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『死国』坂東眞砂子/『ホラー小説でめぐる「現代文学論」』高橋敏夫

坂東眞砂子『死国』

だから、
私はド田舎が大嫌いだと
言っているだろう。

こういうところには
論理や理性とかいうものがない。
もしくは著しく欠けている。
無論こういうものを好む考え方が
私個人の問題であり、
そのこと自体、
当の論理や理性などによって構築されたとも、
また「善さ」や「正しさ」といったものとの
関連付けを行うことが
できているというわけでもない。

なれば、
私も根っこのところでは
その嫌いなものと
つながっていると言うことは
できるのかもしれない。
もっとも、私はそれに納得しないが。

我ながらうっとうしい言い回しだ。
それはさておき、
こういうところに出てくる
ド田舎はどうしてこうもわけの分からん風習を
持っているのか。

墓地には、人がいた。鎌を手にした村の老女たちだった。女たちの足許で、妻の棺桶が開かれていた。鎌が振り上げられ、節子の下腹部に突き刺さった。そして黒々とした塊がひきずり出された。胎児だった。手足が、丸焼きにした鶏のように縮こまっていた。鎌の先の黒い血が、粘るように滴り落ちるのが見えた。
 悲鳴をあげて止めに入ろうとした直郎を、後ろから太い手が幾本も伸びてきて止めた。村の男たちが、暴れ狂う直郎を墓地から連れ出していった。
 身籠ったまま死んだ女は、埋葬後、腹の子を取り出して、二つ身にしてもう一度埋めないといけない。そういうしきたりがあると知ったのは、後のことだった。そうしなければ、母も子も共に山に行くことはできない。永遠に、この世をさまようことになるというのだった。
」pp.277-278

これはフィクションだ。
しかし、そうではないかもしれない
という真実味も
あったりなんかしちゃうような気が、
しなくもない。

閉鎖されたコミュニティの中では、
何が起こってるかわからないし、
何がされてもおかしくはない。
無法地帯に近い。

こういった中で、
もし残虐な風習が現れるとすれば、
それは人間の本質に
残虐な部分があるからだろう。

そういう酷いことをしたり、
見たりしたい気持ちがあるのだろう。
それは構わないのだが、
やはり風習とか、
決まりとか、
そういう理由付けで
行為を正当化している辺りが
気にくわないし、
そこまで考えが及びもしないであろう彼らは、
バカでたちが悪くて、
さいてーだなと思ってしまう。

いやまあ
正当化しようがしまいが気持ち悪いし、
実際この正当化こそが
ギリギリでのストッパーとして、
それ以上の暴走を
止める役割なんか持ってたりしたら?
つまりそれがある範囲内まで
という限定規則として、
残虐性が全体に無差別に
適用されるのを防いでいたら、
あれ? どうしよう・・・って感じで
もう何が正しいかわからなくなってきたし、
考えるのがめんどくなってきたので終了。

最後に本の全体の感想としては、
ちょっと微妙。

一番気になったのは、
出てくる人間どいつもこいつも
異性のことしか考えてないとこ。
恋愛小説かっ。
お前ら恋愛要素以外に
大事な価値観ないんかい。
もっと言うなら、
下半身以外にも使うとこあるだろとか。
『古事記』も出てくるから、
そっちに影響されたんだろか。
神々もヤってばっかだったから・・・。


高橋敏夫
『ホラー小説でめぐる「現代文学論」』


ちょうど同時進行でこっちの本も読んでたからついでに。

彼はホラー小説家として
坂東眞砂子を高く評価していて、
『死国』もいいとほめている。


ただ、私はあまりこの本をホラーとして読めなかった。
どちらかと言えばミステリーの読み方に近い。
ホラーを長編でやろうとするとやっぱり難しいんだと思った。
結末はどうなるだろうと思いながら読み進めていたが、
特に怖さを感じながらということはなかった。


