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第3章 主体性

キルケゴールについて少し聞きかじっただけのような人が「主体性」を云々するとき、恐らくその「主体性」は、キルケゴールの「主体性」とは異なるものを語っている。キルケゴールの主体性は、神という絶対的第三者の関係を考えずには、語りえない部分が多すぎた。キルケゴールと主体性をセットに、自分の主張としてその関係を強調しすぎる人間がしばしば欠いていたのは、神観念であり、誠実さであった。特に無神論者にとって、私もその一人だが、彼の主体性という言葉に魅了された者は、意識的か無意識的か、彼の主体性概念を換骨奪胎し、無神論的実存主義を唱えるような不手際に陥りやすい。そのときその哲学は、「キルケゴール曰く」ではなく、「私曰く」というごく個人的な哲学にならざるを得ない。ここで私は個人的な哲学が悪いと言っているのではない。そうではなく、キルケゴールといえば主体性=真実であると、安易にそれらを結び付けてしまおうとする態度は、戒められなければならないのである。
 
過去には、キルケゴールブームがあって散々盛り上がっていたが、今ではほとんど顧みられることもなく、これは哲学の分野全体にも言えることだが、単なる研究対象として、または個人的趣味の範疇で現れるに過ぎない。したがって、今私がここでキルケゴールへの認識を改めさせようとする者の一人として、何かを主張したところで、何の意味もないように思われるかもしれない。だが私には、今なお人々が主体性の誤謬のうちに沈んでいるものとして見えるのであり、これが私には重要なのだが、私自身についてもそれはまったくその通りであったのだ。例えば今流行りの「自己責任」という言葉は実に象徴的である。皆、呪われし主体性に取り憑かれ、真綿で首を絞められるように、主体性の病に侵され、少しずつ精神を蝕まれているようだ。
 
1節 主体性の憂鬱
さて、キルケゴールブームという言葉が出てきているが、具体的に時期を述べるとすれば、第二次大戦後に当たる1950年前後とされている。本節で考慮されるのは、その時代から1980年頃までのことである[1]
 
1950年頃のキルケゴールブームと主体性
キルケゴールブームというのは、ヨーロッパの国々でも起こったわけだが、そちらでは第一次大戦後に起きている。西欧諸国は第一次大戦で、戦勝国も敗戦国も多くの犠牲を出してしまい、国が疲弊したが、日本はこの大戦で景気がよくなり経済的な発展を遂げた。そして第二次大戦のときは、日本が大きな犠牲を払い、その後、日本にもキルケゴールブームはやってきた。こうして見ると、キルケゴールブームは戦後のすさんだ時期にやってくるという法則でもあるのかと思えてくる。大谷愛人(ひでひと)は当時を次のように振り返っている。「…あのころの実存主義協会だとかキルケゴール協会などでは、会合のときもそうですが、会が終わってコーヒー店か何かで飲みながらキルケゴール論をやると、その議論の行きつくところは必ずといってよい程、主体性か社会性かとか、実存主義か社会主義か、キルケゴールかマルクスかのあれか――これかになり、その議論で顔を真っ赤にしてやりあったわけで、……」と、マルクス-社会性、キルケゴール-主体性が争っていたことが分かる。戦争に入る前までは、マルクス主義に主体性というものが問題として捉えられることはほとんどなかったようだが、戦争に負けた後になって、にわかに主体性が取り沙汰されるようになり、戦前の唯物論者[2]たちは反省を強いられることになった[3]
 
そこで、なぜ戦後の廃頽(はいたい)の中から、キルケゴールや主体性といったものが出てくるのかという疑問だが、この主体性というものを考えるときの心理が、ニヒリズムやデカダンスに走るときと同じだからではないか。ニヒリズムやデカダンスというのは、周囲のものへの絶望、究極的にはあらゆるものへの絶望であるが、この主体性を信じるということもまた主体性=自分以外のものに対する絶望と見なすことが出来る。人々は戦争などによって多くのものを失うが、社会に対する信頼や希望も一緒に失ってしまう。戦争による廃頽は社会の失敗であり、主体性の欠如による失敗であると考える。人々が流されることなく、主体的に生きていれば戦争など起こらなかったはずだ、そういう空気が生まれてくるのである。ここに主体性礼賛のための土壌が用意されることになる。しかし単に自らの主体性を称揚するだけでは、根本的な解決になっておらず、かえって独善的にもなり、キルケゴールの考えていた主体性とは似ても似つかぬと言わざるを得ない。
 
