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信仰を持たない日本人が何故キルケゴールを受け入れたか

キルケゴールブームというやつが、
むかーしあったのですよ。
時期にして、戦後~1970’sまでといったところでしょうか。

それでは、わたくしお得意のゲームの話で始まりますよ。

通常のRPGでは、
最初の町の付近には弱いモンスターが出てきます。
そこからプレイヤーキャラは徐々に強くなっていき、
最後にはラスボスを倒す力を得るのです。

しかし最初の町を出て、
いきなりラスボスが、
魔王が現れたときどうなるでしょう。

確実に負けます。
負けイベントかと思いきや、本当に死にます。
ゲームオーバーです。
クソゲーです。

ここで、私たちの世界を考えてみましょう。
私たちも徐々に成長できるシステムの上で生きています。
いや、生かされてます。

お偉いさん方が、
学校行きなさいとか、
会社に入って働きなさいとか、
そういう仕組みをつくってくれているわけですね。

自分の人生の難易度がいかに難しく設定されていようと、
このゲームは返品不可なのです(笑)

しかしみんながこのゲームについてクソゲーだと言ったとき、
すなわち、
公害や人口爆発や食糧危機といった
広い範囲に及ぶような問題が起きたとき、
さらに、
無尽蔵のはずの、
水、空気、緑、資源その他が有限であると
思い知らされたとき、

私たちの眼前には、
とてつもなく厳しい現実が立ちはだかっていたのです。

それまでは人間が外部の自然に作用し、
コントロールしきれていて、
それがずっと続くと思われていました。
科学万歳。

自然は人間の手の内にあり、
何か起きても、「何とかなる」と思っていました。

でも世界はそんな単純なものではありませんでした。
私たちは絶対にクリア可能なゲームを、
プレイしているわけではなかったのです。

例えば明日、地球が爆発すると分かったとき、
私たち人間はあまりに無力です。
もはや自然に対して作用することで何とかなると、
言っておられる段階ではありません。
そのとき人間がアクセスできるものは何か。
2つありました。

・宗教的実存主義(バルトと新神学)
理性が検証しうる自然や歴史の世界から全くかけはなれた、非合理非理性的な領域にだけ神をみとめて、非理性的幻影に希望の一切を托し、それへと飛躍する。

・世俗的実存主義
非合理・不条理・絶望のうちで、あるいは自己の行為あるいは究極的経験にだけ希望を求めようとする。
(『理想』1971年12月号,No.463,p.55から)

神と自分です。
神様にお祈りするか、
自分の「主観的認識」こそ真理だと開き直ることによって、
人は考えることをやめたのです。
それこそが「主体性は真理である」
という命題の示す真理であると、思い込んだのです。

以上が信仰なき日本人による
キルケゴール受容の実態ではなかったでしょうか。

                           
さて、いかがだったでしょう。
随分親しみのわいてきそうな議論ですが、
もう30年以上も前のお話です。

参考にしたのは、多分『理想』って雑誌です。
たしか一昔前の分を適当に読んでたときに、
主にニヒリズムやら何やらの関係で出てた気がします。
この文章のもと、いわゆる草稿というのは、
そのとき書いてたもので、
今回ここにのせるにあたって、
受け入れられやすいようにちょっと脚色を(笑)

締めくくりには、
今読んでる論文からも少しだけ取り入れてみたり。

戦後、「主体性論争」なんてのもあったようで、
社会性か主体性かという、
あれかこれか的な考えが流行ってたんですね。

一方にはマルクス主義がでっかく構えてて、
あとはその気持ち悪いマルクス主義賛美に、
乗っかれなかった人たちが、
キルケゴールとかに向かってったんですね。
私も詳しくないのでこれ以上説明できませんがね。

キルケゴール熱も1970年代末ぐらいで
ほとんど引いてしまって、
そのあと1980,90’sは、
英米系の科学主義の時代だったのですな。
いやあやっぱり科学はしぶとい(笑)

これからまた人の手に負えない事態が、
現れるたびに、主体性賛美が起こるのでしょうか。

それはよくわかりませんが、
こうして見ると、
思想にも賞味期限みたいなのがある気がしてきますね。

哲学というのは、永遠を志向しているようで、
実は時代に大きく捕らわれてしまうもののようです。

まあそもそも人の思想は、
みんなに同じように配布できるものではなくて、
人が考えたものはその人のものなのであって、
そんなものは、伝えようとすることで、
どこか矛盾が生じるようなものということではないか、
という感じなわけですよ。

