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著:唯円・述:親鸞『歎異抄』訳:川村湊

光文社古典新訳文庫から。
文体が関西弁ってとこが驚き。
わかりやすく表現することへの
意気込みが感じられる。

歎異抄ってこんなに短いものだったんだ。
実質40ページほど。
これだけで十分といえば十分だけど、
まあついでに解説ぐらい目を通すべきだろう。

歎異抄は、
親鸞が言ってたことを、
弟子の唯円が、
近頃、師匠の親鸞聖人の言ってたことと
「異」なった教えばっかりねつ造されてて
嫌になるわぁって「嘆」いて書かれたんだね。
ソクラテスとプラトンみたいだね。

親鸞といえば悪人正機説。
いい奴だって救われるのに、
なんで悪いやつが救われんことがあるかいな。

あんた言ってること迷ってるんと違うんかいな、
と思わずつっこみたくなるひとこと。

どうしてこういう論が出るかというと、
善人は頑張っていいことをしまくることで、
これだけいいことをすれば、
自分が救われないなんてこと
あるはずないって、
思ってしまうから、
自力本願となって、
(「自力本願」という仏教用語はないけどわかりやすいから使う)
自分の力だけで極楽往生できるという
うぬぼれがけしからん。

悪人は、
悪いことをしてしまう。
悪いことをしてしまったら地獄に落ちる。
やだ、でも地獄落ちはやだよぅ。
でも悪いことしちゃったし…。
もうだめだ、
かみさまほとけさまお助け!
という具合に、
どうしようもないレベルで
仏にすがる以外手段がない。

このような場合、
いくら善行を積んだところで、
自分の犯した過ちは消えず、
ゆえに自分は極楽往生できぬ
という意識が生まれる。

そのとき、
自分の力を頼るわけにはいかなくなり、
別の何か強大なものに頼るという
考えが生まれる。

そこに現れるのが仏(阿弥陀如来)であり、
阿弥陀様のすべての人を救うという本願に
心の底からすがるという
意識が生まれうる。

このようにして、
信心深い悪人のほうが
救われやすいという論理が展開できる。

しかしそれなら、
いくら悪いことをしても
結局救われるのだから、
何をしてもいいのではないか、
という考えが当然生まれる。

だから後世の人は、
この思想を紹介するときに、
用法に気を付けてね、
と注意書きを残したのであった。

すでに本書中に述べられる通り、
進んで悪を行う行為は、
薬があるからとわざわざ
自分で毒を食らうことと同じなのだ。
そんなことをしなければならない
理由(因果)というものは存在しない。
だからしないのである。

そもそもこの世に善行しかしない
完璧な善人は存在していない。
人は生きてることが罪だから、
よその宗教にも原罪とかいうのがあるが、
結局同じこと。
つまり自分が善人だと思い込むことが、
浅はかなうぬぼれで、
間違いであるということ。
そして仏の力を信用できぬ
けしからん輩ということになる。

そもそも最初から、
「善人」と「悪人」の定義を
はっきりさせないからわかりにくい。
善人ぶってるやつが悪で、
自分の罪深さを謙虚に認め、
仏に帰依するやつが善なのだと
そう言ってしまえばそれで済むんじゃね。

と、思いました。

ちなみに悪人正機説って
今では親鸞の専売特許じゃなくなってるんだね。
師匠の法然さんもすでにそれっぽいこと言ってたらしい。
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