結局のところ、キルケゴールをいつものように西洋からの輸入品として受け入れ、「日本人的理解」でもって誤解してしまったのではないか。この点で大谷の分析は興味深い。言葉や概念を拾い上げ、図式化・論理化して一時的な危機意識や感情に結び付けられることで、手っ取り早い危機の処方箋を手に入れたような錯覚を起こし、感傷的な酩酊に陥ってしまったこと、また、彼の思想がそのときの時代環境、時代意識にがっちりはめ込まれてしまって、彼の思想と時代を一体にして見ることで、一つの時代を象徴するだけの形式的なものになってしまったのではないかということである。
 
1980年頃までのキルケゴールと主体性
まずは戦後のキルケゴールと主体性について見たが、時代は進み、社会性か主体性かという議論はもう過去のものとなっている。ここではひとまず人間個人の独善的主体性については一時保留し、人間全体の主体性から考えることにする。これは要するに、人間中心的な見方であり、この世界においては人間が主体になるのだというものである。近代主体主義として西洋で何百年もの間支配的になっていた思想だが、日本にも溶け込んでいるものであり、なかなかくたばらず、しぶとい思想である。しかしこの思想に、多くの人間の、多くの思想が立ち向かっていった。例えば柏原が言うのは、「石油などの資源の枯渇とか人口増加の問題とかあるいは世界第三次大戦による破滅が予測できるとか、そういったような事柄に対して、あるいはもっと別の危機もあるでしょうが、そうしたことに対して科学的な知見によって、それにフィードバックをかけていく、そういう構造をつくり出していこうという考え方もあるわけですね。有機的なシステムとして世界を理解し直し、そのシステムにどこか動きの転換を与えてやれば、あるいはまた違った仕方で人類が生き延びていけるのではないか。言ってみれば、人間の知恵というのはそれほど愚かではないのであって、人間は自然にこの危機を乗り越えていくのではないか。つまり、相も変わらず人間の英知的な主体性への信頼のようなものがあり、それへの信頼でこの危機を克服していこうという思惑がもし働いているとすれば、それは非常に問題であって、その問題をこそキルケゴールが告発しているんではないか」ということだが、これと似たような論調が、この頃の雑誌『理想』における論文などを読んでいると多いことに気付く。長い引用ではあるが、重要なところなのでもう一つだけ紹介しよう。
 
「『宇宙船地球号』に危険信号が発せらるべきときがきたのである。生態学的均衡は失われ、地下資源は枯渇しかかっている。人口爆発によって世界中に餓死の危険が迫っている。核戦争の恐怖も去ってはいない。これらは、どれ一つをとってみても、容易に解決のつく問題ではない。にもかかわらず、われわれが用意している処方箋はただ一つである。すなわち、技術革新ということ。テクノロジーの発展にすべての希望を託しているのである。だが、人間の考えだす技術が万能薬であるはずはない。技術の改善によっては解決のつかない人間の問題があるはずである。しかし、その人間の問題にかんしてさえ、現代人は工学的アプローチの方法しか考えつくことができない。最近しばしば、人間工学とか社会工学ということがいわれる。あたかも、工学によって解決のつかない問題はこの地上に何一つ存在しないかのごとくにである。」[4]
 
両者とも科学批判的なところがあり、こんなものを紹介する私も含めて科学嫌いか何かかと思われるかもしれないが、そんなことはない。月並みな表現ではあるが、科学の発展は私たちの生活を豊かにしてくれるし、私の認識は科学的なものに多く頼っているのである。私がここまで問題にしてきたのは主体性であり、無論ここでも主体性に注目せねばならないのである。その上で私が何を言おうとしているのか、先に引用した論文の著者がずばり指摘してくれているので、もう少し言を尽くしてもらうことにしよう。
 
