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はじまり

今までキルケゴールのことを云々かんぬんしてきましたが、
やっとそれなりの形になったので、
一挙公開といきましょう。
量はおよそ6万字、
新書サイズで考えると100ページくらいですから
よほど興味あるか、暇な人じゃなきゃ読めませんねえ。
それにキルケゴールに興味あろうと、
所詮素人の書き物ですし、
ほんとに誰が読むんでしょうねえ。
まあ、つべこべ言わずに始めましょう。


本記事は、タイトルにある通り『死に至る病』の解釈と、「主体性」に関する若干の考察を目的としたものである。これらはセーレン・オービエ・キルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard, 181355日~18551111日)によって書かれ、唱えられたものであり、彼自身について一言で言い表すのは難しい。著作家、哲学者、心理学者、神学者等々、こういうものを混ぜ合わせたら彼になるかもしれない。
構成の方は全3章となっており、各章とも3節に分けた。実に分かりやすい構成となっている。
1章はキルケゴールの生涯を扱っており、解説書でよく取り上げられるようなところをピックアップしている。ただ第3章との関係もあって、コルサール事件や教会攻撃といった批判ものを少し強調している。本当のところを言えば、なくてもよかった章である。個人的に、人の思想について学ぶのに、必ずしもその人の生涯を知ることが重要ではないという考えを持っており、今回も特にその必要性を強く感じたということはなかった。どうしてもそれが知りたければ、自分で適当に解説書を一冊でも読めば済むことである。しかし一応書くことに決めたので、日記の記述を増やして、少しでもマシなものにしようという努力はしたつもりである。
2章は『死に至る病』の解説であり、私が一番に考えていたものである。どうして哲学書というのは、こうも読みにくいのか。学者たちの陰謀か何かか。実際、訳されたものの中には、わざわざ難しい言葉を当てていることもあるとかで、元の言語で書かれたものを読んでみると、実はそんなに難しくなかった、ということもあるようだ。そこで私は『死に至る病』について、自分が理解したことをできるだけ易しく伝えたいと考えた。これが『死に至る病』になったのは偶然で、どれでもいいから選んだらこれになったというだけの話である。この本の訳が悪いなどと言う気もまったくないので、おかしな勘違いはよしてもらいたい。
3章は「主体性」の考察である。最初は大して乗り気でもなかったのだが、キルケゴールを調べているうちに、重要だと思えるようになったこと、やっているうちにある点で、私が抱いていた問題意識と重なったことがあり、やる気が増した。しかしそのこともあって、少し現代的、主観的視点が混ざっており、キルケゴールに付かず離れず、ギリギリのところを縫っていったという感覚が少なからずあった。そのため、素直にキルケゴールの「主体性」を考察したと主張できない「うしろめたさ」のようなものがあるわけである。
これで構成については述べ終えた。読みにくい文章を読まされるときの苛立たしさは、私自身十分理解しているつもりなので、全体的に分かりやすい文章を心掛けてはいる。それでも頭を使わないと理解できない部分も出てくるかもしれないが、分からないなら分からないで、飛ばすなり何なりして、気楽に読んでいってもらえれば幸いである。別に分かりやすさのために文脈無視した引用をしたということもないから、そう硬くならないでもらいたい。おせっかいめいた註や言い回しにくどく感じることがあるかもしれないが、これも大目に見てもらいたい。分からない人というのは、分かる人にとっては取るに足らないように思えるところで、つまずいているものなのである。

第1章 生涯

がうざいことになっているので、
引用を示すものでないとこだけ、
緑色で背景を塗っておきました。

1
章 生涯
キルケゴールの容姿について、姪のヘンリエッテ・ルン(姉ペトレアの娘)が後に『家族の思い出』の中で、以下のように綴っている。
「彼の聡明そうな顔、その洗練された風貌全体……鼻は繊細すぎる位いな、貴族的な反りを示していた、ソェーレン叔父の鼻は、湾曲してはいるが大胆そうな、また肉付のよいものであった。一方、口と眼、頭の形と髪の豊かさは見事なものであった。挙措もまた大変特徴のあるものだった。彼の口は大きかった、けれどそれは、淡い憂愁と深い情から、大胆な嘲弄と洗練された皮肉――これは少なからず顕著な特徴だが――に至るまでの色んな段階の気分をその反りの線に表わしていたのは不思議な位いだった。そして眼と来たら、年と共に失われて行くといったものは何もなく、寧ろその元来が精神の籠った表情は益々強い輝きを持って来て、病院で私が最後のお別れに彼を見た時にも、星のように輝いていた」[1]
今風の言葉で言えば、彼は「イケメン」だったのではないだろうか。何かと波乱の人生を送った彼だが、家族の目から見るとどうであったのか、合間合間にヘンリエッテ・ルンに語ってもらいながら、紹介していくことにする。

 
1節 大切な人との関係
キルケゴールの生涯を語る上で、必ず出てくる人物、彼に思想上の決定的な影響を与えた人物として、二人が挙げられる。彼の父ミカエルと、「元」婚約者レギーネである。思索家としてのキルケゴール、著作家としてのキルケゴールはこの二人の影響なくしてはあり得なかったであろう。本節で語られるのはその二人との関係である。
 
・父ミカエルとセーレン
キルケゴールは1813年、父ミカエルと母アンネの7人目の末っ子として、デンマークの都市コペンハーゲンに生まれた。このとき父は56歳、母は45歳であったが、そのせいかキルケゴールは病弱で体格もよくなかった。
父ミカエルは卑しい身分から勤勉と商才で裕福な毛織商人となったが、アンネと再婚する頃に40歳で引退し、宗教や哲学などによる静かな内面生活を送っていた。キルケゴールの生活はほとんどこの父の財産によって営まれていたが、彼が父から受けたのは経済的な支援だけではない。「私は何と言っても私の父に初めから全ての事を負っている。」[2]と言われるように、彼の思想は彼の父に絶大な影響を受けているのである。

父のミカエルは貧しい農民の子として生まれ、荒野で羊飼いをしながら、寒さと飢えと孤独な生活に苦しんだ。そして12歳のある日、彼は雷雨の中で絶望に駆られて激しく神を呪った[3]。ただ一度のこの神への反抗が敬虔な彼の胸に生涯つっかえ続けた。彼はその償いの意も込めて、幼少からキルケゴールに厳しい宗教的しつけを課した。その厳しさはどれくらいのものだったかと言うと、「……幼時私は厳しくかつ熱心にキリスト教をたたき込まれた。人間的にいえば気違いじみた教育をうけてきたのである。憂愁の老人は自身がその憂愁の重圧の下敷となっていたのであったが、すでにきわめて幼いころからその重みを私の上に載せかけたために、私は圧しつぶされていた。正気の沙汰とも思えないが、一人の小児が憂愁の老人の扮装をさせられたのである。空おそろしいことだ。」[4]と彼に言わせるほどのものであった。

 
父ミカエルが神を呪った直後に、突然の親戚の招きでコペンハーゲンに出てからは、靴下商から始め、店を広げて織物や食品材料を手広く扱う卸商になった。彼はこの富裕への道をたどりながら、そこに神の手がはたらいていることを見、それがかえって神の復讐ではないかとおびえた。

彼は自分が果たそうとして果たせなかった信仰による幸福を、子供たちに期待した。長男のペーターは牧師となったが、父の期待は特に末子セーレン[5]にかけられていた。宗教的敬虔と義務を大切に考える生活を厳しく求め、セーレンも父に対する素直な愛情と尊敬の念から、父の期待に応えようと従順な努力を積み重ねた。この親子関係は一見辛く大変そうだが、それほどのものでもなかった。父ミカエルは宗教だけでなく哲学にも深い関心があり、友人を招いて哲学的議論をしばしば行っていたのだが、この論争をそばで聞き入ることがセーレンの楽しみの一つだった。ここで発揮される父の優れた弁証の才は、幼いセーレンにとって賛美と驚嘆の的となった。また、セーレンが外で遊びたいと言っても父はそれを許さず、代わりに部屋の中で子供の手をとって歩き回りながら、まるで町や海岸や森の中を本当にめぐっているかのように物語を聞かせてくれることが多かった。セーレンは父と共にする想像の楽しさを持っていたので、他におもちゃなど必要ないほどだった。
ところで、女中上がりのキルケゴールの母は快活で気立てがよく、彼は母から陽気でユーモラスに振舞う社交的能力を譲り受けた。母親譲りのこの能力によって彼は先生や友人にも愛された。

 
・父からの独立
1830年に17歳でキルケゴールは、宗教を重んじる老いた父の願いにしたがって、コペンハーゲン大学に入学した。彼は1834415日から20巻に及ぶ膨大な日記を書き始め、この年と翌年の1835年の日記の内容はほとんど神学に関する感想文だったが、だからと言って神学の研究に没頭していたわけではない。彼はこの時期、神学よりは文学や哲学などの自由な教養を求め、多面的興味にめざめて学生たちの討論クラブやカフェや劇場に出入りし、放浪していた。こうして彼はしだいに父からの独立の道を歩み始めた。

そんな彼にとって厳しい宗教的な雰囲気に包まれた家庭での生活は窮屈で重苦しかった。この空気を和らげる役割の母は前年に亡くなっており、兄のペーターはまじめな神学者として精進を重ねながらも、父が弟にばかり期待するのを不満に思っていた。その父も、妻や3人の子供たちが32年から34年にかけて次々死んでいき、セーレンは神学から遠ざかっていき、兄と弟の仲が悪くなっていくのを見て、深く悲しんでいた。そこで父はセーレンを気分転換にと少しの間旅に出す。
 
・実存の原体験
ギレライエ周辺地図  
キルケゴールが訪れたのはギレライエである。シェーラン島の北端にあって、スウェーデンの向かいに位置する。地図を置いたので参照してもらいたい。ちなみに左端に見えるセディングが父の出身地であり、この地方で彼は神を呪ったのである。
さて、キルケゴールはこの保養地で、馬車を駆り、散歩し、癒されていたわけだが、中でもよく訪れたのはギルベールの断崖だった。200メートルもあるという断崖に立ち、広大な空、はるかにある水平線、打ち寄せる波、そのようなものを見て彼は、「人生のわずらわしい騒音」が消えるのを感じ、安らいでいた。

彼の実存の原体験が起こるのはこのような土地でであった。「一八三五年八月一日、ギレライエにて。……もともと私に欠けているのは、私がなにをなすべきかについて、私自身で決着をつけること、なのである。それは、私がなにを認識すべきかについてではない。もちろん、あらゆる行為には、ある認識が先行すべきだということは別としてである。問題は、私の使命を理解すること、私がなすべきこととして神がそもそもなにを欲しているのかを知ることである。重要なのは、私にとって真理であるような真理を見出すこと、私がそのために生きかつ死ぬことをねがうような理念を見出すことである。いわゆる客観的真理を私が発見したとしても、それが私になんの役に立つというのか。」[6]これがあの有名な「主体性は真理である」というテーゼの元型である。

 
・絶望と遊蕩の中で―「大地震」[7]と父の死―
旅から帰って、彼は再び青春の彷徨を始めてしまう。そしてコルサールのゴーストライターとなったP.L.メラーや、アンデルセンらとカフェハウスや行きつけのレストランなどで、ワインを酌み交わしながら文学論に夜を更かすといった日が続いたのである。18367年の日記には自殺こそが最大の救いだという絶望的記述もちらついており、「破滅の道」であったとも後に回想されている。そんな時、恩師であったP.M.メラー教授が病に伏した。彼はこのときキルケゴールに対し、「君はまったくポレミカルだ」と言い残し、この世を去っていったのである。これは知的な抗議を表すものとしての「論争的」ということではなく、人生に反逆し、これを食い尽くそうとする彼の傲慢を戒めるものであった。また時期を同じくして、「大地震」が起きる。

「さあ大地震だ、現象全体を説明する新しい間違いのない法則を突如として私に用いざるを得なくさせる恐るべき転換が起ったのだ。今こそ私が感付いた事は、私の父の高齢は神の祝福ではなくして、寧ろ呪いだったという事、我々家族の優れた精神的素質はただ互に相反して磨り耗らすためのものだったという事だ。私の父を、我々皆んなに先立たれる筈だった不幸な者、つまり彼自身のあらゆる希望の墓の上に立つ墓標の十字架、として考えると、もう私は死の静寂が私の周囲に増して行くのを感じた。或る責罪が我々家族全体の上に横たわっているに相違なかった、神の罰だ。それは消え去るべきだった、神の強力な手によって拭い去らるべきだった、恰も過失であった如く拭い去らるべきだった、」[8]

「大地震」についてこれ以上具体的に述べられることはなかったが、おそらく父の罪と、それに基づく深い不安を知らされたことだと信じられている。つまり父が子供の頃、神を呪ったことか、抵抗できない立場の女中を父が犯して、結婚以前にその子をはらませたということを知り、自分が罪深い父と母の子であることに気付いたことである。尊敬していた父がとてつもない罪びとで、自分もその罪を受け継いでしまったのだと自覚させられたことが、「大地震」の内容と言われる。

彼の兄弟は1834年までの間に、7人中5人が死んでおり、一番長生きした次女と三女は共に33歳で死んでいた。このことから父は、子供たちは皆33歳までしか生きられず、自分は最後まで生きて、孤独な老年を迎えさせられるのだと信じていた。それはセーレンにとっても同様で、彼が34歳になったときの日記からも窺える。「私が34歳になったという事は奇妙な事だ。これは全く私には合点が行かぬ。私はこの誕生日の前かその当日に死ぬ事を全く確信していたので、私の誕生日が誤って申告されて居り、そしてやはり実際の34歳で死ぬのだ、と仮定する気持にほんとに(いざな)われざるを得なかった。」[9]