常に一定の恐怖を同居させて進めていくのは、難しいのだ。
それに、そんな本があっても読むのに疲れそうだ。
脅え疲れるわ(笑)
私には短編のがあってそうだ。


ところでこちらのホラー小説論だが、
ホラー小説の定義が微妙に引っかかる。
血なまぐささとか、すぷらったとか語ってるけど、
それはただのグロだろうと思った。何か違うと思う。


あとこの人、自分は横断的にやるとか、
ナントカ研究者みたいな肩書きはいらない、
専門家の檻にとらわれないとか、
アマチュア精神で云々な感じらしいけど、
これを読む限りでは、単なる社会学者にしか見えなかった。
彼の言う「ホラー」と「解決不可能性」がしきりに結び付けられながら、
社会の分析が行われるのだが、
それこそ「ホラー」を通して見すぎることで、
別の見方といった可能性が消えてる感じがした。


それと、ちょっとお遊び感も拭えない。
自分なりの分析のあとの結果とか展望とか、
何も提示されず丸投げ感いっぱい。
そもそもこの本の内容が、早大の先生が講義で話したことをそのままのせたって感じだから、ほんとうに学生向けのお遊びだったのかもしれない。
本人が割りと楽しそうにやってるなっていうのは分かった。



おまけ
講義の最後に学生たちに課された問題に答えてみよう


1.わたしたちは、ホラーだけではなく、多くの作品、メディア、出来事と乗り合わせているにもかかわらず、どうして「ホラー」なのか。

A.
「ホラー」が今の社会にある閉塞感、「解決不可能性」などのようなものによって表現されていて、我々の絶望すべき状況を最もよく捉えているから。そしてそのような社会の「ホラー」的状況が、今の状況はますます下へ下へと突き進んでいくであろうことを予期させ、人の気をより滅入らせる。故にフィクションとしてのホラーが今の状況をそのまま対象化して表現してみせ、我々の認識を確かにしてくれる、目覚めさせてくれるから。また、そのような確たる認識のなかに、我々による「対抗」の契機がある。

2.そもそも、ホラー(恐怖)とは何か。

A.
「解決不可能性」という不気味さ、理不尽を備えつつ、「スプラッター・イマジネーション」を想起させるようなもの。血まみれのうちにある「壊れ」や「内破」といったように、「グロ」と領域を共有するところもあるが、ホラーにはグロのようにその場限りの気持ち悪さではすまない、より一層の絶望感が存在する。「壊れ」が身体的な破壊にとどまらないためである。つまり、ホラーとはグロとしての「壊れ」を包含しつつ、社会に関わる大きな「解決不可能性」結びついた時、人々がグロを超えた「壊れ」を否応なく感じさせられてしまい、恐怖せざるを得ない対象物である。

3.ホラーを乗せている社会および時代とはいったいどういう社会、時代なのか。それはいつはじまったのか。

A.
(ホラーと社会の関連性なんて調べたことないし、知るか)
「解決不可能性」にあふれた絶望すべき社会・時代。ホラーを通じて「突破」しなきゃ。始まったのは、「エロ・グロ・ナンセンス」が言われてた1930年代ぐらい。
ってお前が言った気がする。

4.ホラーに乗り合わせてしまったわたしたちはいったい誰で、これからどこに行こうとしているのか。

A.
あーもうめんどくせえ。
知らねえ。
行けるとこまで。
単位よこせ、オラァぁぁぁ


単なるおまけがえらい長さに。
念のため、
あまりここに書いたことを真に受けないように。
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bq69pd

Author:bq69pd
以前に鳥取で大きな地震がありましたため、日本一危険な国宝とされるあれ、投入堂はしばらく見ることができないかと危ぶまれてましたが、実は今年の4月に開山されてたんですよね。危険ではありますが上がっていくと見晴らしはすばらしく、一見の価値はあるんではないかと思われますよ。私もちゃんとのぼったよ。

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