「この宇宙が人間とその歴史を目当てに、つまりいつでもわれわれにとって都合よいように設計されており、人間なしには世界は存在しえないものだといえるだろうか。そのように考えるのは、人間の傲慢にすぎない。われわれのまったくあずかり知らぬところで、ある巨大な力が働きつづけていると考えることもできるのである。あたかも人間の弱小を嘲り笑うかのように、われわれの計量や憶測をすべて裏切るような方向に大自然は運行をつづけ、やがてわれわれをいやおうなしに、人類の絶滅という破局にまで連れ去っていくかもしれない。」[5]
 
私たちは、日々何の気なく生活し、存在しているから、自分が生きているのか、生かされているのかといったことについて深く考えることはあまりない。それはそれで構わないのだ。しかし人間がこの世に存在しているのは、実に偶然的なことであって、決して必然ではないのであって、それぐらいのことは考えてみてもよいのではなかろうか。上に挙げた現実悲観の例は両方とも1970年代に書かれたものだったが、そんな彼らの心配の種は、今なお蒔かれたままである。資源不足や食糧不足は今も言われていることで、加えて昨今の投資マネーの暴走、穀物等の資源(バイオエタノール)転用などは相場を引き上げ、世界に混乱を巻き起こしてくれた。核戦争の危機も、オバマが演説を行い、ノーベル平和賞までもらってしまうというハプニングがあったが、現実には様々な国が核開発を始めているのであり、もしこれが頭のイカれたテロリストの手にでも渡れば戦争など起きるまでもなく、世界の滅亡を見ることもできよう。願わくば、このような種が芽吹くことのないよう祈るか、掘り起こすかしてしまいたいものだが、これはたとえ話ほどに簡単な話ではない。
 
完全に脱線してしまわぬうちに話を戻すが、今挙げたのは人災的な部分が多いものの、人間は人間が思うほど確固とした存在とは限らない。人間は何かに存在を保証されているわけではない。自分が存在したいと思おうが、思うまいが、勝手に存在することが決められてしまっている。だから人間には、自分が存在することに対して、責任を負うことがない、というより負えないのである。自分は確かに存在しており、存在せざるを得ないのであり、存在している自分こそ自分の存在に責任を負っているべきはずなのだが、自分の存在というものには何の根拠もない、分かりやすく言えば自分は勝手に、自動的に存在しているのであり、責任を負わなければならない理由はまったくない。ここで存在している自分自身を問い、あえて責任を負おうとすることがパラドックス=逆説であり、主体性の実現ということになるのである。キルケゴールはこれを神との関係において実現しようとしたのであった。自分という存在は常に存在するという存在そのものの「出来事」なのであって、その存在という出来事は常に生じ続けているのである。ここに来て『死に至る病』で述べられていた連続的な死、「死を死ぬ」ということが理解しやすくなっているのではないだろうか。つまり存在は常に生じている出来事なのであるから、それに対し常に責任を負い損ねる人間は絶望し続けているのである。キルケゴールの言う主体性とは、自分自身に依存することではなく、第三者としての他者=神との関係の中で実現されるものだった。そしてそれは、絶対に負い得ない責任を自ら負おうとする自己による自己の苦難の出来事という自己の歴史であり、主体性の実現なのである。ここで主体性の実現を拒む者は、自己の存在に責任を負うのではなく、その責任をよく分からない抽象的な「普遍化された理性」や「世界理性」といったようなところ、自然を司る根幹のシステム―そういうものがあったとして―のようなところに託すのである。そうすることで、自分は責任を逃れ、しかもその責任を抽象物に負わせているものだから、自己は無限に高まったような気になり、自己神格化が起こり、世界における人間の必然性や絶対性といったものを、抽象的におぼろげながら感じるようになるのである。
 
2節 主体性の傲慢― 一つの美的シミュレーション―
「神という絶対的で無限の存在であるものに関わる自己として、人間の自己は絶対的に強くなりうるのである。自己を自分で措定したとすれば、」…それは単なる自己努力に過ぎない。これは第2章で私が述べたことである。
 