恩師の死と「大地震」を経験し、彼は遊蕩生活から復帰する。そして父との和解を果たすが、それからまもなく、183889日、父ミカエルは亡くなった。
 
私は何と言っても私の父に初めから全ての事を負っている。父は憂愁だったが、その彼が憂愁な面持ちで私を眺めて、私に乞い訴えた言葉は、「いいか、お前は本当にイエス・キリストを愛していいのだよ!」[10]

 
・永遠の恋人レギーネ
次に紹介するのは、キルケゴールの「元」婚約者レギーネ・オルセンである。「元」という付属語が気になるかもしれないが、そんなことはすぐに明らかになることだ。キルケゴールは彼女から大きな影響を受けた。特に彼の最初の頃の著作などは、彼女のために捧げられたと言ってもよいほどだ。果たして何が彼をそこまでさせることになったか、それをここで見ていくことにしよう。
 
・レギーネとの出会い
キルケゴールが生涯をかけて愛した女性レギーネ・オルセンに出会ったのは、183759日、レールダム家のパーティにおいてであった。彼はこの家のボレッテ・レールダムという女性に少々ひかれており、彼女の方もその気であったらしい。それでしばしばレールダム家を訪ねていたのである。そこで彼は若い娘たちが、春の陽気な日差しの下で楽しくお茶を飲んでいる風景を目撃する。その中にレギーネ・オルセンの姿があった。レギーネ14歳、キルケゴール24歳の年の、ある晴れた午前のことであった。以降、しばらくキルケゴールは神学試験のための勉強に専念し、1840年に見事合格を果たす。ただ彼は父が亡くなる前からもう彼女に心を決めていたと、日記に残している。
試験合格後の719日から86日まで、彼はユラン地方を旅する。それはかつて父が神を呪った貧しい故郷であり、後の彼の行動を考えると、彼なりの決意や意気込みの表れだったのかもしれない。
 
・レギーネとの婚約
旅行から帰ってきた8月と9月が、厳密な意味で彼女に近づいた期間であると日記に述べており、実際旅行から帰ってきてすぐに、彼はレギーネの家を訪問するようになる。そして98日、彼が彼女との関係に一つの決着をつけることを望んだ日のことである。「彼女の家の前の路上で私達は出くわした。家には誰も居ないと彼女は言った。私は大胆にも、これこそ自分に必要な誘いだと思った。私は一緒に家へ上った。私達二人だけになって居室に入った。彼女は少し不安そうであった。私は彼女にこれ迄よく彼女がしたように何か弾いてくれるように頼んだ。彼女はその通りした、しかしそれではどうもうまく行かない。で急に私は楽譜を取上げて、かなり激しく閉じ、それをピアノの上に投げやる、そして私は言う、ああ音楽の事なんか構わないのです、私が求めているのはあなたなのだ、私は二年間あなたを求め続けて来たのです。彼女は一言も言わなかった。私はそれ以上は彼女の心を奪うような事は何もしなかった。寧ろ私自身に、また私の憂愁に用心するよう警告すらした。しかし彼女がスレーゲルへの関係[11]について述べた時に私は言った、それではその関係は括弧に入れた挿入句にして置きなさい、何といっても私が第一抵当権を持っているのだから。」[12]


それから両者とも黙ったまま、キルケゴールが先に家を出て、彼女の父の所へ出かけていった。彼女の父は、彼の行為に関してよいとも悪いとも言わず、それでもどうやら乗り気のようであったのだが、キルケゴールがレギーネとまた話をさせてほしいと頼んだところ、
910日の午後許されて話をした。彼は何も言わず彼女の言葉を待った。彼女は、えゝ、と言った。この日、キルケゴールとレギーネは婚約した。
キルケゴールはすぐに持ち前の社交力を発揮して相手の家族、特に父親との関係を深めていった。彼はレギーネの父に対して好ましい感情を持っており、その思いはレギーネに対してと同様、最後まで変わりなかった。

 
 
・婚約破棄
愛し合う二人、家族との関係にも何の憂いもなく、誰の目からしても、すべては円満に進むように思われた。しかしキルケゴールの持つ不安や憂愁、神を志向する意思がこのままで終わらせはしなかった。婚約が決まってからすぐに、彼は自分の行いを悔いることになったのである。そのときのことを彼は次のように述べている。
「しかし内面はどうかと言えば、その後数日して、私は過ったということが分かった。私のような痛悔者、私の従前の経歴(vita ante acta)、私の憂愁、それだけでもう充分だった。」[13]

彼は婚約してすぐに、それを後悔していたのである。それは決して彼女のことが嫌いになったからというごく単純な理由によるものではない。彼はレギーネのことを何よりも愛していた。地上的なもののうちで最も大事な存在だった。
「しかし、神の抗議があったのだ、と私はそれを解釈した。即ち結婚。私は非常にたくさんのことを彼女に秘密にしなければならなかった、全体のことを虚偽の上に作り上げねばならなかった。」[14]
こうしてキルケゴールは最も愛する人を、自分から捨てて、さらにそのことについて語ることはできず、また誰にも理解され得ぬという過酷な運命の中に身を投じることを強いられることとなってしまったのであった。

婚約から11ヶ月後の1941811日、キルケゴールは次のような内容の手紙とともに、婚約指輪をレギーネに送り返す。
「どうしても起こらなければならなくて、いったん起こってしまえば必要な力を与えてくれると思われることを、このさき何度も試してみることはやめて、それはもう起こったことにしてください。何よりも、こうしてこれを書いている者を忘れてください。
絹ひもを送ることは、東洋ではそれを受け取る者の死刑を意味しますが、指輪を送ることは、ここではたしかに、それを送る人間の死刑を意味することになります。」[15]
さて、このような意味不明な手紙を受け取ったレギーネは、もちろん納得しなかった。彼女は自暴自棄になり、自殺までほのめかすようになった。キルケゴールに出来たことはひたすら荒れ狂う彼女を全力で突き放すことぐらいであった。娘の姿を憐れむ父もキルケゴールに彼女と別れないでほしいと頼むが、それでも彼は彼女との復縁を口にすることはなかった。

「彼女は私に尋ねた、あなたはもう決して結婚しないつもりですかと。私は答えた。そう十年間は、しかしもし私の気分が静まった時には、若返るために若い血潮のお嬢さんを得なければならないと。どうすることも出来ない残酷さ。それから彼女は言った、私があなたにしたことを許して下さいと。私は答えた、それは私が言わねばならないことですと。彼女は言った、私のことを考えると約束して下さいと。私はそうした。彼女は言った、接吻して下さいと。わたしはそうした――けれど情熱は無しに。おお可哀想に。」[16]
 
分るかい、レギーネよ、永遠の内には結婚というものはないのだよ、そこではスレーゲルも私もみんなお前と一緒に居る事を楽しむのだよ[17]

 
・再会
レギーネとの関係を断ち切り、18411025日、彼はベルリンに留学のために出発した。そしてベルリン大学に行き、講義を受けていたのだが、どうも講義が我慢ならないということで、それからあとは『あれか・これか』の原稿を書いて過ごした。予定では1年半の滞在であったが、4ヶ月半ほどで切り上げることにし、184236日にコペンハーゲンへと戻ってきた。そこで思いがけぬ出来事に出会った。

1843416日の復活祭の日曜日のこと、「聖母(フルーエ)教会(キルケ)での晩の讃美歌の時に、彼女は私に頷きかけた、それが乞い願う意味か、許すという意味かは私には分からないが、しかしともかく彼女は赤くすらなった。私は離れた席に腰を下ろした、けれども彼女は私を見つけた。おお、そんなことを彼女がしなければよかったのに。今となっては一年半の間の苦痛は無駄だったのだ、私の非常な努力は全て役に立たなかったのだ、彼女は私が欺瞞者だとはやはり信じていないのだ、彼女は私を信じているのだ。」[18]

後に彼自身、遠くからだったので彼の見間違いか別の人への会釈だったのかもしれないと反省しているが、この時の彼にとっては決定的な出来事であった。彼が神の前で諦めの騎士となり、捨て去ったレギーネをもう一度、神から受け取りなおす可能性が出てきたのである。そこで彼はレギーネと別れた後の行動を、ベルリンへの旅を「反復」するのである。

会釈から3週間後の184358日、彼は再びベルリンへ発つ。そしてまたわずか3週間後の530日に帰ってくる。この短い期間で、『反復』、『おそれとおののき』の二著の草稿をほとんど完成させている。しかしそのあとすぐに、レギーネとスレーゲルの婚約を知ることになる。その結果、『反復』の内容は急いで書き換えられねばならなくなり、その上で、本来の完成順序とは逆の順番で、つまり『おそれとおののき』、『反復』という順番で出版社の広告に載ることになり、1016日に両書が出版された。
 
・永遠の二人
18491121日、「<彼女>に関する最後の処置」と題される日記の中で、彼は次のように述べる。
私の死後、著作は彼女と私の亡父に捧げられるべきだという私の意志は変わらない。彼女を歴史に属させる。[19]
この文章について、訳者の大谷は一つの見解を示している。「……ここに最後の意志表示をなして彼女を『飾り』歴史的な盛装を装わしたものと言える。1849年といえば、彼の主著の大部分は既にこの世に出で、立派に式場長の資格を名実共に自認出来たのである。」[20]
こうして、キルケゴールは彼女との関係を永遠なものとし、歴史の中では、スレーゲルは本当に「括弧に入れた挿入句」となってしまったというわけである。

 
 
・レギーネのその後
キルケゴールとはもうあまり関係がないが、気になる人もいるだろうから、少しだけ触れておくことにする。レギーネは元々の許嫁であったスレーゲルと結婚したわけだが、スレーゲルは彼女の過去について何も咎めたりすることなく、流れでキルケゴールの名前が出てきたときも柔らかい調子で彼女と接した。またスレーゲルの部屋でキルケゴールの著書を一緒に読むこともあったし、1869年にキルケゴールの遺稿第1巻が出たときも、スレーゲルは彼女の願いで、すぐにそれを買い求めたとのことである。

「彼女に向かって、あなたのお手紙なぞから考えてあなたの心は充分安らかではないと思える、と言う人があると、彼女はそれに答えて、我々人間は気分というものに大変左右されるものだから、私の差上げた手紙なぞからそういう気分を読み取られたのはあるいは自然かもしれないけれど、もし私が自分は幸福じゃないと言うなら、私は誠に恩知らずでしょう。いえ私は稀な位い幸福なのです。そして幸福な結婚という事が人生における主要事をなすという事はしばしば言われていますが、スレーゲルと私はお互に非常に強く依存し合っていますから、私達は互に豊かになっています、と書いて送ったのである。」[21]
ここに出てくる「手紙」が一体何を示すものか、判断付きかねるところがあるが、彼女からキルケゴールへの手紙は、すべて彼女の手によって燃やされた。

 
間奏曲 Intermezzo―ヘンリエッテ・ルンとキルケゴール叔父―
私の父が務めの銀行から帰宅して見ると、私の母と彼とがまるで二人の子供のように遊んだり争ったりしているのを見る事がしばしばだった。私の母はこの繊細な華奢な弟に心から愛着していた、……ソェーレン叔父は休暇には私達と色々係り合った、そして少くとも私の場合は、よくからかわれる結果になる事もあったが、そんな時に、私がその痩せた身体(からだ)つきを眺め、身体全体を揺するような、短い圧し潰した笑いを聞くと、たちまち私は最初「もう和解なんて出来ない、関係はこれっきりだ」と考えた、するとやがて間もなく、からかいの背後に情愛の隠されているのが分る、そして彼に会う勇気と喜びが再び帰って来るのだった。物の答えが活発にやりとりされればされる程、ソェーレン叔父は喜んだ、そして彼のクックッ笑いは直ぐ人に(うつ)って行く始末であった。ある時私は妙案がなかったのと絶望的になっていたために、争いに熱した挙句、すぐ手出しをして、答える代りに彼の横面をはたいた事があった。ソェーレン叔父は、相手が自分にそういう権利があるからといって、顔に唾を吐かれるような事になった人が言うようにそう、だがそれは何の証明にもならない」と言う事は出来ただろう。そして実際一瞬の間、私の頭上にはそれよりももっと鋭い注意が下されようとしているかのように思われた。だが彼が私の狼狽を見て取った時に、彼は無邪気な大笑いをドット爆発させた。[22]

 
2節 コルサール事件
『コルサール』とは、ゴルスミットによって編集出版されていた反抗的風刺新聞である。1840年代のデンマークにおいて、この新聞は一つの「恐怖政治」を行っていた。多くの公人がプライバシーを暴露され、大衆の哄笑にゆだねられた。しかし地位のある人々は、この新聞を許せないとしておきながらも、他人がその対象となっている限りは、密かに読んでいたのであった。
本節では、キルケゴールと『コルサール』の戦いを追い、この戦いが彼に何をもたらしたかを考察する。
 
P.L.メラー
P.L.メラー(Peder Ludvig Møller 1814-1865) は、『コルサール』のゴーストライターであった。
彼は文学や美的生き方に長けていて、キルケゴールの遊蕩時代は気の合う仲間だったが、その当時からキルケゴールの中には深い憂愁が渦巻いていたのであり、メラーはその決定的な相違には気付いていなかったであろう。彼はその才能ゆえにコペンハーゲン大学の美学の教授ポストに就きたいと野心を抱いていた。