ところで、ゲーム脳とかいう言葉が少し前に、
流行って(?)いましたが、
私はいかにもそれに侵されているように見えますね(笑)

でも本当にゲーム脳であるのは、
この世界が何でもゲームのように、
うまくいくようになってて、
何事もなく存在しているのだと、
錯覚している人たちの方なのではないでしょうか。

突発的、壊滅的イベントには、私たちは対応できません。

『世間さまが許さない!』 岡本薫

正義とか倫理といったものは、
不安定で分かりにくく、脆そうなものですよね。
これが「正義」だってはっきりしたものがないから、
多様性というものを認めているのであって、
まずそこを認識しておかないと、
「自由」が何なのかも分からないのでしょう。

この本は「日本人論」に関する本だと言っている通り、
それは「日本人」についての分析です。

私がこの本を手に取ったのは、
大体何が書かれているかを予測した上で、
かくかくしかじかのことが書かれているであろうとし、
ストレス解消をもくろんでいたからであると、
認めるにやぶさかではありません。
威勢よく「日本人」を叩っ切ってくれることを期待していました。

結果としては、
まあ可もなく不可もなくといったところでしょうか。
全体的に見方が浅いです。

自分の経験から、
あの人がこんなこと言ってた、
この人がこんなこと言ってた、
ある人がある場所で・・・
いや、知らんがな、と。

面白かったのは、
国会議員と官僚の関係と、
西欧には神様をバックボーンとした価値観があるから、
枠からひどく外れないんだと論じているところです。

システム上、
国会議員が頭で、官僚は手足でしかないのに、
全て官僚が悪いことにされてるって状況があるんですってね。
官僚は自分で何も決めようとしない
国会議員の尻拭いをさせられてるとか。

それで、いくら批判されても、
本当は無能な国会議員が悪いんです~
って言わない官僚は何なのよって話ですけど、
彼らもそれに耐えることで、
あとからいい思いをさせてもらえるんですね。
やっぱりどっちもどっちでしたね。

最後の第5章についてですが、
ビッグ・ブラザーを思い出しました。
サブタイトルの「『世間さま制』にしたら?」
とかいうぞんざいな感じに軽くイラッとしつつ、
こんな恐ろしいシステムでやっていけるとは思えませんね。
情報を制する者が勝ちそうです。
マスコミが今以上に大活躍しそうですね。

しかし第5章は彼のイロニーなので、
あまり本気にしてもいかんですかね。

レッテル貼るなら「アナリティカル・シニシスト」
にしてくれと、少々お寒い発言をし、
価値的相対主義者を自称する著者ですが、
自分の価値観に絶対的自信を持ちすぎです。

アナリティカルに見られたいなら、
もう少し自分のアナリシスを対象化して(相対的に)
考えた方がよさそうです。

(この文章の完成に2時間以上かかったなど誰が想像できましょう・・・)


なんともタイムリーなことに、
朝のご老人がたくさん出ているニュース番組で、
ご老人方が心の豊かさが足りない、
教育で心の豊かさをはぐくめ的なことを言って
盛り上がっていらっしゃった。

教育を受けることで
豊かさがはぐくまれるということは、
否定しませんが、
どうも私の考える「教育」と彼らの考える「教育」には、
相違があると感じました。

彼らは「洗脳」を「教育」に、
置き換えてしまっていると思います。

恐らく無意識でしょうが、
思い込みで語られる正義ほど迷惑なものはないですよね。

それと、わたくしの個人的意見ではありますが、
心の豊かさなんてものをみんなが持つようになったら、
恐らく自殺者が増えると思います。

あまり精神の世界にのめりこむとめんどくさいです。

『キリストの身体』岡田温司(アツシ)

内容が微妙にしょぼいと思えるのは気のせいだろうか。
キリスト教について読むと、
いつもこじつけっぽいと思うが、
この本は輪をかけてそれっぽい。

といった感想だったのだが、
「おわりに」を読むと、
彼はキリスト教関連の図像を、
客観的・実証的にしか語られない領域から引っ張り出して、
「風通しのいい」領域へ連れ出したかったということのようだ。

