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山田篤実(ヤマダアツミ)『真珠の世界史』

名著。名著だわ。
これすごいわ。
力作だわ。

真珠から
世界史を見るって
内容だけど、
逆に世界史で
真珠って取り上げられてるのを
見たことってなかった。
それゆえに衝撃。新鮮。
新たな研究分野を
開拓する書だったね。
…まあ私の無知は置いといたとしても、だ。

真珠の歴史に関する研究は
たぶんそれほど
蓄積されてなかったのだろう。
内容がとにかく地道に
資料を集めて
頑張ったんだろうなあと
感じさせる。
本気で研究やってる感。
まだまだ手の届かなかったところや、
細かい部分での検証が
弱いところもあるかもしれないけど、
意欲的ですごく良かった。
ほかはまたこの本読んだ誰かがやってくれるよ。

真珠のでき方から
人々への真珠の受け入れられ方、
そして採取の苦労、
産地の変遷などなど、
真珠の日本・世界史を総ざらい。
真珠ってすごかったんだ。
概要的な部分もいいけど、
供給側(企業)と需要側(消費者)の
動向が詳しく述べられるのもいい感じ。
真珠を巡って人々が
どんな思惑で動いていたのかが
よくわかった。

にしても中世西洋人やっぱりひどい。
未開人とみなした相手には
容赦ないしごきっぷりでドン引き。
人の皮をかぶったxxx(自主規制)

さて、
日本も主要な役者として登場するが、
正直こんなに頑張ってたなんてね。
真珠のイメージって
それほど高くないというか、
宝石として大したものでもないし、
なんかもう時代遅れてるし、
みたいな素人全開な思考だけど、
大したものでなくしちゃったのは、
日本だったんだねえ。
すごいねえ。

この本を読んで
真珠の印象が少し変わった。
真珠は世界史的な価値のある宝石だった。
人の歴史の厚みを持った宝石だ。
今は養殖できて安くなってもきたけれど、
見た目が変わったわけじゃない。
今も真珠は美しい。

思わず真珠がほしくなる・贈りたくなる1冊。
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著:唯円・述:親鸞『歎異抄』訳:川村湊

光文社古典新訳文庫から。
文体が関西弁ってとこが驚き。
わかりやすく表現することへの
意気込みが感じられる。

歎異抄ってこんなに短いものだったんだ。
実質40ページほど。
これだけで十分といえば十分だけど、
まあついでに解説ぐらい目を通すべきだろう。

歎異抄は、
親鸞が言ってたことを、
弟子の唯円が、
近頃、師匠の親鸞聖人の言ってたことと
「異」なった教えばっかりねつ造されてて
嫌になるわぁって「嘆」いて書かれたんだね。
ソクラテスとプラトンみたいだね。

親鸞といえば悪人正機説。
いい奴だって救われるのに、
なんで悪いやつが救われんことがあるかいな。

あんた言ってること迷ってるんと違うんかいな、
と思わずつっこみたくなるひとこと。

どうしてこういう論が出るかというと、
善人は頑張っていいことをしまくることで、
これだけいいことをすれば、
自分が救われないなんてこと
あるはずないって、
思ってしまうから、
自力本願となって、
(「自力本願」という仏教用語はないけどわかりやすいから使う)
自分の力だけで極楽往生できるという
うぬぼれがけしからん。

悪人は、
悪いことをしてしまう。
悪いことをしてしまったら地獄に落ちる。
やだ、でも地獄落ちはやだよぅ。
でも悪いことしちゃったし…。
もうだめだ、
かみさまほとけさまお助け!
という具合に、
どうしようもないレベルで
仏にすがる以外手段がない。

このような場合、
いくら善行を積んだところで、
自分の犯した過ちは消えず、
ゆえに自分は極楽往生できぬ
という意識が生まれる。

そのとき、
自分の力を頼るわけにはいかなくなり、
別の何か強大なものに頼るという
考えが生まれる。

そこに現れるのが仏(阿弥陀如来)であり、
阿弥陀様のすべての人を救うという本願に
心の底からすがるという
意識が生まれうる。

このようにして、
信心深い悪人のほうが
救われやすいという論理が展開できる。

しかしそれなら、
いくら悪いことをしても
結局救われるのだから、
何をしてもいいのではないか、
という考えが当然生まれる。

だから後世の人は、
この思想を紹介するときに、
用法に気を付けてね、
と注意書きを残したのであった。

すでに本書中に述べられる通り、
進んで悪を行う行為は、
薬があるからとわざわざ
自分で毒を食らうことと同じなのだ。
そんなことをしなければならない
理由(因果)というものは存在しない。
だからしないのである。