キルケゴールが『コルサール』のゴーストライターが彼であることを知ったことも『コルサール』攻撃の原因になったとされるが、直接的なきっかけは、メラーがキルケゴールの著作に関して的外れな評論を重ねたことである。184612月、彼は『人生行路の諸段階』について、美的段階である第1部「酒中に真あり」を賞讃し、深い宗教的段階を描いた第3部「罪責があるか・罪責がないか」をよく評価しなかった。これは、本来宗教的著作家であるキルケゴールからすればとんでもない片手落ちに終わってしまっていると見えたことだろう。宗教性を否定し、美的段階の面白さのみを評価されたのでは何の意味もない。それでは、「私と仮名著者とをそのままごっちゃにしてしまっている」[23]と言われざるを得ない。
これに対し、キルケゴールは別の雑誌『祖国』に次のような論文を寄稿することで、『コルサール』との戦闘に入る。

 
vs.コルサール
「わたくしはむしろコルサールで取りあげてもらいたい。なぜかといって、そこでののしられないただひとりの作家としてデンマークの文学史上に残ることは、作家としてつらいことではないか。P.L.メラーのあるところ、そこにコルサール紙あり」[24]
『コルサール』のゴーストライターがメラーであるという暴露は、美学教授を狙っていた彼にとって大打撃となった。

年明けの1847年からコルサールからの攻撃が始まる。19277号では、「キルケゴールは仕立屋にズボンの長さの違った服をつくらせたが、それは、ズボンも、長いか短いか、あれか、これかでなければならない」[25]という攻撃がなされ、2ヶ月ほどの間、ほとんど毎号のように、キルケゴールの猫背や痩せた足、だぶだぶのズボンをだらしなくぶら下げたキルケゴールを嘲笑する漫画が掲載された。こうしてキルケゴールは、公衆の物笑いの種に仕立て上げられ、だらしない服装をした子供は母親から、「セーレン=キルケゴール!」と注意され、キルケゴールの散歩姿を見かけた子供たちは、『あれか、これか』と彼を馬鹿にするほどだったという。彼はこのときのことを日記に書きしたためている。

「教会で腰を下していると、23の野人共が無作法にもその側に腰をかけ、その者のズボンを絶えず覗き込み、ことごとく人に聞き取れる程の大きな声で話し合って、その者を罵ける[26]、という事。」[27]
「侮慢を以て、胸の悪くなるような仕方で、私は取扱われた、国民的な犯罪が私に向って犯された、私と同じ世代の人々による裏切りだ。」[28]
禍害(わざわい)なるかな新聞! キリスト今もしこの世に来り給わば、狙いをつけ給うのは、きっと祭司長等々にはあらずして――新聞記者であるだろう。」[29]

日記の一部を取り出したものだが、さすがに外に出るたびに公衆の悪意ある目や侮辱的な嘲笑をされることで、コーヒー店に腰を下ろすことも街中を歩くことも出来なくなり、参っていたようだが、それでも彼は『コルサール』に対する攻撃の手を緩めることはなかった。そしてついに刊行者のゴルスミットが『コルサール』から手を引き、この新聞を売却した。それと同時に、この事件は幕引きとなった。実際のところ、ゴルスミットはキルケゴールの毅然とした態度には、密かに尊敬の念も持っていたと言われる。ゴーストライターであったメラーは、彼の美学教授という目標が達成されなくなったので、パリに去り、そこで悲惨な生涯を終えたらしい。

 
・一件落着…?
これでコルサール事件は解決したということになるが、このことは彼の胸中に大きな問題意識を植え付けた。彼は、かの新聞の卑劣なやり方に対して、良識ある人々や教会などからの支援を期待していたが、誰一人助けてくれる者はなかった。『コルサール』の手口は非難しておきながら、自分に火の粉が降りかかってこない限りは、競って読み漁り、キルケゴールの勇敢な姿を個人的には讃えるが、公的には沈黙を守ろうとするそのやり方に、彼は、コペンハーゲン知識人たちにおける小市民的生活態度を見出すことになったのである。ここでまた彼の日記を見ておこう。

「しかり、確かに私は貴族だ(そして実際に自ら進んで善をなそうと思う者は全て貴族であり、貴族であったと言える、そういう者は何時の時でもごく僅かしか居ないのだから)、しかし私は、巷間路上に、また危険と反抗の渦巻く人間達の間に立とうと思うのだ。私は(マルテンセンやハイベルグ風に)、妄想のお添物の付いた孤立した仲間の中で、臆病に女々しく、上品さの中に立籠って生きようとは思わない(大衆がそれらの者を見る事が極めて稀で、従ってそれらの者が偉い人物なのだろうと思わせるような風にしようとは思わない)。」[30]

コルサール事件は彼にとって、一つの転機となった。神のみを絶対とするキリスト者は世間的な義務や幸福を絶対のものと考えてそれにしがみついている者たちからの迫害を覚悟しなければならないということに、身をもって思い知らされたのである。彼はこの世で自ら「単独者」、「例外者」として生きることを真剣に考え始める。

 
間奏曲 Intermezzo―ヘンリエッテ・ルンとキルケゴール叔父―
日曜の朝は一片の雲もない空で明けた。で午餐は庭の築山(つきやま)[31]の上で外でする事になった。その時ソェーレン叔父がどんなに活発に言葉を述べ、また面白い話や思い付きをどっさり出して私達を楽しませたかを私は憶えている。しかし夜になって、私達が小さな池の所で草の上に横たわっていた時に、彼の溢れるような快活さは突然止まって、深い沈黙を守ったままうっとり前方を見つめていた。
……次の日、ソェーレン叔父は、私達が説き勧めたにもかかわらず、早くも帰途に就いていた……その後ずっと年月が経た後、『遺稿』第1巻が出た時に、クリスティアン叔父[32]がこれについて次のような言葉を述べたのを私は微笑を以て聞いたのを憶えている、「いつも満足しているように見えた一人の人間が、こんなに心の底から憂鬱だったというのは考えるだに気味の悪い事じゃないか。だがこんな風に自分の能力を消耗して行く時には、人は上機嫌で居れるわけはないのだが!」……[33]

 
3 教会攻撃
キルケゴールがコルサール事件を通じて見たデンマークは、水平化され無名化した無関心的大衆の集まる小市民国家であった。そしてその彼の怒りの矛先は、無知な大衆ではなく、むしろそのことに対して無関心なキリスト教会に向けられた。
 
・教会攻撃への準備
彼の後期著作は、このような問題意識をはっきりと持ち、宗教的な性格に転ずる。1848513日には後期主著『死に至る病』の草稿がほぼ完成しており、この原稿が印刷所に渡されたのは1849628日のことであった。ここで1年余りのブランクがあるのは、彼がこの本の出版をためらったからである。この本を出せば、もう後には戻れないかもしれない、そういう思いが彼を引き止めていた。

キルケゴールが慎重にならなくてはならなかった理由は2つほど挙げられる。一つは、牧師になりたいという思いをまだ持っていたこと、もう一つは、父と彼の一家の牧師であったミュンスター監督に対する信頼と尊敬が失われてはいなかったことである。

牧師になるというのは、以前から考えていたことだったが、この時期になって、父からの財産が尽き果てようとしていた経済的な事情もある。彼はずっと自費出版で本を出してきたが、前述の通り、自分は33歳までに死ぬと思っていたので、これは痛い誤算となった。結局これは、父親譲りの家や、著書の版権を売るなどして乗り切った。19493月には、牧師になれないかとミュンスターに打診してもいるが、自分の考える神学校を作ればいいのでは、と冷たく返答している。

重要なのはこちらだが、教会攻撃をすれば、それはミュンスターを批判することにもならざるを得ない。キルケゴール自身、彼からは多くを学んでいるし、「父の牧師」でもあったミュンスターに対しては、ずっと尊敬の念を抱き続けていたのである。ミュンスターが目を覚ますと信じ、彼は足しげくミュンスターのところに通い続けたのであるが、やがて多忙を理由にあまり会ってもくれなくなり、1849730日『死に至る病』を、1850927日『キリスト教の修錬』を出版する。これらはキルケゴールの問いかけに答えようとしないミュンスターへの攻撃を含むものだったが、彼は『修錬』を「聖なるものとの冒瀆的なたわむれ」だと評している。こう言われてもなお、キルケゴールはミュンスターが生きている限りは、デンマーク国教会を、あからさまに非難しはしなかった。彼ら二人は、立場的には完全に対立しているようだが、個人的には、そこまで仲が悪くなっていたということでもないのではないか。1851年の日記には、ミュンスターと楽しく会話をしたということも書いている。
そして1851910日に『自己省察のために現代にすすめる』を出版して以来3年間、何も出版せず日記の内容も簡素になっていった。
 
・ミュンスターの死―国教会批判へ―
1854130日、ミュンスター監督が死んだ。マルテンセン[34]25日の葬儀で追悼説教を行い、「殉教者、真理の証人」と讃えた。それからマルテンセンはミュンスターの後任として監督に任命された。185431日にキルケゴールはミュンスター監督というタイトルの日記を書いている。

「彼は既に亡くなった。
もし彼の生涯が、彼が代表した所のものが本来キリスト教ではなくして一個の軽減[35]に外ならなかったという事を彼を動かしてキリスト教に対して告白させる事で終っていたなら、これは非常に望ましい事であっただろう、なぜなら彼は時代全体を担っていたのだから。
この告白の可能性はだから最後に到るまで、恐らく彼がなお死に際にでもそれをするのではないかと、そのまま未決定に保たれねばならなかったのだ。だからこそ彼を攻撃する事は許されなかったのだ。
……彼がこの告白をせずに死んだが故に、全ての事情は変った、今や、彼がキリスト教を錯覚のままに説き固めてしまったという事実のみが後に残っている。
……もともと私は自分の活動の全体が、ミュンスターの勝利に変る事を願ったのだ。この事を私は後年に到って一層はっきり理解したと共に、いつも変らぬ私の願いだった、ただ私は右の小さい告白を望まねばならなかったのだ、これは私が自分のために望んだというものではないのだ、そしてそれ故にこそ、ミュンスターの勝利だったと言われるように旨く整えられてあった事なのだ、これが私の考えだったのだ。
だが事態は余りにも進展したので、遂に私は彼を攻撃しなければならないと信じた。……」[36]

「真理の証人」や「殉教者」といった概念は、彼にとって重要なものとなっていた。そんな彼には、このマルテンセンの表現が、自分に対する挑戦のように受け取られたのである。彼は直ちに、マルテンセンに対する反駁文「ミュンスターは『真理の証人』であり、正真正銘の真理の証人のひとりであったか――それは真理か」を書いた。
しかし彼はここですぐに、マルテンセン攻撃を行ったわけではない。ミュンスターが亡くなって、マルテンセンへの引継ぎなども忙しかろうという配慮を見せ、2月に書かれたこの文書は、18541218日になってから、『祖国』紙上に公表された。キルケゴールを保守的な人と信じ、教会と国家の忠実な支持者として知っていた当時の人々は驚いて、彼の頭がおかしくなったのではないかと疑ったほどである。彼はこの後1855526日までの間に、21の新聞論説を発表しているが、教会も政府も、あのコルサール事件の折と同様の、賢明な沈黙を守って見せた。やがて『祖国』も扱わなくなったので、今度は『瞬間』というパンフレットを自費出版していった。

「キリスト教はこの国では全然存在していない、だが、キリスト教を再び獲得するという事が問題となるためには、まず誰か或る詩人が断腸の思いをしなければならない、そしてこの詩人は私だ」[37]彼はまさに身を切るような思いで、教会攻撃を行っていたのである。

闘争のこの期間、彼は攻撃論文の執筆に精力を傾け、訪問客も、手紙の返事も相手にしなくなっていた。ただブリュクナーという人が『キルケゴールの思い出』の中に語るところによると、「キルケゴールは、最大の明瞭さと落着きをもって、かれが引きおこした状況について語った。かれの生活にあのように深く侵入してそのさいごの力を要求した烈しい闘争のもとにあって、かれがいつもの心の平静さと確信を維持しえたばかりでなく、冗談をすら維持できたことは、わたくしを驚かした。」[38]とのことである。

 
 
・戦いの終焉
『瞬間』の第10号を準備していたとき、キルケゴールは意識を失って床に倒れた。しばらくは歩行の困難を感じたが、散歩できる程度には回復したので、街中を散歩していたが102日、再び路上で昏倒し、無意識のままフレデリク病院に運ばれた。それから死ぬまでずっと病院で過ごした。
18551111日午後9時、国家の官吏である牧師による最後の聖餐を拒否し、彼はこの世を去っていった。1118日、聖母教会にて葬儀、兄ペーターの告別説教の後、家族の墓に埋葬された。
 
間奏曲 Intermezzo―ヘンリエッテ・ルンとキルケゴール叔父―
あの最後の闘争の時期、あの苛烈な年においてもソェーレン叔父は彼の近親者の事を考えるのを忘れなかった。私の従兄弟と次兄が少し前に出発しているパリとロンドンに向って外国旅行をすればよいという考えを暗示したのは彼が最初だったかどうか、私はもはやはっきりとは憶えていないが、しかし彼はこの事を喜び、そして私も一緒に行くように彼が配慮したのだという事を私ははっきり知っている。私達が闘争を余りにも思い煩いはしないかという感情が彼を心配させたのだ。そして全く満足しきった表情で私達に別れを述べ、別れの最後の瞬間においてさえ、例のからかい調子で私の耳に囁く余裕を持っていた、「そして何はともあれお前の国の言葉を忘れなさるなよ」と。
その秋の初めに、突如、ソェーレン叔父が意識を失って路上に倒れたという報知が来た。……[39]


