目安に考えていくとしよう。
もし、長さについても何かあればいつでも聞こう。
必ずしも反映するとは限らないけれど、
心の奥に秘めてるだけじゃ、それは、ないのと同じでしょ。

2009/7/6
『不安の概念』より

(現代において、)真理はその範囲と分量において、また部分的には、抽象的な明確さにおいて、増大しつつあるけれども、しかし確信はたえず減少しつつあるということ。現代では何という異常な形而上学的、論理的努力が、霊魂不滅に対して、ひとつの新しい、十分な、絶対的に正しい、従来いっさいのものを集大成した証明を与えようとしていることだろう。しかも奇妙なことに、こうしたことがなされているのに、確信の方はたえず減少しているのだ。(……)霊魂不滅の証明をすることはできるが、自分ではちっとも納得がいっていない人はみな、およそ人間が不滅であるということはどういう意味であるかということに関してさらに徹底した理解を迫るようなあらゆる現象に対して、いつも不安をおぼえることだろう。(白・全10 p.207)

ちと引用しとく。あと今更だけど、この記事では他人から見たわかりやすさとかは、ちょっと無視しがちになるかもしれない。基本的に自分のメモ帳代わり。

いくら真理を論理的に証明できたって、人は全然それを信じようとしないじゃん。
そんなんだから、現代人というやつは、不安を抱えて、歪んでんだよ。
思想家とかいう連中も、そんな証明は、
体力と時間と文房具の無駄使いなんだよ。
いま、人間に欠けてるのは確信、これだね。




2009/7/3

現在『不安の概念』110ページ程。
本当に読みづらい。
1時間で10ページぐらいしか進んでいない。
意味不明すぎて、発狂しそうになる。


キルケゴール研究者のキルケゴールに対する考えが
少し強すぎるような気がする。
(まあキルケゴールだけに限らないだろうが。)

キルケゴールを読む上で気をつけなければならないのは、
彼は接続的な使い方を頻繁にしているところで、
言外の部分を読み解かなければ、
その解釈は全くどうしようもないものになるらしい。

確かに彼は二義性とかいうことを頻繁に言って、
ある言葉の意味をあまり一義的にとらえさせようとしない。
本人も自分の著作を「すかし絵」とか言ってるらしい。
そこにキルケゴールを読むことの難しさがあると。

それは結構だが、
そんな事を言われると、まさか自分たちで
その言外の意味とやらを、自分の訳にとりこんでやいないだろうな
と疑ってしまう。

字面においては、書かれた通りに訳してあると言われても、
マイ・キルケゴールを訳書に反映させてるんじゃないかと、
不安を感じずにはいられなくなった。
(ドイツ語もデンマーク語もさっぱり理解できないことがもどかしい)

それから、カテゴリー内で少し分けたが、
たぶんしばらく、著作に関しては書けないと思う。
どうやらもう少し、回り道をしなければ、
より正確な理解は得られないと感じた。

No title

キルケゴールは桝田訳で読んでます? 桝田訳がいちばん読みやすいですよ。 白水社の全集はドイツ語訳から日本語に訳し直したもので、bqさんの感じてるような危険がつきまといます。 それを反省して創言社から原典から訳した全集が出てますが、あれはあれでまた読みにくいようです。 英語版は日本語よりはデンマーク語に近いでしょうけれども。 いっそデンマーク語やってしまうのが一番はやいような(苦笑

Re: No title

桝田さんのは、後から読みたいなと思ってます。
彼がキルケゴールに一番思いいれが
強そうな気がしました。
だから、先にこちらを読むと、
彼にあてられるというか、
へんな言い方ですけど、洗脳されそうな、
混乱しそうな気がしたので、
まずは色んな人の訳を読んでおきたいと思っています。

それに分かりやすいことが、いいことなのは、
適当にかじる程度の人にとってだけかなとか。
(しかし自分がどれだけそこから抜け出せるのやら。あ、でも日本語的に読みやすいということなら大歓迎ですね。)
とはいえ、霧の深い森の中を歩いているような気分です。
手探りで彼の断片を拾い集めるって感じです。
いや自分でも何言ってるのかよくわかりません。
でも読んでた時、森の中のイメージが浮かんだ。
迷うし不安だし、つらいぜっ。


今からキルケゴールを読めるレベルまで、
デンマーク語を学ぶとか、
その労力を考えると泣けてきそうです(笑)

この休みで『不安の概念』読了します!
しかし感想というほどのものすら書けそうにないですね。
手元の解説書を読むべきか。
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Author:bq69pd
以前に鳥取で大きな地震がありましたため、日本一危険な国宝とされるあれ、投入堂はしばらく見ることができないかと危ぶまれてましたが、実は今年の4月に開山されてたんですよね。危険ではありますが上がっていくと見晴らしはすばらしく、一見の価値はあるんではないかと思われますよ。私もちゃんとのぼったよ。

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