確かにグラフィック資料が多く、
そこはよかった。

彼はキリスト教そのものに、
取り立てて関心があるというわけではなく、
議論がやや稚拙な雰囲気なのも納得がいった。

とはいえ、
前に『マグダラのマリア』『処女懐胎』と2作出しているようで、
帯には、キリスト教3部作完結
(だったかな、帯捨てたからわかんない)
みたいなことが書かれてあったのだから、
そりゃ内容に期待するだろう。
中公新書2000冊も近くてキャンペーン打ってたし。

前作にも興味があったのだが、
これはいらないかなあ。
少なくとも今はあんまり興味がない。

でも面白いとこもあったのよ。
中世に愛する人やキリストに自分の心臓を、
プレゼントしてる絵が流行ってたみたいでね、
その絵見て、バッカじゃないの(笑)
ってひとりでつっこんでたんだけど、

著者が言うに、
いくら荒唐無稽ったって、
あんたたちも好きな人にハート型のチョコ贈って、
ハート(heart)食べてんじゃない って。
ね、おもしろいっしょ?

私の文章ではいまいち伝わらないかなあ。


一応ちゃんとフォローしとくと、
私にはあんまり面白くなかったですけど、
絵とかに興味ある人には、いい本だと思いますよ。
意味を理解しながら見られるようになるんですから。

でも私にはちょっと。
イコンってもともと信者がターゲットなんだから、
私が見ても仕方ないってのはあるでしょうが、
それより、ふざけたようなのが多い気がするんですよね。
著者の言葉を借りれば「荒唐無稽」なんですよ。

大体、いくら屁理屈並べたって、
全部偶像崇拝じゃない。
聖遺物とかもう冗談としか思えない。
何それ笑うところ?

別に私は偶像崇拝の良し悪しに興味はないですけど、
ほかならぬ信者が、
つまらないこじつけで、
自分たちに都合よく解釈しようとしてるのが気に入らないんですよ。
お前らこそ冒涜してるだろう、と。

そういう作品の前で、トランス状態に入るようなのも、
信仰の篤さからというよりも、
単に自分に酔ってるだけじゃないのかと。
ただの錯覚だろうって言いたくなるんですよ。

そんな感じなので、
キリスト教関連の図像は、
作品として見ることは出来るけど、
聖なるイコンみたいなものとして出てくると、
もう笑うしかないと思うんですよね。

ひとつの論文とわたしのノート

ただの記録。
大したことは書いてありませんよ。
無駄に長いから、
よほど暇な方以外には読むことを勧められませんね。



続きを読む

『格差ゲームの時代』佐藤俊樹

いやあ、困った本だった。
何が困ったかって、それについて語る前に、
まずは最初の格差論についての感想を述べておきましょう。

                                 
・格差論
特に目新しいことは書かれていない。
つまらない。
この本は著者が雑誌などに寄稿したものを
ただ集めてきただけで、
似たような論説が延々、続けられてうんざりさせられる。

しかもどれも2000年ごろに書かれたものばかりで、
今やそれらの言葉に大した力を感じさせない。
(当時読んでも感銘を受けたかどうかわからないが)

なぜ今更こんな「時代錯誤」ともとれるような本が
再び上梓されることになったのか。
著者自身この文庫化にあたってのあとがきにおいて、
捉え方のミスや時代の変化に触れている。

だとすれば、単に私は彼の自己満足に付き合わされただけか、
出版社の販売戦略にまんまとのせられただけということになる。

とりあえず自己責任という言葉が
大好きな人間に読んでもらいたいところだが、
そういう人間は大抵まったく本を読まないか、
自分に都合のよいことしか書かれていないような本を好むので、
望むべくもない。

ただ一つだけ言っておきたい。
自己責任論者の言は、
コインを10回投げた時、
表裏の確率は1/2だから、
必ず表が5回でるのであって、
表が10回とか裏が10回とか、
所与の確率に違うような結果は必ず出ない!
と言い張るような滑稽なものだということだ。

簡単に言うと、彼らが言うのは、
確率を努力に変えて、
10の努力をすることで、10回の成功が、
0の努力をすることで、10回の失敗が
必ずあるのだと言っているようなものだろう。