[1]大谷長『キェルケゴオル選集 日記』,人文書院,1949,p.6. 以下引用の際は『日記』と略す。
[2]『日記』p.121
[3]このときのことは、兄のペーターによって伝えられている。「あの老ミカエル・ペゼルセン・キエルケゴオルは、少年の頃ユランの荒野で羊の番をしていたが、自分を大変不幸に思う事がしばしばあった。彼は飢えと寒さに苦しみ、かと思うと太陽の燃えるような暑い光に晒された、彼は顧られずに棄てて置かれ、家畜にまかし切りにされた、彼は孤独で不幸だった。そのような気分の時、かつて彼は恐ろしい孤独感に圧倒されて、荒野の岩石上に立って、眼と声を天上に張りあげ、そして『主なる神を呪った、神もしそこに居まし給うならば、無援且つ悲惨な子を救い給う事もなく、かくは苦しむままにあらしむるをよく忍び給うや』と。だが少年のこの呪いの記憶は、子供の時も大人の時も老年になっても、その霊魂から消え去る事は決してなかった」(『日記』p.344
[4]『キルケゴール著作集 第18巻』,白水社,p.95より田淵義三郎訳『わが著作活動の視点』
[5]当たり前のことだが、キルケゴール家の人間はみな「キルケゴール」という名前を持っている。よって、明確に分けるため「セーレン」とすることもあるだろう。
[6]小川圭治『人類の知的遺産48 キルケゴール』,講談社,1979,pp.9899.
[7]「大地震」には1835年説と1838年説がある。実は以前別の機会には1835年説で説明し、しかもそっちの方が流れとして、受け入れやすいのだが、今回はあえて1838年説をとった。1835年説もいいが1838年説もそれなりに有力な証拠があるのだ。
[8]『日記』p.125
[9]同上p.138
[10]同上p.121
[11]スレーゲルはこのとき、彼女の婚約者であり、互いに引かれ合っていた。
[12]大谷長訳『キェルケゴオル選集 許嫁への手紙』,人文書院,1949,pp.206207. 以下『手紙』とする。
[13]同上p.208
[14]同上p.201
[15]佐藤晃一訳『キルケゴール著作集14 人生行路の諸段階』,白水社,1963,pp.7374.
[16]『手紙』p.214
[17]同上p.17
[18]『日記』p.30
[19]『手紙』p.240
[20]同上p.241
[21]『日記』pp.2728
[22]同上pp.68より、一部日本語として分かりやすく表現しなおした。
[23]『キルケゴール著作集18,白水社,1963,p.150より田淵義三郎訳『わが著作活動の視点』
[24]工藤綏夫『人と思想19 キルケゴール』p.74.
[25]小川圭治『人類の知的遺産48 キルケゴール』p.164
[26]「罵ける」だが、読みは分からない。「あざける」の間違いかとも思ったが「ののしける」でも雰囲気は出ている。
[27]『日記』p.94
[28]同上p.100
[29]同上p.105
[30]同上p.98
[31]庭の中で丘のように少し盛り上がったところ。庭園などにあるような。
[32]セーレンのもう一人の姉、ニコリーネの夫。復習がてら、ヘンリエッテ・ルンはセーレンの姉ペトレアの娘である。
[33]『日記』pp.89
[34]キルケゴールとは1834年に出会っており、彼の神学の講師であった。
[35]キリスト教の軽減とは、キリスト教の安売りで、本来のキリスト教が空疎にされたことへの批難を表す。当時のデンマークキリスト教界では、誰でもキリスト者という、キリスト教のバーゲンセール状態だったのである。
[36]『日記』pp.264265
[37]同上p.164
[38]工藤,前掲書p.86
[39]『日記』pp.910

第2章 死に至る病

「死に至る病」とは何なのか。
「死に至る病」とは、私たちが通常思い浮かべるような末期がんやエイズといった病気のことではなく、死そのものですら「死に至る病」とは何ら関係のないものである。それは私たちの一般的な理解を超えた病である。
しかし、もしそれが想像的な実体のない病でしかないとすれば、アンチ・クリマクスはただ妄想的な「病」について記述しているだけであり、むしろ彼自身がその病に冒されているのではないかと、嘲笑を浴びせられることになってしまうことだろう。
確かに、その病は私たち、特に日本人にとって、非常に分かりにくいものである。なぜならば、この病について記述するアンチ・クリマクスは、「過剰なまでのキリスト者」なのであり、その病はキリスト教的な見方による病なのだから。
さて、前置きはこれぐらいにして、早いところその病と、その患者たちに対する診察を始めるとしよう。
 
1節 絶望は死に至る病である
死に至る病とは、絶望のことである。彼の言う絶望が、私たちが普段口にする絶望と同じものでないことは、もはや言うまでもあるまい。「絶望は精神における病、自己における病」(p.27) [1]であり、それには3つの種類がある。「絶望して、自己をもっていることを自覚していない場合(非本来的な絶望)。絶望して、自己自身であろうと欲しない場合。絶望して、自己自身であろうと欲する場合」(p.27) 3つだが、これについてはまた後で詳しく述べることになる。
 
今重要なのは、絶望の根本概念を正確に理解することである。すなわち絶望が精神、自己における病であると言う場合における、精神、自己といったものが一体何を示すものなのかをまず理解しなければならない。ひとまずアンチ・クリマクスによる定義を見てみるとしよう。
 
「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。」(p.27)
 
『死にいたる病』の第1A.A.は全体を包括する定義が述べられている部分であり、私にとっては最も理解に苦しめられる部分であった。従ってこの部分について、私自身の得た理解をできるだけ平易に、詳しく語っておきたい。
 
まず精神だが、これは人間の肉体と精神(=心)という風に比べられるときの精神、つまり心のようなもののことではない。もっと大きな存在であり、人間を人間とするところのもの、それがあるから私たちが人間として規定されることのできるもの、とでも考えておけばよいだろう。そしてその精神が自己であるという。問題はこの自己である。さすがに「関係」だけで自己を説明するのは困難なので、先の引用の続きを示す。
 
「人間は無限性と有限性との、時間的なものと永遠的なものとの、自由と必然との綜合[2]、要するに、ひとつの綜合である。綜合というのは、二つのもののあいだの関係である。このように考えたのでは、人間はまだ自己ではない。
二つのもののあいだの関係にあっては、その関係自身は消極的統一としての第三者である。そしてそれら二つのものは、その関係に関係するのであり、その関係においてその関係に関係するのである。このようにして、精神活動という規定のもとでは、心と肉体とのあいだの関係は、ひとつの単なる関係でしかない。これに反して、その関係がそれ自身に関係する場合には、この関係は積極的な第三者であって、これが自己なのである。」(pp.2728)
 

この難解な定理を文章だけで解説するのには、明らかに限界がある。よって以下の図を利用する。

 人間、自己、精神
・有限性と無限性
まずは有限性と無限性の自己の間に注目してもらいたい。ここでは仮に、有限性と無限性としたが、実際のところ、これでなくてはいけないということではなく、使い勝手のよさそうなものを選んだだけである。有限性の自己とは、今あるがままの人間であり、目の前のことのみに捕われる人間とする。たとえば、何か食べたいと思えば食べ、遊びたいと思えば遊ぶ、そのような奔放な人間である。無限性の自己とは、想像の世界に生きる人間で、頭の中で生きる人間とする。誰しも想像の世界でならヒーローにでもヒロインにでもなれるし、思弁の世界でなら「真実」をつかむこともできる。経済学を学べば世界の経済がすべて理解できる、そう思い込んで、想像の世界で生きる人間である。
 
・「ひとつの関係」としての自己
私たち人間は、常に有限性と無限性の間を行ったり来たりしているのである。これが最初の、「自己とは、ひとつの関係」という部分に当たる。自己というのは、動的なものであり、常に「二つのもの」の間を動いているのである。この動きまわる自己が「ひとつの関係」なのである。
 
もしこの自由に動く自己を一点に(とど)めるものがなければ、それはその動的な自己という「ひとつの関係」そのものが「消極的統一としての第三者」の役割を担うこととなる。つまり動的な自己が勝手に自己の位置を決めつけ、動き回るのであり、「有限性(の自己」と「無限性の自己」を統一し、自分の位置を決めるのは動的な自己そのものということになるのである。そこでは動的な自己を何らかの意志よって止めようとするものがなく、自己は自由気ままに動き続ける。この意味において、「人間はまだ自己ではない」と言われ、関係が「ひとつの単なる関係でしかない」とされるのである。ここで言われる「自己」は動的な自己とはまた別のものなのだが、それに答えるため、次に「ひとつの関係」たる自己と、「精神=自己」の間を見てもらいたい。動的な自己は二つのものの間をせわしく動いているわけだが、そこでは有限性と無限性という二つのものは、「ひとつの関係」である自己に関わり、「消極的統一」がなされていたのである。「消極的」というのは、ネガティブでよろしくないもの、とでも考えておけばよい。
 
・「精神=自己」としての自己
そこで、積極的な統一を図る第三者というものが現われるのだが、それが「精神=自己」である。精神たる自己は、「二つのもの」の間を動き回る自己を決定する。そしてその「精神=自己」が動的な自己を決定しようとする意志、それが「ひとつの関係」に対して、「その関係それ自身に関係する関係」なのであり、その意志が前の図で「精神=自己」から「ひとつの関係」としての自己へとのびる矢印部分である。まとめると、三角形で囲んだ部分が自己そのものの範囲を示したものであり、水平方向に移動する自己が「ひとつの関係」としての自己、垂直的な関係にある自己が「精神=自己」としての自己ということになる。
 
・自己を措定せしもの
さて、これで自己の定義についてかなりの部分が説明された。しかし、この説明だけでは十分ではない。まだ明らかに問題とすべきところが解明されていないからだ。すなわち、「ひとつの関係」たる自己が自己を決定することと、「精神=自己」が自己に関係し、自己を決定することは一体どう違うのかということである。それについての解明がなければ、この定義は単なる空論に過ぎない。
 
アンチ・クリマクスはこの関係としての自己を措定した存在を考慮する。
「それ[3]自身に関係するそのような関係[4]、すなわち自己は、自分で自己自身を措定したのであるか、それとも或る他者によって措定されてあるのであるか、そのいずれかでなければならない。」(p.28) ここで言う「自分で自己自身を措定した」としたときが、「ひとつの関係」によるスタンドプレイであり、「或る他者によって措定され」たというのが「精神=自己」である。もし自己に対する関係というものが、後者のように、他者によって措定されたものであると考えたならば、その措定された「精神=自己」は全面的に自己を措定してくれているある他者に対して責を負っているのであり、他者もまた自己に対して包括的に関わっていることになる[5]
 
ここでアンチ・クリマクスが他者として想定するのは、絶対的な関係を持つ他者であり、キリスト教的な神に他ならない。神という絶対的で無限の存在であるものに関わる自己として、人間の自己は絶対的に強くなりうるのである[6]。自己を自分で措定したとすれば、それは結局自分止まりでしかなく、時間的で、有限的で、相対的で、そこにある絶望は自己逃避としての絶望以外にありえない。要するに自分の思い描く自己からの逃避であり、幼稚な現実逃避でしかないのである。
 
・絶望という齟齬
以上で、基礎となる自己の定義についての説明を終えたい。ここにきてやっと、絶望という病の病理診断が可能となったのである。
 
絶望という病は自己の関係における「齟齬」である。齟齬とは、不均衡とか、不釣り合いと言っても構わないが、それについては再び前に描いた図をイメージしてもらいたい。人間は有限性と無限性の間を常に動きつつある存在で、さらにその間における、今まさにあるがままの自己を規定するのは、精神としての自己であった。さらにその精神=自己は他者の措定の下にあるのであった。そこで齟齬が起こるというのは、有限性に傾いたり、無限性に傾いたりすることなのであって、そこでは均衡した状態があるべき自己自身として求められているのである。しかし常に揺れ動く自己であるから、それをあるべきところに止めることなどまったくでき得るものではない。絶望者が自分の絶望に気付いたとして、いくらその絶望を根こそぎにしようと努力しても、決してそれは解消されることはない。「絶望の齟齬は単純な齟齬ではなく、それ自身に関係するとともに或る他者によって措定されている関係における齟齬であり」(pp.2930) 人間としての自己だけでは取り除けないのである。考えてもみれば、それは当然のことであろう。いくら自分が自己を意識し、自らのあるべき自己自身を見つめたところで、四六時中その自己を見つめ続けることなど不可能である。寝ても覚めても自己のことしか考えていないなど、まさに人間的狂気であり、そのようなことができるのは、神を措いては悪魔しかありえないのである。
 
しかし絶望というものは、それが精神としての自己が関わっているという点でまた、自分に責任があるのであって、それは外からやってくる災害か何かではない。こうして現れる齟齬、絶望は、一瞬一瞬に私たち自身が呼び寄せてしまっている病なのである。
普通の人間がこの病を自力で取り除くのは不可能なのだが、アンチ・クリマクスはそれが取り除かれた状態についての分析を行っている。
 
「絶望がまったく根こそぎにされた場合の自己の状態を表わす定式は、こうである。自己自身に関係し、自己自身であろうと欲することにおいて、自己は、自己を措定した力のうちに、透明に、根拠をおいている。」(p.30) 自己の絶望を取り除くのは、精神としての自己意識なのだが、それを措定した他者に対しても、絶望の撤去を頼まなければ、自己自身と成りきることができないのである。
 
・弁証法とは何か
以上が絶望に関するまず最初の、基礎概念となる。ここでは簡単に解説するために図を使って、齟齬という表現を有限性と無限性の間の単純な水平移動として示して見せたが、今後もしばしば出てくるであろう有限性と無限性という言葉について、単に水平間のものだけであるとは思いこまないでもらいたい。そこには、人間と神を始めとする様々な垂直関係も含まれているのであり、その時その時に応じて、一つ一つの言葉の意味を捉えなおさなければすぐに混乱してしまう恐れがある。キルケゴールの著作には二義性がある。簡単には、表と裏があるとでも言えようが、それが彼の中ではしきりに弁証法的とか逆説的とか言われるのである。
 