そもそもこの世に善行しかしない
完璧な善人は存在していない。
人は生きてることが罪だから、
よその宗教にも原罪とかいうのがあるが、
結局同じこと。
つまり自分が善人だと思い込むことが、
浅はかなうぬぼれで、
間違いであるということ。
そして仏の力を信用できぬ
けしからん輩ということになる。

そもそも最初から、
「善人」と「悪人」の定義を
はっきりさせないからわかりにくい。
善人ぶってるやつが悪で、
自分の罪深さを謙虚に認め、
仏に帰依するやつが善なのだと
そう言ってしまえばそれで済むんじゃね。

と、思いました。

ちなみに悪人正機説って
今では親鸞の専売特許じゃなくなってるんだね。
師匠の法然さんもすでにそれっぽいこと言ってたらしい。

ヘッセ『シッダールタ』訳:高橋健二

すごかった。
こんなの書けるとか、
ヘッセは成道したの?
って思った。

仏陀(になる前)を描くけど、
旅する青年の成長物語として、
友情あり、恋愛ありと、
楽しめる内容。

最後のゴーヴィンダとの出会いと、
そこでの言い合い。
まさにクライマックス。
最高に盛り上がってた。

教えを学び、
悟りの扉を開きかけるところまでいって、
遊蕩生活にはまって、
堕ちたと思ったら、
高みへ上がる。
昇華されたね。
アウフヘーベン。

この真実を得ようとする姿勢、
教えの中になんぞ大したものはねぇよ、
実感として悟らなきゃダメなんだよ、
っていうこの姿勢。
これまじ実存主義ちっくじゃない?
「私にとって真理であるような真理を見出すこと、私がそのために生き、かつ死ぬことを願うような理念を見出すこと」
これじゃない?
キルケゴールを必死に
追っかけてた頃を思い出した。
いや昔話にしたいわけではないけど。

絶対の真理や理念というのは、
たぶん言葉とかを超えてしまってる。
正直なところ、
私は真理を探してはいない。
できるだけ本質を見たいとは思う。

でも絶対の真理はない。
というか私には見えない。

見えてないから私という存在は定まらず、
信念は揺らいでばかりいる。
どう考えても迷いだらけの人生を送ってる。
わけわかんなくて嫌になるほど。
迷うのが嫌で嫌で仕方がなくて、
それで真理とかいうものに
少しでも触れなきゃと思ったけど、
そう簡単に教えてくれるものじゃない。

誰かが本当にそれを知ってるなら、
そしてそれが「伝えられる」ものなら、
とっくの昔にそれは人類に共有されて、
人々は安らかに生きているに違いない。
でもそんな風にはなってない。

いっぱい本を読んでる哲学の研究者でも、
みんな悟ってるわけじゃない。

本だけ読んでても悟れないってことは、
なんとなく気づいてきた。
必要なことだとは思ってるけど。

経験も大事だ。
シッダールタみたいに。

でもやっぱり私は躓くんだなぁ。


一つの石を私は愛することができる、ゴーヴィンダよ。一本の木や一片の樹皮をも。――それは物 だ。物を人は愛することができる。だが、ことばを愛することはできない。だから、教えは私には無縁だ。教えは硬さも、柔らかさも、色も、かども、におい も、味も持たない。教えはことばしか持たない。たぶんおん身が平和を見いだすのを妨げているのは、それだ。たぶんことばの多いことだ。解脱も徳も、輪廻も 涅槃も単なることばにすぎないからだ、ゴーヴィンダよ。涅槃であるような物は存在しない。涅槃ということばが存在するばかりだ (p.153)


ほんとうに大事なことは、
言葉で与えられるものを
そのまま受け取ることではなくて、
きちんと自分のヴィジョンとして、
根底に据えて、
あらゆる行動が、
それに統制されうるような、
根源的な思想、
そういうものを得ようとする姿勢、
それは小難しい真理とか
そういう話ではなく、
たとえばあらゆるものへの
「慈悲」とか「愛」とか、
そういうものでは。

プロフィール

bq69pd

Author:bq69pd
以前に鳥取で大きな地震がありましたため、日本一危険な国宝とされるあれ、投入堂はしばらく見ることができないかと危ぶまれてましたが、実は今年の4月に開山されてたんですよね。危険ではありますが上がっていくと見晴らしはすばらしく、一見の価値はあるんではないかと思われますよ。私もちゃんとのぼったよ。

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