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A.E.マクグラス『キリスト教神学入門』訳:神代真砂実

外国の方が日本語訳してくれたのかと思いました^^

読みにくい、日本語が。


この本、長いので章ごとの感想になりました。


・1~3章あたり
神がどうとか信仰がどうとか
明らかに非合理なことを言ってるのに、
自らを合理的に説明しようとしているのは、
滑稽としか言いようがない。

自己弁護のために意見をまとめようとする公会議とか、
いかに優れた信仰かを証明しようとする書物とか、
余りに俗っぽい。
そういう俗っぽい精神がどばどば出ちゃってる神学は
もう「宗教政治学」とかにでも改名した方がよい。

宗教でも何でも組織が大きくなってくると
どこかおかしくなってくるのは変わらないんだなと思った。

もし本気で神とか信仰の世界に入るのなら、
そういう俗っぽい考えは捨てて、
ただひたすら信じ続けるしかないのではないかと思った。

まさかそんな自分の信仰を
正当化していよう暇などあるはずもなく、
真のキリスト者に到る道の険しさというものを
改めて感じさせてもらった。
信仰は盲目だね。


聖書なんてただのファンタジー作品が
何でここまで大きくなってしまったのか。
実際のところその内容なんてどうでもよくて、
ただみんな何かにすがりたくて、
そんな時に神様について色々書かれた本があるから、
ちょうどいいやって精神安定剤のように
利用し始めたのが最初なんじゃないか。

著者(たち)はどうなんだろう。
世界最大のベストセラーを狙ってたんだろうか。
文学部にでも収まってる方が似合ってるよ。

・第4章
啓蒙思想やダーウィンの進化論といったものが出てきて、
科学的、理性的な考えが広まる中で、
このままではキリスト教が人々に受け入れられなくなるから、
もっと柔軟な解釈が出来るようにしようとする。

信仰が科学の進歩にあわせて、
そこに歩み寄る理由は、
信仰する個人にとっては全くないだろう。
神についてとても人間が
理解することの出来ない存在だと言いながら、
理性によってキリスト教を正当化するのは、
神や信仰を理性のもとに引き摺り下ろす行為のようである。

神学とはまさにそのようなものを
学問や権力のための道具として使う。
または使えるようにするためのものでしかないのではないか。
それは単なるおままごとで、お戯れであろう。


「信仰主義」…自らの領域の外部からのあらゆる批判を受け付けない信仰の体系(p.156)
私が言うのはここに入りそう。
しかしその信仰が個人の行うものである限り、
批判されなければならない理由はないように思える。
信じる者が救われるのだとしたら、
正しいとか間違ってるとか、
関係ないんじゃない?

・第6章
理性の下に生きてきた私達が信仰に到るのはとても難しい。
それに、本気で信仰に入ろうとすると、
色々なものをなくしてしまう気がする。
だからこそ失うものが少ない人の方が
信仰に入りやすくなるというのは、
個人の行為の積み重ねというようなものが
否定されてしまうようで、
どこか皮肉っぽく、
また報われない思いがいたしますな。


ルートヴィヒ・フォイエルバッハ
「もし感情が宗教の本質的な手段や機関であるなら、神の本性というのは感情の本性の表現でしかない。……感情によって理解される神の本質というのは、感情の本質でしかない。自分で恍惚とし、喜んでいる感情、自分に酔い、自己満足に浸っている感情でしかない」。(p.271)

いくら信仰を個人のものだとしても、
信仰の対象が自分の作り上げた空想の神でしかないとすれば、
信仰は単なる妄想となるだろうか。
ではどうすれば信仰できるか。
神学によって神の正体を突き止めるか。
神は人間の思考の範疇を超えているようだからそれはムリだ。

キリスト教ならばイエス・キリストという便利な媒体がある。
しかし、イエス・キリストを経験していない、
直接的に知りもしない人だか神だかを、
どう信仰するのだろう。
それこそ歴史の作り出した虚像ではないだろうか。


・第7章 啓示がどうとか
神は自然の中に見出せる。
この世界に秩序があるということが、
神の存在証明であって、
自然観察の中で神性、神の痕跡を見出せる。
また人間が神の似像として作られたのだから、
人間の中にも神性が存在している。