たとえば次の文章を見てみよう。「絶望は長所であろうか、それとも短所であろうか? まったく弁証法的に、絶望はその両方なのである。」(p.30) この部分の「弁証法的」に対して、訳者の桝田啓三郎は次のような注を施している。「相反する、もしくは矛盾する二つのことが同時に一つのものについて言えることを言っている」とする一方で、「ここでは、そういう日常的な意味でなく」(p.272)「まったく弁証法的に」と強調されているように、ただ回っているコマは(回りつつ)動きながら(軸の位置は)止まっているなどと言われるような素朴な意味で、弁証法的だ、と言っているわけではないのである。
 
絶望が長所であり、短所であるという意味を、絶望することが「人間が精神であるという無限の気高さ、崇高さを指し示すもの」(p.30) であり、かつ実際に絶望することは「最大の不幸であり悲惨であるにとどまらない、それどころか、それは破滅なのである」(p.31) という二項対立でのみ見ると、それは「日常的な意味」に過ぎなくなってしまう。ここで「まったく弁証法的」であると言われるのは、まさに弁証法的な契機がそこにあるからなのである。すなわち絶望するということの中に、自己が絶望していないものとしてあり得るという一つの可能性を秘めているのであり、そこにまったく弁証法的なものが見られるのである。
 
この説明で不十分だと思うなら、ヘーゲルの使った弁証法という言葉の意味を思い出してもらいたい。キルケゴールは彼の考え方に対して、非常に強い反感を覚えていたが、その一方で、ヘーゲルの用語をまるで当てつけのように多用している。そこでヘーゲルの弁証法について、愛をテーマに簡単に述べておく[7]
 
人間はみな愛を持っている。しかし「わたし」の持つ愛と、他の人が持つ愛はまったく同じ愛ではない。愛にはたくさんの種類がある。そこにおいて「わたし」は自分の愛が個別的で、多様な愛の中のたった一つでしかないことを悟る。しかしまた、この多様性の全体の中に「わたし」というものを見出そうとする。そこで「わたし」は、愛の形はそれぞれ違うけれど、愛というものがすべての生命を包括していることに、愛がただ個別的なものの集合ではないということに気づく。これが愛に関する「未発展な合一」(=人間はみな愛を持っている)→「分離」(=しかし「わたし」の愛は個別的)→「完成された合一」(=愛は単なる個別的なものの集合ではありえない)という弁証法である。
 
ヘーゲルの弁証法は全体を重んじ、さらにそれは彼にとって上昇していく思考である。キルケゴールもまたその弁証法的なものを取り入れ、そこに上昇の思想を含めたのである。ここにおいて、先に述べた絶望の長所と短所に関する考察の意味が理解できる。つまり絶望は人間にしかできないという点で無限的な長所だが、実際に自分に起こるものとしては破滅的短所である。だがそこに絶望から逃れる可能性を見出すことで、やはり無限的な善さを持つ長所となりうるのである。さらにこれは若干、結論の先取りとなるが、絶望を克服する可能性というものは、人間の中だけにあるのでなく、信仰という理性を超えたところにある。この点において、キルケゴールの弁証法は質的な飛躍による弁証法と言われ、ヘーゲルの思弁的な弁証法を量的なものとし、排斥するのである[8]
 
・絶望は死に至る病である
ここまで、自己や絶望について基礎となる定義を示してきたが、非常に難解な内容であっただろう。アンチ・クリマクスは「死に至る病」についてなかなか抒情的に描いているので、一休みがてらそちらを見てみることにしよう。
本章の冒頭で述べたように、死に至る病というのは、私たちが普通にイメージするような病気のことではなく、あくまでキリスト教的なものである。そもそも「キリスト教的な意味では、死はそれ自身、生への移り行きなのである」(p.35) と言われるように、また我が国に馴染みのある仏教でも輪廻転生といった思想が存在するように、宗教的な世界において、肉体の死というものは終わりでありながら、始まりであるというような思想は多く残されている。それはいくら無信教を自認する者であっても、知識としてぐらいは得ているだろう。
 
では、彼の言う「死に至る病」とは、一体何だというのだろう。その謎の解明は本人の記述に頼るのが一番手っ取り早い。「もしもっとも厳密な意味で死にいたる病ということを言おうと思うなら、それは、終局的なものが死であり、死が終局的なものであるような場合の病のことでなければならない。そして、この病こそ、まさに絶望なのである。」(p.36) 「死が終局的なものである」とは、死のあとには、「何もない」、ということである。その先に一切は存在しないのである。しかしである、彼はこうも言う。「けれども、絶望は、また別の意味で、なおいっそう明確に、死にいたる病なのである。すなわち、文字どおりの意味で、この病のために死ぬとか、この病が肉体的な死をもって終わるとかということは、とうていありえないのである。むしろ逆に、絶望の苦悩は、まさに、死ぬことができないということなのである。」(p.36) 絶望は死に至る病だが、絶望で死ぬことはあり得ない、果たしてこの矛盾をどう理解すべきであろうか。ここは落ち着いてさらに著者の述べるところを見てみるべきであろう。「絶望は死にいたる病である、永遠に死ぬという、死にながらしかも死なないという、死を死ぬというこの苦悩に満ちた矛盾であり、自己における病」(p.36) ということだが、要するに、絶望者は常に死の苦痛を体験しているのである。彼は生きながらにして死んでいる。それはつまり、自分がもはや生きることへの希望が持てない状態でありながら、さらには死という終焉にすら至ることのできないという自己の無力である。人間は、死を恐れはするが、一度起こってしまえば、それで終わりである。何度も死を経験するためには、何度も生き返らなければなるまいが、そんなことは不可能である。しかしこう表現すると、ギリシャ神話におけるプロメテウスの苦難[9]を思い起こさずにはおれないではないか。何ゆえに人間がそのような苦痛を浴びせられねばならぬと言うのか。
 
そのことが本当に人間にとってそれほどの苦痛となるかどうかは、それぞれの判断に任せるとして、絶望するということは自己において齟齬が生じることであった。そして有限なる自己は必ず齟齬を生じさせざるを得ないのであり、またそれは精神たる自己、ひいてはそれを措定した他者に対して関係しているのであった。そうであるから、有限な自己が独りで絶望したとして、その自己などというものを全否定しようとも、いやしようと望んだとしても、それは無限の力を持つ精神たる自己、絶対的他者に関わることでもある以上、まったく不可能なことなのである。ここで絶望者は絶望しているはずなのに、完全に絶望しきれないという死にたくなるようなジレンマに襲われるのである。
これでお分かりいただけたことだろう。いかにして絶望が「死に至る病」であり、「死ぬことができない」と言われ得るかを。
 
・この病(絶望)の普遍性
絶望というのはげに恐ろしげなものとしてあるようだが、アンチ・クリマクスはこの病をすべての人間が持っていると言うのである。「医者なら、完全に健康な人間などというものはおそらく一人もいはしないと言うであろうが、同じように、人間というものをほんとうに知っている人なら、少しも絶望していないという人間など、その内心に動揺、軋轢、不調和、不安といったものを宿していない人間など、一人もいないと言うにちがいあるまい。」(p.44) なるほど、確かに多くの人間は内心に何かしらの悩みや不安を抱えているものである。とすれば、人がそのような悩みも不安も持っていないとき、その時、人は絶望していないと言えるのであろうか。否、「人が真に絶望していないということが稀なこと、きわめて稀なこと」なのであって、ある人が、自分は悩みも不安も持ってなどいないと言ったとしても、絶望診断家はそれを信用しない。医者が「完全に健康な人間などというものはおそらく一人もいはしない」(p.44) と言うのと同様に、彼もまた、「少しも絶望していないという人間など、一人もいない」と言うのである。
 
このような言い方については、彼自身、弁解がましいことを言っている。「こういう考え方をすると、きっと多くのひとには、逆説を弄しているとか、誇張しているとか、そればかりか、陰気な、人の気をめいらせるような見方をしているとかと、思われるかもしれない。」(p.45) しかしそうではないのである。先の弁証法の説明の折に、絶望は長所でもあるとされたように、これは「人の気を引き立たせるもの」(p.45) なのである。
さて、唐突に思われるかもしれないが、本節はここまでとさせてもらう。今疑問として残るのは、あらゆる人が絶望しているということ、絶望は長所でありうるということ、この2つだろう。この疑問は後の節の中で晴らしていくことにする。
 
2節 絶望の諸相
本節では、前節冒頭に触れた絶望の3種類、「絶望して、自己をもっていることを自覚していない場合(非本来的な絶望)。絶望して、自己自身であろうと欲しない場合。絶望して、自己自身であろうと欲する場合」をそれぞれ取り扱う。この3つの絶望は意識の問題なのだが、この問題に取り掛かる前に、少しだけ可能性と必然性について触れておく。
 
・可能性と必然性
自己には「無限性と有限性」というものがあったが、「可能性と必然性もまた属している」(p.69) と言われる。それではここで言う「可能性と必然性」とは一体何だろうか。それには次の引用で答えよう。「可能性に対してこれに対抗するものは必然性である。自己が有限性と無限性との綜合として措定せられ、いまから生成しようとして、可能的に存在する場合、自己は空想を媒体としてみずからを反省するが、それによって、無限の可能性が表われてくる。自己は、可能態トシテ[10]、必然的であると同様に可能的なものである。なぜかというに、自己はむろん自己自身であるが、しかしまた、自己自身となるべきものでもあるからである。自己が自己自身であるかぎり、自己は必然的なものであり、自己が自己自身になるべきものであるかぎり、自己は可能性である。」(p.69) この文章から、まず可能性と必然性が対比されていることが分かる。可能的なものが「空想を媒体」に「反省」するというのは、簡単に言えば、これも想像的な世界に嵌ることである。「自分もこうすれば、あんなふうになることが可能なんだけどなあ」といった風な考え方をして、現実の自分から逃避するというのは、多くの人に覚えのあるところではないだろうか。人間の自己はこのように可能的な段階に止まっているのであり、必然的な自己、「あるべきところの自己」としてあろうとしないことで、絶望するのである。可能的と言われるのは、これが「ありうるところの自己」[11]と言い直せるように、「あるべきところの自己」になれる可能性がそこに包含されているからである。この場合の絶望の取り除かれた状態はこうである。「現実性が可能性と必然性との統一なのである。」(p.71) 「ありうるところの自己」と「あるべきところの自己」が一致することで、人間は現実性を持つことができる。この現実性を獲得することが「実存」なのである。
 
・意識という規定のもとに見られた絶望
「意識の度が上昇すると、あるいは、意識が上昇するに比例して、絶望の強度も絶えず上昇する、意識が増せば増すほど、それだけ絶望の度も強くなるのである」(p.81) ということで、これから3種類の絶望について見ていくが、順当に意識の度が弱い順に見ていく。
 
・絶望や永遠な自己に対するどうしようもないほどの無知
最初に紹介するのは、絶望をほとんど意識していない形態である。そういう人たちは、「誤謬のうちにある」(p.82) のであり、「一般の人々にあっては、たいていの場合、感情的なもののほうが彼らの知性よりもはるかに優位を占めている」(p.82) とされる。彼らは、「真理の光に照らしてみれば実は不幸であるはずなのに、誤って幸福だと思い、幸福なつもりでいるような人」(p.82) で、もし彼らの誤謬を正そうとする人などが現れでもすれば、「腹を立て、そういうことをする者を、いちばんうらめしい敵と見なし、そういう仕打ちを不意打ちと見なし、人の幸福を殺すということが言われるような意味で、一種の殺人に近いものと見なすのである。」(p.82) アンチ・クリマクスの表現はさすがと言うべきだが、私も彼にならってまとめてみるとしよう。絶望を意識していない人というのは、さながら幻想のお花畑でうとうとと眠りに落ちているようなもので、彼を目覚めさせ、そこから出そうとする人などは、重機で彼の楽園を踏みにじろうとする悪徳土地開発業者なのである。
 
これだけ描けば絶望に無意識な人が、いかにひどく誤謬の中に堕ちてしまっているかが分かるだろう。しかし何の根拠もなしに、ただこのようなたとえ話を使ってこき下ろしただけでは、まったく安直で卑劣なやり方であるとして非難の対象になりかねない。よってその内容をきちんと吟味していかなければならない。
 
具体的に、絶望に無知であるとはどういうことなのか。人間は「神の前で[12]自分を精神として人格的に意識」(p.88) していなければならないのに、「感性的なものおよび感性的=心霊的なものが彼をすっかり支配しているところからくるのである。彼が、快および不快という感性的なものの範疇のうちに生きており、精神とか真理とかいったものを少しも気にしないことからくるのである。」(p.83) 絶望に無知なものは、感性的な生き方をしている。彼には「倫理的=宗教的な規定」(p.88) という意味での倫理感もないのであり、ただ「漠然と何か抽象的普遍的なもの(国家、国民など)のなかに安住したり溶け込んでいたり」(p.88) するのである。
自分の絶望に気づいていないということは、「精神が真に何であるかということは、美的には規定されないのであるから、美的なものにとってはまったく存在しないような問題」(p.87) とされるように、彼自身が美的な状態にあることを証明してしまっているのである。キルケゴールには審美、倫理、宗教という有名な3段階(領域)論[13]があるが、ややこしくなるだけなので、今回はそちらに深く踏み込むようなことはしない。
 
「美的な」というのは、酒に女に詩に文学に等々、諸々の俗世間的なものに酔うことであるが、「詩的なものを愛し、気ままに生きる(詩人)」と捉えたほうが、理解しやすい場面も多い。抽象概念に身を属させ、自分が本当に考えるべきことを考えず、日々のことだけに心を砕く放蕩人間である。生きる目的が娯楽であるというような人間は、絶望しているのである。そしてこの絶望分析を「キリスト教界内の異教徒はもっとも厳密な意味で無精神性なのである」(p.90) と、当時のデンマークキリスト教界の欺瞞を告発、もしくは警告しているともとれるような句で終えているところに、アンチ・クリマクス=キルケゴールの心情が窺える。
 