無神論者にとってはまったく残念な考えかもしれない。しかしこの考え方は無神論者にとっても、一方では真であると言われ得る。なぜならば、この世的に考えてみても、自分だけの力で何とかなるものはそう多くはないからである。私たち人間は一人で生きていけるほどの強さを持ってはいない。個人は知らず知らずでも、時間のうちに流され、なんとか生きている。これを人間という大きな枠で考えてみても同じである。人間だけの力でこれまでも生きてきたし、これからも生きていくなどという考えは傲慢で無知でしかない。結局有限者たる私たちは、何かに便宜的に根拠を置き、その日その日をかろうじて生き延びているにすぎない。その中でアンチ・クリマクスは、彼にとっての絶対者を想定し、それが神であったということなのである。すなわち彼は自分の論理・生き方に対する根拠を神に置いたのである。そうすることで彼は無限の力を得ることができた。
 
「人間の主体性」と普通言われるものは単なる利己主義ではないか。そこで言われる「主体的であろうとする」という言葉は単なる自己の二重化に過ぎないのではないか。そもそもここで言われる「主体性」とは何なのか。自分が自分としてあろうと主体的に生きるという決意は、結局のところ自分に自分を重ねて上書きするものでしかないのではないか。今、ある人が主体的に生きることを決意したとする。このとき彼はどのような生き方を志すだろうか。
 
まず彼は、彼が彼であるということに自信を持つだろう。彼はただ一人の個人であって、何者にも代えがたい個人であることに誇りを持って生きることができる。ここまではまだ自分の内面的意識だけでの変化に過ぎない。主体的に生きることを決意した彼には、恐らく外面的な目に見える実践的な変化がもたらされていることだろう。そこで考えられるのは、責任感の向上である。自分の行為に対してもはやその責任を逃れることはできない。なぜならば、彼はただ一人の彼そのものなのであり、その彼の行為について責任を転嫁できるような彼の代わりは存在しないのである。こうして彼は、自分の行為について一層慎重になり、自分の手に負えないようなところまで行為の範囲を広げることには臆病になる。自分の行為はすべて自分の責任として帰結するからである。
 
しかし一方で、彼は彼自身を猛烈に信じるようになる。彼は自分の行為がすべて自分に帰結する、跳ね返ってくるものと考えているのである。彼はこの上なく努力するだろう。彼の主体性は、彼の努力に必ず報いると信じ、一生懸命になるだろう。そして、彼がもはや生活などには困らない程度の自己環境を手に入れたとき、彼の努力は、彼の主体性は、この世で勝利を収めるのである。彼は彼の主体性に、彼の努力が矛盾しなかったことに、能う限りの賛辞を述べるであろう。「おお、なんと()むべきかな人間の主体性、わが主体性よ!」彼は主体性に、神のごとき強さを見出し、魅了されてしまう。惨めで不幸をその身に背負った人間が彼の前に姿を見せれば、彼はこう言うだろう。「あの者には主体性が足りなかったのだ。主体性に従い努力しないからあのようなことになってしまったのだ」と。彼の主体性に与える信頼は、もはや不動のものとなり、なんぴとたりとその関係にひびを入れること叶わぬことのように見える。しかし本当にそうなのであろうか。その関係は絶対のものなのだろうか。無慈悲にも私は彼の思い込みを打ち砕いてしまわなければならない。
 
彼の国で戦争が起こる。戦費調達のため、彼の国は大量の国債を発行する。戦争が長引くにつれ、その国債に対する信用が薄れ、金利が膨れ上がり、その価値は失われていくばかり、国内では預金封鎖が行われ、国民の資産は徴収されていく。やがて戦争が終わり、彼の国の経済は破綻寸前、そこに戦時の国債に対する支払いが加わり、中央銀行はひたすら金を刷る。結果ハイパーインフレになり、国はデフォルトを起こす。さて、ここで改めて彼の様子を見てみるとしよう。
 