では何故この世界や人間の中には、
悪(と思われるもの)があるのだろうか。
神は完全で、この世界は不完全だから?
それはおかしいだろう。

完全なはずの神が不完全なものを創り、
それをそのまま放置しているのか?
人間に悪があるのは、
神がコピーミスして、バグが起こったから?
そんなバカな。

このことから言えるのは、
もし神があったとすれば、
神の中に悪が存在しているということではないか?
まあしょっちゅう人間に試練とやらを与えて、
選別ばかりしている神ならば、
さもありなんという感じはするが。

・第8章
ジョン・ポーキングホーン(物理学者・神学者)
我々に物理の世界の実在性を理解させる、たとえ量子理論の捉えにくい世界においてその実在性が叙述可能ではないときでさえも、それを理解させるのは我々の能力なのである。これによって物理学は神学と多くの点を共有することになる。というのも、後者は叙述不可能なものの理解を求めて探求するのだからである。(p.316-317)

あるものが観察できないからと言って、
それが存在しないものだと言えるわけではない。
顕微鏡の発明によって、
それまで目で見ることのできなかった
様々な生き物やウイルス、物体が、
実際に目で(顕微鏡のレンズを通してだが)見えるようになった。

そして今、量子理論の世界では、
電子、中性子、クォークなどの目に見えないものの存在を仮定し、
あらゆる物質はそういうものから構成されていると考えられている。

神学者、先の自然神学者は、
この世界が神なしではあり得ないと考えた。
宇宙にはダークマターという今なお観察されえぬ暗黒物質が
宇宙の構成物として存在しなければならぬと言われるように。

特に私達が見たこともない原子とかいうものから
全て、自分の体すら、構成されているということを
「知っている」というのは興味深い。

やはり神を信じる信じないも、教育によるのだろうか。
そうだとしたら、それは残念だ。
私はやっぱり人間は後験的な生き物なのだと思う。
もし私がキリスト教国に生まれていたら、
熱心な一神教信者になっていたのだろうか。
考えるだけで気持ち悪いな(笑)


カルヴァンの主張によれば、神や世界に関するあらゆる聖書のことばを字義通りにとるべきではない。というのも、そういうことばは聞き手の能力に適合したものなのだからである。聖書は、見たところ太陽が地球の周りを回っていると描いているように見えるが、これは聞き手の世界観に適合したに過ぎないのであって、宇宙に関して科学的に語っているのではない。」(p.356)

もう何でもありじゃないか。
何でそんなに必死なんだ。
聖書は聖書作家たちによる創作でしたって、
言っちゃえば楽になるのにね。

・第9章 神論
旧約聖書も新約聖書も、神については男性形の言葉を使っている。……つまり父とか主とか羊飼いといったものも男性である。そうすると神は男性なのであろうか。」(p.363)

聖書書いた奴が男だったんだろ、終了。


神が全能であるならば、神は何でも出来る、と。もちろん四角い円や丸い三角形を作ることは神には出来ない。論理的な自己矛盾だからである。」(p.385)

神が、論理学に、負けた…


「神の絶対的力」と
「神の規定された力」とを分けたのは、
うまいやり方だ。

「全能の神」は何だってできるのだから、
犯罪だってやれるだろうと言われてしまうわけだが、
こんなものを認めることはできない。

そこで神は自由な決断、自由意志による選択を行い、
自らの力を規定すると言うのだ。
たとえば神はこの世界をつくることもできたし、
つくらないこともできた。
しかし神はつくる方を選んだ。

神は確かにどちらを選んでもよい力を持っていたが、
一方を選ぶことで、もう一方を自ら破棄したのだ。
「今や」神に世界をつくらないという選択はできないが、
それは神の全能を否定するものにならないのである。


トマス主義(p.392)
一流のピアニストはピアノをうまく弾ける。
しかしピアノの音が狂ってたら、
何を弾いても悲惨なことになる。
神も同じなのだ。
神は世界の秩序を守る最高の管理者なのだ。
にもかかわらず、この世に悪がはびこるのは、
この世界が悪いのであって、
神は何も悪くないのだ。

確かにピアニストはピアノが悪かったら、
このクソピアノ職人が!
とか言えるかもしれませんが、
神様はどうするんですか?