・絶望し、自己自身になろうとしない、弱さの絶望
次は、絶望して自己自身になろうとしない形態だが、「この形態の絶望は、絶望して自己自身であろうと欲しないこと、あるいはもっと低い場合は、絶望して一個の自己であろうと欲しないことである、あるいはもっとも低い場合は、絶望して自己自身とは別のものであろうと欲すること、新しい自己たろうと願うことである。」(p.101) まずは低いと言われる場合について述べる。
 
たとえば、今の自分に嫌気がさし、他の誰かになりたいと思ったことはないだろうか。自分がイチローみたいな一流のスポーツプレイヤーだったら、浜崎あゆみのようなトップアーティストだったら、そのようなささやかな夢にも似た思いを抱くことがある人もいるだろう。ここで、「もっとも低い」自己は、自分を着せ替えることで、本当にイチロー自身になれると思い込み、「低い」自己は、そのような偉大な人たちにあこがれて、なぜ自分はそうでないのかと、自分を嫌になるのである。このような人は、著しく「直接的」である。自己についての意識は低く、地上的な幸不幸に捕われすぎている。そしてそれは「低い」と言われる意味ではなく、「絶望して自己自身であろうと欲しない人」も同様である。彼もまた自己について絶望しているが、それは何かに生まれ変わることで解消されるといった甘い考えであるわけではない。彼は精神を措定している他者から求められている自己自身に対して、意識している。しかし、彼はそれになることができない。なぜか、あまりに要求が高すぎるからである。その求められる自己自身というのは、人間的観点から言えば、狂気の沙汰であり、到底「まとも」と言われる人間には実現可能なものと思われない[14]。「彼の想像力は、表われでもしたら直接性との絶縁となるような可能性を、発見」(p.104) し、「彼の突き当たった困難は全直接性との絶縁を要求する」(p.105) のである。つまりどういうことかと言えば、彼はその求められる自己自身になることで、すべてを失わなければならなくなるであろうことに気づくのである。キルケゴール自身、彼は生涯で、結婚もせず、就職もせず、孤独に過ごしていた。そのように、彼は自らの持ち得るこの世的な幸福を捨て去ることになるであろうと、考えてしまうのである。ここに彼は、「自分が地上的なものにそれほど思いわずらうのが弱さであり、絶望することが弱さであることを、みずから理解」(p.117) し、絶望するのである。
 
・絶望し、自己自身であろうとする、強さの絶望
絶望の3形態最終段階は、強さの絶望、「反抗」である。やはり最初は本人の言葉でその概要を語ってもらうのがよいだろう。以下に語るのは、自分の自己の弱さに絶望する人間からの続きである。
 
「このような絶望者が、なぜ自分は自己自身であろうと欲しないのかというその理由を意識するにいたるならば、事態は逆転して、反抗が表われる、というのは、このときこそ絶望者が絶望して自己自身であろうと欲するのだからである。……これはもともと永遠なものの力による絶望であり、絶望して自己自身であろうと欲して、自己のうちにある永遠なものを絶望的に濫用することである。しかし、反抗が永遠なものの力による絶望であればこそ、反抗は或る意味で真理のすぐ近くにあるのであるが、しかしまた、真理のすぐ近くにあるからこそ、反抗は真理から無限に遠く隔たっているのである。」(pp.126127)
 
弱さの絶望で、彼は「永遠なもの」、求められる自己自身に対して絶望していたが、強さを持った絶望はそんなものに絶望しない。彼は異常なまでに「強い」。彼は永遠なものを知っている。そして彼は、「自己を、自己を措定した力に対するあらゆる関係から引き離そうとしたり、」(p.128) 「自己は自分を支配する力を認めない、」(p.129) さらに、「救済の可能性を期待すること、とりわけ、神にとっては一切が可能であるという背理なものの力によってそれを期待すること、これは断じて彼の欲しないところ」(p.133) であり、「一切が可能な『救済者』の手の中で無に等しいものとなり、あるいは、他人の前にひたすら身を屈し、救いを求める以上は自己自身であることを断念しなければならないというのは、これは屈辱」(pp.134135) なのである。
 
一気に引用してしまったが、これこそ絶望の最終形態のすべてである。しかしどうだろう、これはまるで無神論者に対して言われているかのようである。この絶望者は、「あるべきところの自己」について意識しているが、それが他者(=神)によって決められていることにまったく納得できない。だから、彼はその「あるべきところの自己」というものを、自分の自己が措定するものと見なそうとしているのである。しかしこの試みに、一体どのような価値があると言えるだろう。自己が理想的な自己を措定し、自己がその段階に至っていると見なすなど、あまりに馬鹿馬鹿しく、子供のお遊戯のようではないだろうか。彼はそうすることによって、一体何を手にするというのか。「……自己は自己自身を見ることによって自己自身より以上のものを自己自身に与えることはとうていできはしないからである。自己は始めから終わりまでどこまでも自己なのであって、自己を二重化してみたところで、自己より以上にも以下にもなりはしない。この意味において、この自己は、自己自身であろうと欲する絶望的な努力をしながら、かえって正反対のものに向かって努力している」(p.130) のであって、いくら彼が自己に自己を重ねてみたところで、それは「単なる」自己でしかない。永遠なものに手を伸ばせば伸ばすほど、彼は永遠なものから遠ざかっていくのである。彼の絶望は、自己を措定した者に対する「反抗」であり、その力への「挑戦」である。
 
・女性の絶望と男性の絶望
これで3種類の絶望形態については、おおかた記述し終えたわけだが、もうひとつだけ、最後にジェンダーの問題に触れておきたい。ここまで触れてこなかったが、アンチ・クリマクスは弱い絶望を女性の絶望、強い絶望を男性の絶望としている。彼は強い絶望について解く前に、「男性こそが精神の規定に属しているのであって、これに対して女性は一段と低い綜合なのである」(p.126) と述べている。これだけ見ると、女性方は彼が女性差別主義者であるようで、不快な思いをされるかもしれない。私に、彼に女性蔑視のきらいがなかったと断定できるわけではないが、もう少し彼の考えを明らかにしてから、その先の判断を行ってもらうことにしよう。
 
先の文言は、強い絶望に入るところで言われたものだが、それよりもっと前に、弱い絶望に入ったところで、具体的な言及がなされていた。
「……けれどもわたしは、男性的な絶望の諸形態が女性のもとにおいても見られうるし、逆にまた、女性的な絶望の諸形態が男性のもとにおいても見られうることを、けっして否定しようとするものではない。しかしそれは例外なのである。いうまでもないことであるが、典型的なものは事実ごく稀にしか存在しないし、男性の絶望と女性の絶望とのあいだのこの区別にしても、それが完全に真理だと言えるのは純粋に典型的な場合だけである。女性は、男性に比べてどれほど多くやさしくこまかい感情をもっていようとも、利己的に発達した自己の観念も、決定的な意味での知性も持ってはいない。むしろ、女性の本質は従順、献身であり、もし女性が献身的でないなら、それは非女性的なのである。」(p.95) まず確認すべきは、男性が男性的な絶望をし、女性が女性的な絶望を「典型的」に行うことは、「ごく稀」と言われていることである。彼は社会一般的な見方で、この分析を行っているわけではなく、本質論を語っている。彼が言うに、女性の本質は「献身」であり、男性の本質は「利己(傲慢)」である。男性は献身を持つべきでないとも言わない。それどころか、「献身しないような男性はくだらぬ男である」(p.96) とすら言い放っている。しかし彼の考えの根底には、このような本質論があるので、「神との関係においては、男と女といったような区別は消滅するが、そこでは、献身が自己であること、また献身によって自己が獲得されるということが、男性にも女性にも当てはまる。実際には、多くの場合、女性はただ男性を通じてのみ神に関係するのではあるが、そのことは男性にも女性にも同じように当てはまる」(p.97) と言われる。これでは女性の方が、男性なしには自己を獲得することができないと言うようで、女性を低く見ている風に思える。
 
少々私的な見解だが、彼にとって、本質的な女性は「献身」なので、そのような女性は、自己に対する欲求が薄いように思われるのではないか。一方、男性は利己的なので、自己に対する欲求もまた大きなものに思えた。その意味で、女性は男性を通してしか自己を獲得できないと言われるのではないか。もっとも、そう言ったからといって、女性が男性を経由しなければならないというのは、いくらかの女性にとっては、屈辱的なことだろう。それに関しては、私からは何と言うつもりもない。彼は、男性と女性との本質の違いに着目し、男性と女性を区別した。それがどう思えるかは、読み手の考え方次第である。私は、これで十分、本書におけるアンチ・クリマクスの男女観については述べたつもりである。この上で、どう判断されようと、そこから先は私の立ち入るところではない[15]
 
3節 絶望は罪である
罪とは、「神の前で、あるいは神の観念をいだきながら、絶望して自己自身であろうと欲しないこと、もしくは、絶望して自己自身であろうと欲することである。」(全文強調分、p.143) 要するに、罪は一つの「反抗」であって、絶望しているということである。
本節では、『死に至る病』のメインテーマである「罪と絶望、罪と信仰」の関係を明らかにしていく。『死に至る病』では絶望分析のために大きく紙幅が割かれているが、それは「罪と信仰」について述べる前段階として置かれているのであり、アンチ・クリマクスの目的は、この病をキリスト教的に分析し、キリスト教的な治療法を伝えることなのである[16]。従って、本節はこれまで以上に、キリスト教的、神的なものへの言及が多くなることであろうことを、先に述べておく。
 
・詩人(作家)の絶望、もしくは罪
罪について、アンチ・クリマクスは詩人への言及から始める。それは、前に出てきた美的なもののみに傾倒する想像的な作家のことではなく、「宗教的なものの方向を目指す詩人」(p.143) である。なぜここから始めるかと言えば、そのような人間の生き方が、先の人間的な絶望の段階から、これから述べる神的な絶望の段階へと移行する上でのかけ橋となるからである。それはちょうど人間的なものと、神的なものとの間にある。
 
彼は神の観念を持っている。「この詩人の宗教的なものの描写には、既婚者や聖職者の描写には見られない魅力があり、抒情詩的な感動がある。彼の語るところも虚偽ではない、けっして虚偽ではない、」(pp.145,146) にもかかわらず、「詩人の生き方はいずれも罪」(p.144) なのである。それは一体どのような罪か。「存在するかわりに詩作し、空想によって善と真とにかかわるばかりで、善や真であろうとしない、すなわち、生き方として善や真であろうと努力しない、という罪なのである。」(p.144)
 
彼はこの世で何よりも神を愛しているが、その自己は苦悩のうちに生きている。彼はこの世において、永遠的な幸福がもたらされると、完全に信じ切れていないのである。彼の苦悩にとって、神は唯一の慰めであるが、神によってその苦悩がさっぱり拭い去られるとまでは、信じることができないのである。彼はただただ苦悩に絶望するのみである。彼の中には、背理な力、この世ならざる力が宿っていると感じている。しかし彼はそこに思い悩むのである。彼はその力によって、何か普通ではないことを求められている、何か使命を帯びた存在なのではないかと[17]
 
・自己意識としての罪
それではいよいよ本格的に罪というものを考えていくとしよう。まず先に、意識の度が上昇すると、絶望(=罪)の強さも増すと言われたが、その理由について、神観念をもとに解いてゆく。
アンチ・クリマクスは、「自己が現に神の前にあることを意識するにいたるならば、神を尺度とする人間的な自己となるならば、自己は、なんという無限な実在性を獲得することであろう!」(p.147) と、神による自己を称揚する。犬、猫、奴隷などに面して自己であると言ったとしても、それは何の価値も持たない。自己は神の前にあるからこそ絶大な価値を持ち得るのである。しかしこれは、逆に考えると、自己は神の前にあるからこそ、罪というものが余計に罪深くなるとも言える。そしてこれは、現実においても実際に言われることである。「法律家でさえ情状加重犯ということを問題にするではないか、法律家でさえ、或る犯罪が、たとえば、官吏に対してなされたものであるか、私人に対してなされたものであるかを区別し、刑罰を加えるのにも、父親殺しと普通の殺人とのあいだに区別を立てるではないか。」(p.149)
 
このように、神に対する罪もまた、同様に「情状加重」が行われるのである。しかも自己が神観念を持ち、神が自己であるようにと求めているにもかかわらず、そうあろうとしないというのは、まったく罪深いことである。自己は、自己を意識し、神観念を増せば増すほど、自己を無限に強くする可能性を得られるが、それと同時に、自己が本当に自己にならない限り、無限に深い罪の淵に沈むこととなる。
 
「罪とは、神の前で絶望して自己自身であろうと欲しないこと、あるいは、神の前で絶望して自己自身であろうと欲すること、」(p.151) である。しかしこれはあまりに精神的で観念的、非現実的な話ではないだろうか。自己であるか、ないかなど、その人の気持ちの問題であって、罪などと大げさに過ぎはしないだろうか。これに対し、アンチ・クリマクスは次のように反論する。「それなら、いったいなぜ、あの定義が精神的にすぎるというのであろうか? この定義が、殺人、盗み、姦淫などを問題にしていないからなのであろうか? しかし、この定義はそれらのことをも問題にしているのではあるまいか? それらもまた、神にさからう我意、神の命令に反抗する不従順ではないか?」(p.151) 私たちは通常、罪と言えば「殺人、盗み、姦淫」といったことを問題にする。しかしこれらもまた精神的な規定に属すのである。殺人は人を殺そうと思って殺し、盗みは何か盗もうと思って盗む。姦淫も不倫しようと思ってするのであり、そう考えれば、自己であろうとしないこともまた罪であるということが、精神的にどうとか言われる道理はないことが分かるだろう。
 