彼らは結果から、その人間の性格を見ているのである。
                                 

困った本だって話の続きですけど、
正直最初からずっと鼻につく感じがしてたんですよ。
言ってることの胡散臭さもそうですが、
何だか、安易だなあっていう印象でした。

そしてその懐疑が明確な怒りに変わったのが、
「4 暴力の現在形」ってところでしたね。
中でも「解体する日本的コミュニケーション」、
「『われわれ』が『他者』になるとき」
を連続で読まされたときはもう読破をあきらめかけました。

前者は
日本人は他人の心が分からなくなった的な論説で、
もういかにもな感じでした。
ええ、またこの手の「社会学者」か、と。
後者は漫画を引っ張り出して、
何か言ってます。

それぞれ1992年、1990年に書かれたものです。
随分古いんですね。
この後、何とかあきらめず、目を通すぐらいしようかと思い、
結局全部読んだんですけど、
最後の方になって、少しはマシになったかなぐらいでしょうか。

でもやっぱり雑文の寄せ集めにしか見えません。
自分でもあとがきで、「記憶」だからそのまんま~
とか何とか言ってますけど、
そんなの一人でやっててほしいです。
完全に自己満足じゃないですか。
私みたいにブログにでも書いとけばいいだけのことじゃないですか。

色々と残念な本でしたね。
出すのなら、もっとちゃんと書いてほしかったです。

ジョン・T・ウィリアムズ『クマのプーさんの哲学』訳:小田島雄志、小田島則子

さらに言えば、この平和でしあわせな状態は政府機関によってつくられているのではない。ここには、国家もない、警察もない、法律もない、そして、罰則もない。あるのはただ、相手を破滅させたいと思う気持ちを抑えられるのは専制だけだと言ったホッブズに対する反論だけだ。 (p.86)

言ってることはめちゃくちゃかっこいいけど、
それ他のどんなほのぼの童話についても
全く同じことが言えませんか(笑)


ある哲学者(兼数学者)は言いました。
西洋哲学の伝統は、プラトンに付けられた注である、と。
今、私たちには次のようなことが言えます。
西洋哲学の伝統はプーに付けられた序文であった、と。

引用ではありませんが、
大体こんな文言から始まります。

「プー」とは、
あの間延びした声を発する頭の悪そうなクマのことであり、
わが国では「くまのプーさん」という名称で親しまれています。
はちみつにあらゆる生存目的をかけていそうなクマが、
これまでのどんな哲学者より
偉大な哲学者であったことを示そうというわけですが、
まあこれを本気で取る人はいないでしょう。

とりあえず、
ひとつプーの哲学というものに触れてみましょうか。
彼がはちみつを探す場面からです。

では、はちみつにかくされた深い意味は何なんだ? プーが本当にさがし求めていたものは何なんだ? そのこたえの一部をマタイ伝に見つけたからといってびっくりすることはない。この福音書には、洗礼者ヨハネの糧は「イチゴとはちみつ」だと書いてある。『ガリヴァー旅行記』の作者でもある司祭スウィフトは、はちみつを「最も高貴なる二つのもの、すなわち、甘美と光明」に結びつけている。(中略)ヨハネの例で見たようにはちみつを精神的探求の象徴としたり、そのほかの例に見たように探求に成功した人へのごほうびの象徴とするという伝統は、古代からえんえん受けつがれていることだ。 (p.16)

なるほど、そういえば旧約聖書の方にも、
乳と蜜の流れるべとべとした約束の地カナンとかありましたね。
ところで、「イチゴ」は「いなご」の間違いかも。
まあそうであったとしても、問題はない。

だから、この物語に出てくるはちみつの第一の意味は哲学的真実であると自信をもって言える。 (p.17)

ナ、ナンダッテー
と、こんなのがずっと続くわけですね。
古代ギリシアの哲学から始まっていて、
最初は面白おかしく読めていたんですけど、
そのうちこの強弁にも飽きてきまして(笑)

適当に読んでたんですけど、半分ぐらい読んで気づいたんですよ。
あ、これ入門書だ って。
章も時代やジャンルに沿って立てられていたんですね。
『クマのプーさん』が好きな人は
読んでみてもいいかもしれませんね。
途中分かりにくいこともあるでしょうから、
適当に流し読みでもしつつ、
雰囲気を楽しめばよいと思います。