と、神は人間の自由意志を尊重したのだ、
とか言えば何とかなりそうだ。
しかし、こうして弁明すればするほど
神というのはうすっぺらくなっていくような。


悪はどこから来た?(p.403)
神はもちろん世界を善くつくったのだから、人間が悪を選んだんだよ。

え、神さまが善い世界つくったんじゃないの?
人間はどこから悪をもってきたの?
どこに悪の選択肢はあったの?

そりゃお前、サタンだよ、あの悪魔のヤロウが人間を悪に引き入れてだな、…

えー、善い世界なんでしょー、何で悪魔がいるのー?

あぁ、あ?
お前さんもしつこい奴だな、
あれだ、天使だよ、天使が堕落したんだよ。

どうやってー?

あー、もううるさい!

キャラを見失いました。

・第10章 三位一体論
「様態論」のどこが異端なのかさっぱり分からない。
神を太陽にたとえてるのもうまいものだと思えた。

太陽は光と熱と球体からなる。
球体が「父」、光が「子」、熱が「聖霊」。
子は光線のように、あるときに発せられ、
またあるときに、その光は戻っていった(夜になった?)。

熱としての聖霊は常に保たれたままで、
受けられる奴が受ける。

全く問題ないじゃないか。
一つの実体(substantia:スブスタンティア)に
3つの位格=仮面(persona:ペルソナ)で、
それぞれの仮面が演技しているというのと
どう違うって言うんだ。

・第11章 キリストについて
よくアダムとイブが
知恵の木の実を勝手に取って食べたとかで、
人間は皆罪人となったが、
イエス・キリストがその罪を償ってくれたのだとか言う。

これによってあらゆる負債は支払われ、人間に課せられていたあらゆる罰金も支払われた。」(p.509)

これってよく考えるとおかしくないか。
神が課した罰金を、神がまた自分で払ってるんだぞ。
一体何がしたいんだ。
やり方が回りくどい。
さらに意味不明なことに、
自分を信仰しろとか言っちゃってる。
自己愛かよ。

第12章 啓蒙主義的合理主義
この章に入ってからはスラスラと、
読むペースが上がったのに気付いて、
やっぱり自分はこっち側なんだなと思った。
史的イエスの探求なんかは面白いね。
奇跡とか復活とかあるわけねーだろ、と。

イエスは単に素朴なユダヤ教信者であって、
自分の名前の付いた新しい宗教作る気なんてさらさらなかった。
ローマの支配から民衆を解放してくれるメシアが現れる、
神はきっと自分を見捨てはしないだろうと信じていた。

しかし十字架において彼は、
「捨てられた!」と叫び、
最後には自分は騙されていて、
間違っていたことに気付く。

これを彼の弟子どもが、このまま終わらせず、
イエスの当惑を隠しつつ、
イエスの復活や、イエスの死が人間の罪の贖いだとか
彼の知りもしなかった教理を発明して、
新約聖書をわけのわからんものにした。
アンチキリスト教が喜んで飛びつきそうな話だ。
しかし次の言葉も耳を傾ける価値はあるだろう。

自分が客観的な歴史的方法の使用者だと考えていて、自分たち自身が歴史によって条件づけられた現象であるとは考えなかった。」(p.533)

自分という存在が、単に歴史の中で必然的に生じた一つの現象でしかないのではないか、つまり自分の意思とかは関係なしに、歴史が勝手に今の私を生み出しやがったのではないか。
この考えを完全に認める気はないが、では否定できるのかと言われれば、それもまた難しい。あらゆる解釈は生じるべくして生じるのではないか。その中で一つの解釈に安易に飛びつくことは、自分をその一つの範疇へと押し込んでしまうものであり、自分を歴史の中の徒花にしてしまうことではないか。
なんちゃって(笑)
これでも運命とか一切信じないタイプなの。