自己であるか、ないかを精神的に過ぎると言うのは、神を侮った発言なのである。神にはいかなるものも見えている。「殺人、盗み、姦淫」は人間の目にも見えるから、罪として捉えやすいが、自己であるかどうかは、人間の目に判断がつきにくい。よって罪にあらず、とするのは、まったく人間的な感覚でしかものを捉えておらず、神を人間的な尺度で測ろうとする「傲慢不遜な」態度とされるのである。
 
こうして先に述べた罪の定義は正当性を与えられる。この定義が一切の罪を包み込むとすれば、その反対を考えた場合、おのずと信仰の定義が現れる。「信仰とは、自己が、自己自身であり、また自己自身であろうと欲するに当たって、神のうちに透明に基礎をおいている、ということである。」(p.153) 罪が神に対する「反抗」に他ならないとすれば、その反対は信仰しかない。神のうちに自己の基礎を置こうと欲し、信仰すること、これが「キリスト教全体にとってもっとも決定的な規定の一つなのである。」(p.153)
 
・罪の積極性
それでは信仰とは具体的にどういったものなのか、そちらについて述べたいところだが、引き続き、罪を取り上げる。信仰は最後まで置いておくことにしよう。
アンチ・クリマクスは「罪は消極的なものではなく、積極的なものである」(p.179) と言うが、彼は当時のデンマークキリスト教界において、罪が概念的に把握されていると考えていた。「いわゆる思弁的教義学は、もちろん哲学といかがわしい関係を結んでのことであるが、奇妙な誤解をして、罪は積極的なものであるというこの規定を概念的に把握することができるものと考えて」(p.180) おり、「罪が単に消極的なものであるというのは汎神論であり、合理主義であり、その他何かしらである」(p.180) としていたが、彼はこれを「積極的なものが概念的に把握されうるかぎりにおいて」(p.180) 積極的[18]であると見なす。
 
罪が積極的なものであるということは、皆の共通認識としてあるようだが、もしそれが概念的に把握されるのならば、そのとき、その罪の積極性を概念的に考える人間のほうが、積極的に措定される罪そのものよりも、常に上に存在することになる。積極的なものであるはずの罪を、理性で考える人間は、罪というものを概念的な枠の中に押し込めてしまっているのであり、罪の積極性を相対的に消極化してしまっている。罪よりもむしろ、それを考える人間の方がより積極的なものとして成り上がってしまうという、宗教的な絶対性の定義を吹き飛ばしてしまうかのような、なんとも笑うべき冗談のような矛盾に陥ってしまっているのである。
 
・罪の積極性―罪のソクラテス的定義―
「罪とは、神からの啓示によって、罪がなんであるかが解き明かされたのちに、神の前に絶望して自己自身であろうと欲しないこと、あるいは、絶望して自己自身であろうと欲することである。」(p.178)
 
ソクラテスは、罪を無知であるとした[19]。しかしこれは罪を消極的なものとして捉えてしまっている。ソクラテスの罪理解には、人の意志や反抗への規定が欠けていた。「人がそれと知りながら善をなすことを怠ったり、それと知りながら、正しいことについての知識をもちながら、不正なことをなしたりしうるということを理解するにしては、ギリシア的な知性は、あまりに幸福であり、あまりに素朴であり、……あまりに罪深かったのである。」(pp.166167)
 
ソクラテスは、いや「ギリシア的な知性」全体がそのことに対して、あまりに無関心に過ぎた。彼らにとって、真とか善といったものは、世にも美しいものであり、それを知っていながら、それをなさないなどということは、到底考えられないことだったのである。
 
しかしキリスト教的なものは、罪が無知であるというような、素朴で単純な考えを持つことができない。罪とは「反抗」なのである。罪において、認識と意志は必ずしも一致しない。「人間が正しいことを認識したその同じ瞬間にそれを実行しない」(p.174) など、私たちの日常においてもよく見られる光景ではないだろうか。今自分の目の前にやらなければならない仕事が置かれている。もちろん、認識はそれをすぐにやるべきだとサインを送ってきている。だが意志のほうはどうか。保留するのである。「つまり、明日までまあ成り行きを見ていよう」(p.174) と言い、そんなことをしているうちに、「認識はだんだんと曇りを帯びて」(p.174) ゆく。物事の引き延ばしが、意志の得意技なのである。そうして伸ばされているうちに、曇りきった認識がいつの間にか意志と同レベルまで落ち込んでしまい、認識と意志とが互いに手を結ぶに至る。ここにおいて、私たちの意志は勝利する。仕事などしなくてもいいのだ、そんなものは放っておけ、何とかなる、という認識を勝ち取るが、これは一時的な勝利に過ぎない。間もなく彼は、すぐにやらなかったことを後悔するに違いないのだから。
 
「純粋な観念の世界では、思惟することから存在することへの移行」(pp.174175) が容易に行われる。頭の中ではどうとでもなるのである。しかし実際には、今見てきたように、認識から行為へ向かうのには、意志による涙ぐましいまでの抵抗があり、善というものは、「それが認識されたとき即座に、おこなわれねばならないもの」(p.174) なのである。
 
・罪の積極性―まとめらしく―
罪は、積極的なものである。絶望もまた「自己意識の度が強まること」「受動的な悩みから意識的な行動にまでその度が強まること」「外からくるのではなく、内からくるものであること」(p.185) から、積極的なものである。絶望の段階は、意識の上昇の段階であり、積極性の段階でもあった。罪の積極性は、絶望とはまた違った意味で、「つまずきの可能性」(p.185) を含んでいる。「まずキリスト教が出てきて、人間の悟性ではけっして概念的に把握できないほどしっかりと罪を積極的なものとして措定する、それから、その同じキリスト教が、人間の悟性ではけっして概念的に把握できないような仕方で、この積極的なものを取り除くことを引き受けるのである。」(p.185) 罪のマッチポンプのようにも思えるが、それは措いて、罪は積極的なものとして置かれている。それは個人の主体性によって、自らの意志で乗り越えられるべきものである。しかし、ただ単に自己「でしかない」もののみの力によっては不可能である。それはまた信仰によって、背理なものの力を借りて、乗り越えられるべきものなのである。
 
・つまずきと信仰
さて、そろそろ信仰について明らかにするとしよう。ただそれにはまず「つまずき」について述べておく必要がある。信じがたいことかもしれないが、自己自身にならないことが罪である以上、「悔い改められない罪は、そのおのおのが新しい罪であり、罪が悔い改められずにいる瞬間瞬間が、新しい罪である。」(p.194) 罪人たる人間は、寝ても覚めても、年がら年中、1秒ごと、瞬間ごとに、おまえは罪深いなどと宣告されているもののようだ。信仰を持たない人には、何を馬鹿げたことをと思われるだろうが、それこそ「つまずき」なのである。神は人間を救うと言っている。しかし人間はそれを信じることができない。あまりに突拍子もないことに、人はつまずいてしまう。自分に理解できないことは信じることもできないというつまずきである。
 
たとえばある日、玄関に皇居から来ましたとかいう黒のスーツにサングラスをかけた男が現れたとして、彼があなたに、天皇があなたに会いたがっているので、ぜひお越しくださいなどと言ってきたとする。その男が本当に皇室関係者かどうかも分からない。はたしてあなたは彼の言葉を信じることができるだろうか。もしあなたが北海道あたりに住んでいたとして、直接確かめに行こうと思えるだろうか。ここではすべてがその人間の信仰にかかっている。「それをあえて信ずるだけの謙虚な勇気を(というのは、厚顔な勇気などというものは信仰の助けにはなりえないからである)彼がもっているかどうかに一切が委ねられていると仮定してみると、」(pp.157158) そのような人間が一体どれほどいるだろうか。
 
キリスト教もこれと同じである。キリスト教は教える、信じる者ならば、あらゆる人間を救うと。それだけでなく、人間のために、神がわざわざ人の体をもってこの世において、人の子として生まれ、苦難の人生を送り、死んでいったのである[20]。「そしてこの受難の神が、この神が、この人間に向かって、どうか救助の申し出を受け入れてくれるようにと、ほとんど乞いかつ嘆願していられるのである。……あえてそれを信じるだけの謙虚な勇気をもたない者は、誰でもそれにつまずくのである。」(pp.158159)
アンチ・クリマクスはつまずきを次のように表現している。「つまずきとは不幸な驚嘆である。」(p.159)
 
・罪と赦しとつまずき―私は罪人である/私は罪人ではない―
引き続き、つまずきについて見ていくが、ここでは2つのつまずきを考察することにする。このつまずきは、絶望の定義とほとんど変わりない。神が人間の罪を赦そうと言うわけだが、つまずく人間はその言葉に絶望しているのである。「すなわち、それは、つまずいて信じるだけの勇気のない弱さの絶望か、つまずいて信じようとは欲しない反抗の絶望かのいずれかである。」(p.210) ただ、ここでは弱さと反抗とが、先の絶望の場合とは逆になる。
 
先に見た絶望では、「絶望して自己自身であろうと欲すること」が強さ=反抗の絶望であるとされたが、ここではそれが、「絶望して自己自身、つまり罪人であろうと欲し、したがって、罪の赦しなどありえないと考える」(p.210) 弱さの絶望となる。彼は神からの罪の赦しという申し出に対して、「いや、罪の赦しなどというものはありはしない、そんなことは不可能なことだ」(p.211) と言ってつまずいてしまうのである。彼はキリスト教を尊敬し、自分にとってなくてはならないものと意識しているが、そこで足踏みをして止まっている。
 
次に、「絶望して自己自身であろうと欲しないこと」は先の場合、弱さの絶望とされたが、これが今、「人間が現にそうである自己自身、つまり罪人であろうと欲しないで、それがために、罪の許しを不必要なものにしようとする」(p.210) 強さ=反抗の絶望となる。彼は、「キリスト教を虚偽であり嘘であると説き、」(p.242) 地上に降りたイエス・キリストなどという人物についても、まったく認めはしない。彼は罪や神などというものに強さを認めず、自らの強さに頼り、そのようなものに対する攻勢を強めていくのである。
ずいぶんややこしくなってきたので、絶望の図のまとめを置いて、終わる。

絶望、罪、まとめ

・信仰―信じる者は救われる―
つまずく者はいずれも絶望しており、罪である。罪は信仰と対立する。では、信仰とは何か。それはキリスト教とは何か、と言うのと同じである。「キリスト教は、天と地が探し出すことのできる一切のつまずきの可能性を一点に集中する……これがキリスト教なのである。かくしてキリスト教は、めいめいの単独者に向かって言う、なんじ信ずべし、すなわち、なんじはつまずくか、それとも信ずるか、いずれかをすべきである、と。」(p.226) では、何を信じればいい。イエス・キリストが人の体をとって地上に降りてきたこと、「神はみずからを賤しい者となし、下僕の姿をとり、苦しみを受け、人間のために死ぬことができる」(pp.232,233) ということ、そして実際にそうしたということ、さらに、「神にとっては一切が可能である」(p.133) ということ、これらを信じればよい。ただこれだけである。