私は別にプー愛好家でもなんでもありませんが、
意外と深い読み方ができるものですね。
実際に興味深い記述もたくさんあって、
そのうちのひとつを紹介してみましょう。


(クリストファー・ロビンは言いました)
「……ぼくがいちばんしたいことは、なにもしないことなんだ」
「なにもしないことをどうやってするの?」

ながいこと考えてからプーはききました。

「うんとね、出かけて行くときに、『クリストファー・ロビン、きみなにをしにいくんだい?』ってきかれるとするでしょ、そのときに『なんにも』ってこたえて、なにもしないことをしにいくことだよ」
「ああ、そうか」とプーは言いました。

「ぼくたちがいましているような、なにもしないこと、ってわけさ」
「ああ、そうか」プーはまた言いました。

「つまりね、出かけて行って、きこえない音をきいて、それで、くよくよ考えこんだりしないってことさ」
(p.220,221)

なかなか考えさせるフレーズですねえ。
この著者のウィリアムズという人は、
めちゃくちゃなことばっかり言ってるように見えますが、
きっとかなりのプーさん好きなのでしょう。
終盤を読んでいて、なんとなくそんな気がしました。

この本では
「一つのエピソードに複数の哲学を見出す」
というのが「大きな特徴」とされているわけですが、
不思議なものです。
多少強引なところはあるにしても、
よくこれだけの哲学的要素を引いて来れたものと思いました。

果してこれはミルンの『クマのプーさん』が優れているからか、
それとも、
哲学的記述がどんなものにでも対応できるほど発達しているからか、
どちらでしょう。

もしかすると、
哲学的記述が何でも語れるというなら、
そんなものは何も言っていないのと同じで、
大した役には立たないという、
かの偉大なクマによる哲学の集大成かもしれません(笑)

『古事記』梅原 猛

日本神話って意外と少ないんだね。
80ページぐらいが純粋に神々の物語で、
それからもう神武天皇出てきちゃうんだね。

しかし神話は面白い。
神の行いが、私たち人間の理解を突き抜けちゃってるせいだろうか。
神に人間的な倫理とか判断は通用しない。
神々の間では何が起きてもよいのだ。

たとえば、荒れ狂う須佐之男命(スサノオノミコト)は、
姉の天照大御神(アマテラスオオミカミ)の統治する
高天の原(タカマノハラ、天界のことよ)で、
姉さんお手製の田んぼをぶち壊しまわり、埋め立てます。
さらに、天照がお食事するためのお屋敷に、糞をしちらしました。

これに対して、天照は、
「糞のように見えるのは、酔って吐きちらした反吐であろう。わたしの愛しい弟がしたのだよ。また、田の畔をこわし、溝を埋めたのは、農地を広くしようと思ってしたことであろうよ。わたしの可愛い弟がしたことだ」 (p.25)
などと、慈悲深くおっしゃるのです。
なんという女神でしょう。

まあ結局、このあと愚弟が神の着物を織ってた機屋(はたや)の天井から、
皮をはいだ馬を落とし入れて(!?)、
さすがのお姉さまも天の岩屋戸にひきこもっちゃうんですけどね。


まったくなんと派手に突き抜けた話だろう。
人間の私たちには到底出来そうもなく、
イカレた物語といえる。

神々の世界は広い。
自由がある。
肉体的にも、精神的にも、人間など比にならないほどの自由がある。
宗教的に言うならば、「神にとっては一切が可能」なのだ。
そんな彼らが互いに、
(人間的な判断からは)荒唐無稽とも思えるような行動を
とるのがいいんじゃないか。

人間は不自由だ。
「そ~ら~をじゆぅにっ、と~びたっいな~♪」
などと言ってみても、
この重たい身体が、枷になって、
心ですら人間的な倫理が限ろうとする。

だから、彼らには、無限の力を持って、
時に狂気に、時に人間的に、
自由に立ち回り、演じてもらいたいと思います。

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bq69pd

Author:bq69pd
年が明けたと思ったらすでに春が来ていた。次の更新が夏にならないことをお祈り。

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