第13章 救いとキリスト
キリストの「犠牲」とかいうのをやたらと強調するけど、
これが疑問に思えてしょうがない。
キリストは自分で自分を殺してくださいなんて言ったわけじゃなくて、
勝手に殺されたんじゃないのか。
それで何で「犠牲」だとか「救い」だとか言って浮かれてるんだろう。
キリスト担ぎ上げられてるんじゃないか?
と思ったが、
そういえばこのあと「復活」したんだったな。


啓蒙主義者たちが
受け入れがたい宗教的=非合理的なものを
削ぎ落としていくと、
何か大したものではないような、
あってもなくてもいいような、
そんな残りかすのようなものにしかならないけれど、
そうまでして宗教を残しておきたいものなのだろうか。

それ程捨てがたいものなのだろうか。
私にはよくわからないけれど、
完全に捨て去ってしまうのは怖かったりするのだろうか。

第14章
全ての人間の源であるとされる
アダムとイヴは「神のかたち」に創られ、
エデンの園で二人は完全な存在だった。
今人間が現実に苦しめられているような悲惨には縁がなく、
新型インフルエンザ? 何それ?
という世界に住んでいた。

しかし彼らは神から離れて、
物質世界へと向かってしまった。
こうして全ての人間が
「神のかたち」からは損傷を負った存在になってしまったのである。

さて、それではキリスト教、キリスト教会が
望んでいるのは一体何なのだろうか。
全人類の救済?
世界に再びエデンを取り戻す?

私には彼らの目的が何なのかよくわからないが、
たとえば今挙げたようなものだったとして、
それが現実化したとき、
人はみんな幸せになれるのだろうか。

よく天国のイメージとして
ひたすら惰眠をむさぼっているだけのような世界が示されるが、
そんな退屈そうな世界に人は耐えられるのだろうか。
この世にエデンが到来した時、
人はきっとまた同じ罪とやらを犯すと思う。
アダムとイヴだって、
そうやってエデンから逃れようとしたんだろう。

第15章 教会
キリスト教で最も悪いと思っていたのが、
この教会というもので、
しかし教会は何でそれほど重要に見られているのか
(コミュニティとしての役割は措いて)がずっと疑問だった。
ここを読んでみて、教会は日本の天皇と似てると思った。

天皇は、神の血を引いていて、
少し前までは人間とは違った扱いになってたけど、
教会も、キリストが使徒を立てて、
その使徒が教会を建てたということで、
この連続性が重要なのである。
また、教会あるところキリストあり、
ということで、
教会の存在がキリストの現臨ということを
示したりなどしているのである。
たとえるなら、キリストがパパで教会がママみたいな。

ちなみに何で私が教会がダメだと思うかと言うと、
俗世的な権威にしか見えないから。
それに歴史を見ても散々悪いことしてるしね。
魔女狩りなんてのは狂気の沙汰だったよね。
科学の発展にもかなりの障害としてはたらいたよね。

・第16章 サクラメント
303年、
キリスト教会がまだローマ皇帝から迫害を受けていた頃、
キリスト教の本を燃やして、
教会を壊せという命令が出た。

その時燃やすために
自分から本を引き渡したキリスト教指導者たちは
「traditores(引き渡した者)」とされ、
これが「裏切り者(traitor)」の語源とされる。
この迫害はコンスタンティヌス帝がキリスト教に改宗した313年に終わった。

さてここで問題、
当時「引き渡した」連中が信者に対して行うサクラメント、
洗礼は有効か否か。
答えは有効、
人間は多かれ少なかれ罪人であって、
誰がよくて、誰が悪いか決められるのは、
神のみである。
洗礼は洗礼という行為として意味がある。

ふむ、どうもこれが納得いかない。
あからさまにキリスト教を裏切った人間、
神への反逆者ともとれる人間が
相も変わらず指導者として偉そうにふるまえるとは、
不思議な話である。

それなら、キリストを売ったユダだって
使徒の一人として地位はゆらぐことがないのではないか。
ユダとtraditoresは変わらないだろう。


聖餐式のパンとぶどう酒について面白いたとえがある。

……女王の指輪を考えてみよう。そして、この指輪について、二つの全く違った文脈において考えてみよう。第一の文脈においては、指輪は、ただあるというだけである。机の上に指輪がある様子を思い描いてみればよいだろう。そこには、どのような他のものとの連関もない。今度は、指輪を別の文脈においてみよう。女王が、王からの贈り物としてそれを指に嵌めているところを想像してみよう。指輪は今や人格的な連関を持つようになる。王との関連で、王の権威や権力や威厳を持つようになるのである。指輪の価値は、指輪の材料の金よりも高くなる。このような関連が生じてくるのは文脈の変化によってである。指輪そのものには何の変化も起こっていない。
これが聖餐のパンにも言えるというのが、ツヴィングリの主張である。(p.712-713)