彼の精神は、預金封鎖の段階で既に参っていた。彼の主体性は、一国の危機という状況においても、彼を助けてくれるようなものではなかった。彼の従った主体性原理はそれほどまでに強力なものではなかった。なぜか、彼は「主体性」という幻想の力に惑わされていただけだからである。先に述べたではないか、「主体的であろうとする」など所詮自己の二重化でしかないのだと。自分が自分であろうとするなど、結局一個人の中だけで完結している同語反復であり、彼は世界が自分の思う通りに廻っていると錯覚しているのである。その「主体性」とは、あたかも神であるかのような自己を自分の手で創り上げ、それに従って生きることに他ならない。自分が生み出した自分、自分が措定した自分というものは、まったくの無力である。彼は世界に対してなんら決定的な影響力を持つことはできない。二重化された自己、上書きされた自己は決して創造主たる元の自己以上の力を持つものではあり得ない。そのように主体的であろうとする自己は、ただ自己の二重化でしかなく、自己の主体性原理が矛盾すること、自己の主体性が自己(自我)の願いに矛盾することを何より恐れる利己主義に違いないのである。
 
3節 主体性と私
キルケゴールの主体性、それは主体性論争[6]の中で言われたとされる高桑純夫の次の一句が的確に表現している。「理論がもとめる実践を、いかにすれば『私』の実践として実践できるか、この意味で表現される主体性」、これこそ彼の言わんとしていたところだったのである。いかにしてキリスト者になるかというただ一点に、彼の関心は向けられていた。しかし彼がこの理論を実践することは終生叶うことなく、彼は死ぬまでずっと憂愁に悩まされ続けたのである。そしてここに、後世の人々が彼の主体性を誤解する契機が潜んでいたのではないかと私は思う。
 
・キルケゴールとキリスト者
彼の理論と実践の間には齟齬があった。それにもかかわらずキルケゴール自身の生き方を彼の理論とイコールで結んでしまった。私自身、指摘されるまでそのことに気付かず、誤謬の中に沈んでいた。それはやはり、彼の著作に厳然とした態度や宗教家らしいこの世的なものへの峻拒のような雰囲気を感じたからだろうし、彼自身、就職せず結婚せず、最後には既存キリスト教界への猛攻の中で、あたかも殉死してしまったかのように見えたからであろう。すなわちキルケゴールの主体性とは、この世的なものの一切を投げ捨てて、かつてキリストがそうであったように、貧しく、虐げられ、この世にあっては殺されるしかないような、そのような生き方を神の前で見出すという過剰なまでのストイックさを求めているものと勘違いしていたのである。しかしそれは間違いだった。彼はそんな生き方を求めていたのではない。彼自身の求めた生活とは、田舎で牧師をやって敬虔な人々と共に日々つつましく牧歌的に暮らしていくようなものだった。
 
それでなぜ彼がそのような生活を実現できなかったかと言えば、当時のデンマークキリスト教界があまりに虚偽にまみれていたからである。デンマーク国民にキリスト者らしい信心や(へりくだ)りの精神は存在せず、彼らはすべて生まれた瞬間から無条件でキリスト者だったのである。キルケゴールは、もはや形式的でしかないキリスト教をデンマークキリスト教界の虚偽を告発する者として「修正剤」たらんとした。彼自身の主張がそのままデンマークキリスト教界に適用されるべきと考えていたわけではない。それはプロテスタントがカトリックの権威的腐敗の中から、抗議する声として現れたように、そしてそれをキルケゴールはプロテスタントとして独立し、新たなキリスト教を主張しだすことなく、すぐさま放棄さるべきと考えていたように、彼自身の主張そのものは、人々がいくらかの信心を持つようになることで、廃棄さるべきものだったのである。
 
さて、こうして見ると、彼の主張ははったりであり、何か本当は大したことのないものだったように思えるかもしれない。しかしそれは違う。確かに、彼自身デンマークキリスト教界に対する「修正剤」として、少し大袈裟な物言いであるという意識は持っていたかもしれない。ただそれでも、彼の中には目指すべきキリスト者像というものがあり、それは真に信仰する者にとっては逆説ではないような姿だったのではないだろうか。
 
信仰の騎士アブラハムは、神の命令に従うという宗教的目的のために、父が子を殺してはいけないという倫理的教えを放棄し、息子イサクを手にかけようとした。信仰など持たない私たちにとって、彼の行為は到底理解できるものではなく、その行為はまったく逆説的であったと言わざるを得ない。そしてそれはキルケゴールにとっても同様で、彼は宗教的なものについて語ることのできる天才的カリスマ詩人であったかもしれないが、真に信仰を持つまでには至らなかった。それゆえに信仰について述べるには、弁証法的であるだとか、逆説だとかいうふうに表現せざるを得なかった。しかし、真に信仰する者にあっては、それが逆説的だとかいう風に表現される必要はないのである。彼は信じる者は救われるということをどこまでも信じきっているのであって、彼にとって救いは、信仰から出てくる必然ではないだろうか。
 