さすがに信者でも、
パンとぶどう酒が本当に
キリストの肉と血になるとは信じ難くなっているのか。
しかし一番の謎は、
キリストが自分でこれが自分の体で、
自分の血だとか言ったとされることだろう。
何グロいこと言ってんだ。

第17章 宗教も色々
デイヴィッド・トレイシー
多元性全体の中に、単一の本質、悟りや啓示の唯一の内容、唯一の解放の道を見出すことは出来ない。

ジョン・B・カブ・Jr.
宗教などというものはほんとうには存在しない。あるのはただ、伝統、運動、共同体、人々、信条、実践なのであって、これらは多くの人々が宗教という言葉で意味するところのものと関連づけられている諸特性なのである。(p.738-739)

自分の気に入らないものは全て宗教として、
まとめてぺちゃんこにしてやるぜ、
とそれらの(一つの)本質を探ろうにも、
どうやら今の世界にある宗教的と見られるものを観察しただけでは、
見つからなかったようです。

第18章 終末論
世界の究極的変革はまだこれから来るものではあるものの、確信をもって待たれなければならないものなのである。」(p.754)

「神の国」の到来は既に始まっている。
「近づいている」ものではあるが、
その完成は将来においてなされるべきであろう。

もう2010年だけど、
どれぐらいの近さなのだろうか。

それに始まってるとか言われても、
全然そんな感じはしないな。

いつ来るか分からんけど
きっと来るよとかいうのも詐欺師みたいだ。
これを信じてる人のリストを作れば、
カモリストとしてその道の人に売れそうな勢い。
結構長々と書いた。
別に個人で宗教やってる人に対して、
変な人とか、あぶないとか、怖いとか
そんなこと思わないし、実際に会っても、
それ程気になるものではない。
寧ろ信者でもない私がこんなものを読んでいる方が
よほどおかしく思われる。

しかしこれを学問でやってる人というのは、
途中でさめたりしないのだろうか。
神学者も一人の信者だとすれば、
一信者としての見方と、科学者としての見方では、
明らかに矛盾してしまう場面が出てくると思うんだけど

一般法則論のブログを読んでください。 

 一般法則論のブログを読んでください。 

   一般法則論者

 あなたのもっともな疑問に答えることが出来ているかも。

Re: 一般法則論のブログを読んでください。 

2月15日の記事を読ませてもらいました。

私のパーソナリティーをどう分析して、勧められたのかがよく分かりませんが、相容れられそうにありません。
決定論とか神といったものは、私には受け入れられません。

そういうノイズ(私からすれば)を取っ払って、
読んでみたとしても、思ったことがそのまま
因果法則によって実現するなどというのは、
あまりにとっぴな話です。
まるで人間が機械のようです。

これを信じることが出来ない人間は思い通りに生きられないんだというのは、よく見る宗教家の言い回しのようです。
それに、それが真理で、また全てはその原理によって決まっているのだとしたら、なぜ一般法則論が大勢を占めることがないのかという疑問も生まれます。

これに従う一般法則論者であれば
誰でも自分の思うがままの人生を手に入れられる感じですが、
そんなハッピーな考え方なら、なぜ広まらないのか、
なおのこと不思議です。


最後に、人の秩序に関して、今ある人間に作られたものが最高だという考えに対しての嫌悪がありますが、
確かに書かれてある程に盲信しているのは、
愚かしくも見えるかもしれません。
しかし一方で私には、
あなたほどこの世の不変原理というものをもまた
信じることは出来ません。

人による秩序は不安定で、
時に愚かな秩序を生み出すこともありますが、
でもやはり、人間はその中で生きているのだと、
少なくとも、私には、そう確信されるのです。
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