キルケゴールは信仰を、誰もが持てるもので、救われることもできるとしている。ただ信じればよいというたったそれだけが条件だからである。しかしそのたったそれだけのことができないから、私たちは理解に苦しみ、キルケゴール自身も憂愁などから逃れられず、生涯をその中で過ごすことになったのではないか。信じるということのいかに難しいことか。目の前にいる他人ですら100%信じきることが困難だというのに、どうして姿は見えず声も聞いたことのないような神などという抽象物に身を捧げることができようか。そもそも信仰と依存はどう違うのだろう。私は無神論者だ。神などかけらも信じてはいない。神を信仰し、神の言いなりになるとすれば、それこそ主体性の喪失と言えるのではないか。残念ながら、キリスト教社会で育ったわけではない私の意志は、そのような一神教的絶対神というものを信じるために存在していない。かと言って、自分で自分を救えるかと言うと、それも馬鹿馬鹿しい話で、何度も言うように単なる自己の二重化でしかなく、自分に自分を重ねたところで何も起きはしないのだから、無理な話である。
 
・私の主体性
では私の主体性というものは、一体どのように位置付けられるのか。ひとまずのところ、思考停止をしないというところで手を打っておきたい。主体的と言って、自分を神のごとく絶対化するのは、自己神格化に過ぎないし、そうやって絶対的なものを恣意的に設定するのは、結局のところ一神教的な絶対神を信仰しているのと大差ない。人間には、自分の信じたいものだけを信じ、自分に分かるものだけを再確認することで満足してしまうという悪癖があることを私は知っている。信者が神を信じ、思考停止しているのと同様に、自己を絶対視する者も自己を信じ、思考停止している。彼は考えなくてはならない幅を自ら狭めることで、視野狭窄に陥っている。だから私は、絶対的なものへ逃避しないことで、思考停止を回避したい。
 
しかしながら、世界の真理といったものが見つかっていない以上、やはり思考はどこかきりのいいところ、自分が納得できる場所で止まらざるを得ないだろう。そのとき、一時的な思考停止は免れ得ないだろうが、そうしている間にも、思考停止はよくないと考え続け、思考する。このように絶え間なく思考の運動を続けることで「弁証法的に」思考停止を乗り越えたように見せかけるのである。これを今の私の主体性として捉えておくことにしたい。
 
・変わる真実/変わらぬ人間
さて、どうやら私は相対主義という一つの潮流に呑み込まれただけのようである。実際そうなのであろう、今回は少々徹底した自己分析という意図もあったわけだが、自分自身、結果のあっけなさに失望している。所詮この程度であったかと。ニーチェが「神は死んだ」とか言って以来、おおよそすべての現代人はニーチェ的であると見なされ、人々は哲学に何の縁もないと思っていても、そのような哲学的規定、レッテル貼りから抜け出せずにいる。此度の大げさとも言える自己分析によって、何か新しいものが見つかるかと思ったが、特にそんなことはなかった。どこかで聞いたことのありそうな言葉ばかりが並べ立てられ、結論が「思考停止しない」である。あまりの幼稚さにあきれるほかない。しかし、逆に考えるとそれは、人間真理(心理)と言えるようなものは、そうそう変わるものではないということを示しているのかもしれない。
 
人間はいつの時代も変わらない。ここ数10年か100年かを見ても、中高年はいつも「近頃の若い者は~」などと言っている。それより以前も言っていたかもしれない。また2000年以上も昔に、ソクラテスは言っている。「悪いことをされた仕返しに悪いことをするのは、大衆にとっての教訓であるけれども、これは正しいのかな。……僕たちは何人に対しても、仕返ししたり悪いことをしたりしてはいけないんだね。たとえ他人から危害をこうむったとしても、そうしてはいけないんだね。だけどねクリトン、君が言うことの真の意味をよく考えてほしいんだ。なぜって、この意見は今まで多くの人に支持されたことはないし、今後も少数派に留まるような意見なんだからね。それに、この意見に同意してくれる人としてくれない人の間では議論が成立しないんだ。互いの主義主張があんまり違ってるものだから、互いに軽蔑しあわずにはいられないんだよ。」[7]と。大衆というのはこの頃から手に負えるものでなかったようだが、それもまた今でも変わりない。相変わらず彼らの考えは、悪徳と無知に満ちている。
 
私たち人間は、長きに渡って様々なもの、ことを見聞きし、体験してきた。それでも変わらないものが人間にはある。いくら歴史を重ねたとしても、私たち個人個人が歴史年表を眺めながら、20世紀、21世紀の人間として、189世紀の人間よりも自分たちは進んでいて、優れているのだなあなどと考え耽ることは許されていない。この「進んだ」時代に生まれたからと言って、私たちは最初から「無知の知」などの様々な思考上のスキルを持った状態から始まるわけではない。人間は「体系の第14節ではじめるために生まれるのだろうか」、もちろんそうではない。人間は何度でも、知らないことを知らないと捉えなおし、そういったことに謙虚であり続けなければならない。またデカルトが「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」を唱えたからと言って、真に私たちすべての人間存在が確証に至らしめられたということでもない。この概念を真に知るのはデカルトだけであり、他の人間はまた別の方法で、無論デカルトの概念を利用することは禁じられていまいが、それを知る必要があるのだ。この意味において、真理とは、他人に与えられるものではないと私は考える。重要なことは、自分にとっての真理である。それもただの真理ではない。いかに見つけるかが重要でもある真理なのである。


[1]1節は、大方『理想』555,1979.にある大谷愛人と柏原啓一の対談「キルケゴールと現代」に依拠して論理展開を行っている。なので、ここから引用などある場合、いちいち註を付けたりしない。どうしても気になる人は、直接この対談を読めばよい。実際この対談を読めば、本節を読む必要もなかったりするのではないか。ちなみに「1980年頃まで」としたのもそういうことなので、あまり気にしないように。それからもし本節におかしなところがあれば、それはもちろん私の不手際であり、対談の二人には関係ない。念のため。
[2]簡単にではあるが、そろそろ少し解説をしておいた方がよいだろう。マルクス主義と社会性ということについては、社会主義などの言葉もあるので、何となくイメージは湧くだろう。唯物論とは、文字通り物質中心な考えである。反対語は唯心論とされる。マルクスは唯物論者(弁証法的と付いたりするが今は考えない)で唯物史観を持っており、彼の唯物史観とは、生産などの経済活動が人を動かし、歴史を作るというもので、周囲の環境ありきという考え方である。衣食住足りて云々、というのはこれに近い。彼の思想の雰囲気がつかめたら、本文に戻ろう。
[3]この辺は、岩佐茂「主体性論争の批判的検討」に詳しい。『一橋大学研究年報 人文科学研究28,pp.177-227に収録されているらしい。(http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/9891/1/HNjinbun0002801770.pdf) から読めるので、興味があればここからアクセスするのが手軽であろう。
[4]『理想』463,1971,pp.6667.より伊藤勝彦「自然の詭計」。「宇宙船地球号」は有限な地球を、広大な無限の宇宙をさまよう一隻の宇宙船として喩えたものだが、さすがにこれは説明不要であったか。『』でくくったのは、形式的な問題であり、書名などを表しているということもない。つくづく老婆心である。
[5]同上p.62
[6]主体性vs.社会性、前掲の岩佐茂「主体性論争の批判的検討」を参考に。2度目だが、Webで読める。続く高桑の言葉はp.201
[7] sogo,プラトン『クリトン』から。(http://www.e-freetext.net/critoj.html) にて公開。
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以前に鳥取で大きな地震がありましたため、日本一危険な国宝とされるあれ、投入堂はしばらく見ることができないかと危ぶまれてましたが、実は今年の4月に開山されてたんですよね。危険ではありますが上がっていくと見晴らしはすばらしく、一見の価値はあるんではないかと思われますよ。私もちゃんとのぼったよ。

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