[1]『死に至る病』に関して、主に桝田啓三郎訳『死にいたる病』,筑摩書房,1996.を参考とする。本書からの引用はページ数のみを示す。
[2]綜合とは総合である。総合を大げさにしたものと思えばよい。詳しい違いは読んでいく中で感じ取ってほしい。分からなければ分からなくても、それでよい。総合もしくは統一である。
[3]「ひとつの関係」たる自己のこと。
[4]「ひとつの関係」たる自己に関係する関係なのだから、「精神=自己」のことである。
[5]そう考えれば、図において、「絶対的他者=神」からのびる矢印は、上にある要素・関係すべてを囲うことになるであろう。
[6]もし無神論者がキルケゴールの実存概念を換骨奪胎し、神概念を自らの手で葬りさることを望むのならば、そのとき彼はよくよく考えてその思想を取り扱わなければならない。その思想はキルケゴールの思想としてではなく、また別の、独自の無神論的実存主義とも言うべきものとなるのだ
[7]城塚登『人類の知的遺産46 ヘーゲル』,pp.102103を参照。
[8]ヘーゲルの弁証法が思弁的に過ぎるというキルケゴールの批判については、ヘーゲル研究者から、読みが不十分であるといった指摘がなされている。『理想』555号所収の、上妻精「ヘーゲルから見たキルケゴール」参照。
[9]彼は、創造されたばかりの人間のために、主神ゼウスの元から火を盗み出し、それを与えたことによって、罰として高い岩山の岩に繋がれ、毎日毎日再生する自分の内臓をそこにやってくる鷹に啄まれ、まさに死ぬに死ねない苦痛を与えられたのである。
[10]καταδυναμιν. アリストテレスに始まる概念だが、ここでは説明しない。
[11]桝田は可能性を「あるところの自己」、必然性を「なるべき自己」としている。p.291を参照。
[12]神と言うと引いてしまう人が多くあることと思う。そういう人は、神というものを、ひとまず絶対的なものを表す記号か何かと考えておけばいい。日常において私たちは、この世に絶対的なものなどないと思いながらも、何かに立脚してものを言うのであり、そうせざるを得ない。現代において、それは多くの場合、経験や科学的知見であったり、客観と言われるものである。アンチ・クリマクス=キルケゴールにとってはその立脚点がキリスト教的な神であった。
[13]キルケゴールの3段階論は、色々と誤解を招くところで、別に美的なものや倫理的なものを排除しようとしたわけではないので、気をつけておくべきである。これらの分析が、ばらばらの偽名著者たちによって、なされているところを考えると、少しは分かりやすくなるかもしれない。
[14]人間的狂気というものを考えるなら、『おそれとおののき』は十分参考になるだろう。旧約聖書に現れるアブラハムの子殺しへの意志というのは、まさに人間的狂気であり、「倫理的なものの目的論的停止」であった。
[15]キルケゴールと女性観について日本人研究者として、森田美芽を挙げておく。彼女以外知らない。
[16]『死に至る病』は分析に終始しており、治療法は『キリスト教の修練』に回されている。しかし、私が『キリスト教の修練』を開いたことすらないということは、気に留めておいてよいだろう。
[17]私は、この詩人の記述が、キルケゴール自身について述べたものなのではないかと思う。以下に、彼がレギーネとのことについて語ったときの日記を引用しておく。「同情的に、私が自分の婚約を解消しなければならなかったということによって、憂愁の深淵に突き落とされるのである。何故ならそれはひとえに、神が私の存在の根本的な不幸を、取り除こうとし給うているとは、即ち私の殆ど狂気に近い憂愁を取り去ろうとし給うているとは信ずることが出来なかったからである。しかもそのことを私は彼女のためにも、又翻って自分のためにも、魂のありったけの熱情を傾けて望んでいたのであるが。私自身の悲惨を再現せねばならぬということは、この上もなく困難なことであった。私は又もや二回目の諦めをしたのである。唯私は彼女を自由にするように努めようと考えて、そのような人生に立ち向かったのであった。しかし神は讃むべきかな、私にとって神は愛であるということは、常に確信せしめられ、有難いことに確信せしめられて、それ以上確実なことは外にないのである。」(玉林義憲・久山康訳『キェルケゴールの日記』,アテネ文庫,1949,p.42.
[18]この積極的とは、罪を消極的としている合理主義などに対して、積極的ということである。つまり制限付きの積極性であると考えるべきなのである。実際のところは消極的なものに過ぎないということ、それは本文以下に述べられる。
[19]訳注より「ソクラテスによれば、正しいこと、善いことを知っている人は、これをおこなうはずである。正しいことをなさず、善いことをおこなわないのは、正しいこと、善いことが何であるかを知らないからである。つまり、不正をなし、不善をおこなうのは、無知のゆえである。だから、徳は知であり、それを裏返しにいえば、無知は不徳、つまり罪である。」(p.311)
プラトンの初期対話篇では、しばしばソクラテスが善を知恵のことだと表明していたという(藤沢令夫訳『国家 下』,岩波書店,1979,p.379.)。これに関して2つ引用しておく。「もし善のすべてを、そしてそれが現在・未来・過去においてどのように生じるかを、ことごとく知り、また悪についても同様に知っている人があるばあいに、そのような人が、徳に関して、何か欠けるところがあるようにあなたには思えますか。このような人が、節制や、正義と敬虔とに関して、欠けるところがあると、あなたはお考えですか。すくなくとも、このような人だけが、神々に関することでも人間に関することでも――正しく〔彼らと〕交わるすべを心得ているので――恐ろしいものとそうでないものとに十分気を配り、善きものを手にいれることができるわけですが。」(『プラトン全集7,岩波書店,1975,p.162より、生島幹三訳『ラケス』199D-E.
「知識ではないと君に思えるもの、知識とは別のものであると思えるものが何かあるならば、そのようなものは、ときによって有害であったり有益であったりするのではないかね。たとえば勇気だが、もし勇気が知ではなく、一種の空元気のようなものだとしたら、どうだろう。人間は、ただ元気を出すだけで知性がそこに伴わなければ害を受け、知性が伴う場合には益されるというのが、事実ではないだろうか?……節制にしても、……知性を伴ってこそ有益となり、知性を伴わなければ有害なものとなるのではないだろうか?……これを総括すると、魂が積極的に心がけたり、受動的に耐えたりして獲得するすべての資質は、知が導くとき幸福を結果し、無知が導くときは反対の結果になるのではないだろうか?……もし徳というものが、魂にそなわる資質のひとつに数えられるようなものであり、また、かならず有益なものでなければならないとするならば、徳とは知でなければならないことになる。なぜなら、いやしくもすべて魂の資質というものは、それ自体単独では有益なものでも有害なものでもなく、そこに知もしくは無知がはたらくことによってはじめて、有害なものとなったり有益なものとなったりするのだから。こうしてこの議論にしたがえば、徳が有益なものである以上、それはひとつの知でなければならないのだ。」(『プラトン全集9,岩波書店,1974,pp.300301より、藤沢令夫訳『メノン』88B-D.
[20]無論、イエス・キリストのことである。

第3章 主体性

キルケゴールについて少し聞きかじっただけのような人が「主体性」を云々するとき、恐らくその「主体性」は、キルケゴールの「主体性」とは異なるものを語っている。キルケゴールの主体性は、神という絶対的第三者の関係を考えずには、語りえない部分が多すぎた。キルケゴールと主体性をセットに、自分の主張としてその関係を強調しすぎる人間がしばしば欠いていたのは、神観念であり、誠実さであった。特に無神論者にとって、私もその一人だが、彼の主体性という言葉に魅了された者は、意識的か無意識的か、彼の主体性概念を換骨奪胎し、無神論的実存主義を唱えるような不手際に陥りやすい。そのときその哲学は、「キルケゴール曰く」ではなく、「私曰く」というごく個人的な哲学にならざるを得ない。ここで私は個人的な哲学が悪いと言っているのではない。そうではなく、キルケゴールといえば主体性=真実であると、安易にそれらを結び付けてしまおうとする態度は、戒められなければならないのである。
 
過去には、キルケゴールブームがあって散々盛り上がっていたが、今ではほとんど顧みられることもなく、これは哲学の分野全体にも言えることだが、単なる研究対象として、または個人的趣味の範疇で現れるに過ぎない。したがって、今私がここでキルケゴールへの認識を改めさせようとする者の一人として、何かを主張したところで、何の意味もないように思われるかもしれない。だが私には、今なお人々が主体性の誤謬のうちに沈んでいるものとして見えるのであり、これが私には重要なのだが、私自身についてもそれはまったくその通りであったのだ。例えば今流行りの「自己責任」という言葉は実に象徴的である。皆、呪われし主体性に取り憑かれ、真綿で首を絞められるように、主体性の病に侵され、少しずつ精神を蝕まれているようだ。
 
1節 主体性の憂鬱
さて、キルケゴールブームという言葉が出てきているが、具体的に時期を述べるとすれば、第二次大戦後に当たる1950年前後とされている。本節で考慮されるのは、その時代から1980年頃までのことである[1]
 
1950年頃のキルケゴールブームと主体性
キルケゴールブームというのは、ヨーロッパの国々でも起こったわけだが、そちらでは第一次大戦後に起きている。西欧諸国は第一次大戦で、戦勝国も敗戦国も多くの犠牲を出してしまい、国が疲弊したが、日本はこの大戦で景気がよくなり経済的な発展を遂げた。そして第二次大戦のときは、日本が大きな犠牲を払い、その後、日本にもキルケゴールブームはやってきた。こうして見ると、キルケゴールブームは戦後のすさんだ時期にやってくるという法則でもあるのかと思えてくる。大谷愛人(ひでひと)は当時を次のように振り返っている。「…あのころの実存主義協会だとかキルケゴール協会などでは、会合のときもそうですが、会が終わってコーヒー店か何かで飲みながらキルケゴール論をやると、その議論の行きつくところは必ずといってよい程、主体性か社会性かとか、実存主義か社会主義か、キルケゴールかマルクスかのあれか――これかになり、その議論で顔を真っ赤にしてやりあったわけで、……」と、マルクス-社会性、キルケゴール-主体性が争っていたことが分かる。戦争に入る前までは、マルクス主義に主体性というものが問題として捉えられることはほとんどなかったようだが、戦争に負けた後になって、にわかに主体性が取り沙汰されるようになり、戦前の唯物論者[2]たちは反省を強いられることになった[3]
 
そこで、なぜ戦後の廃頽(はいたい)の中から、キルケゴールや主体性といったものが出てくるのかという疑問だが、この主体性というものを考えるときの心理が、ニヒリズムやデカダンスに走るときと同じだからではないか。ニヒリズムやデカダンスというのは、周囲のものへの絶望、究極的にはあらゆるものへの絶望であるが、この主体性を信じるということもまた主体性=自分以外のものに対する絶望と見なすことが出来る。人々は戦争などによって多くのものを失うが、社会に対する信頼や希望も一緒に失ってしまう。戦争による廃頽は社会の失敗であり、主体性の欠如による失敗であると考える。人々が流されることなく、主体的に生きていれば戦争など起こらなかったはずだ、そういう空気が生まれてくるのである。ここに主体性礼賛のための土壌が用意されることになる。しかし単に自らの主体性を称揚するだけでは、根本的な解決になっておらず、かえって独善的にもなり、キルケゴールの考えていた主体性とは似ても似つかぬと言わざるを得ない。
 
結局のところ、キルケゴールをいつものように西洋からの輸入品として受け入れ、「日本人的理解」でもって誤解してしまったのではないか。この点で大谷の分析は興味深い。言葉や概念を拾い上げ、図式化・論理化して一時的な危機意識や感情に結び付けられることで、手っ取り早い危機の処方箋を手に入れたような錯覚を起こし、感傷的な酩酊に陥ってしまったこと、また、彼の思想がそのときの時代環境、時代意識にがっちりはめ込まれてしまって、彼の思想と時代を一体にして見ることで、一つの時代を象徴するだけの形式的なものになってしまったのではないかということである。
 
1980年頃までのキルケゴールと主体性
まずは戦後のキルケゴールと主体性について見たが、時代は進み、社会性か主体性かという議論はもう過去のものとなっている。ここではひとまず人間個人の独善的主体性については一時保留し、人間全体の主体性から考えることにする。これは要するに、人間中心的な見方であり、この世界においては人間が主体になるのだというものである。近代主体主義として西洋で何百年もの間支配的になっていた思想だが、日本にも溶け込んでいるものであり、なかなかくたばらず、しぶとい思想である。しかしこの思想に、多くの人間の、多くの思想が立ち向かっていった。例えば柏原が言うのは、「石油などの資源の枯渇とか人口増加の問題とかあるいは世界第三次大戦による破滅が予測できるとか、そういったような事柄に対して、あるいはもっと別の危機もあるでしょうが、そうしたことに対して科学的な知見によって、それにフィードバックをかけていく、そういう構造をつくり出していこうという考え方もあるわけですね。有機的なシステムとして世界を理解し直し、そのシステムにどこか動きの転換を与えてやれば、あるいはまた違った仕方で人類が生き延びていけるのではないか。言ってみれば、人間の知恵というのはそれほど愚かではないのであって、人間は自然にこの危機を乗り越えていくのではないか。つまり、相も変わらず人間の英知的な主体性への信頼のようなものがあり、それへの信頼でこの危機を克服していこうという思惑がもし働いているとすれば、それは非常に問題であって、その問題をこそキルケゴールが告発しているんではないか」ということだが、これと似たような論調が、この頃の雑誌『理想』における論文などを読んでいると多いことに気付く。長い引用ではあるが、重要なところなのでもう一つだけ紹介しよう。
 
「『宇宙船地球号』に危険信号が発せらるべきときがきたのである。生態学的均衡は失われ、地下資源は枯渇しかかっている。人口爆発によって世界中に餓死の危険が迫っている。核戦争の恐怖も去ってはいない。これらは、どれ一つをとってみても、容易に解決のつく問題ではない。にもかかわらず、われわれが用意している処方箋はただ一つである。すなわち、技術革新ということ。テクノロジーの発展にすべての希望を託しているのである。だが、人間の考えだす技術が万能薬であるはずはない。技術の改善によっては解決のつかない人間の問題があるはずである。しかし、その人間の問題にかんしてさえ、現代人は工学的アプローチの方法しか考えつくことができない。最近しばしば、人間工学とか社会工学ということがいわれる。あたかも、工学によって解決のつかない問題はこの地上に何一つ存在しないかのごとくにである。」[4]
 
両者とも科学批判的なところがあり、こんなものを紹介する私も含めて科学嫌いか何かかと思われるかもしれないが、そんなことはない。月並みな表現ではあるが、科学の発展は私たちの生活を豊かにしてくれるし、私の認識は科学的なものに多く頼っているのである。私がここまで問題にしてきたのは主体性であり、無論ここでも主体性に注目せねばならないのである。その上で私が何を言おうとしているのか、先に引用した論文の著者がずばり指摘してくれているので、もう少し言を尽くしてもらうことにしよう。
 
「この宇宙が人間とその歴史を目当てに、つまりいつでもわれわれにとって都合よいように設計されており、人間なしには世界は存在しえないものだといえるだろうか。そのように考えるのは、人間の傲慢にすぎない。われわれのまったくあずかり知らぬところで、ある巨大な力が働きつづけていると考えることもできるのである。あたかも人間の弱小を嘲り笑うかのように、われわれの計量や憶測をすべて裏切るような方向に大自然は運行をつづけ、やがてわれわれをいやおうなしに、人類の絶滅という破局にまで連れ去っていくかもしれない。」[5]
 
私たちは、日々何の気なく生活し、存在しているから、自分が生きているのか、生かされているのかといったことについて深く考えることはあまりない。それはそれで構わないのだ。しかし人間がこの世に存在しているのは、実に偶然的なことであって、決して必然ではないのであって、それぐらいのことは考えてみてもよいのではなかろうか。上に挙げた現実悲観の例は両方とも1970年代に書かれたものだったが、そんな彼らの心配の種は、今なお蒔かれたままである。資源不足や食糧不足は今も言われていることで、加えて昨今の投資マネーの暴走、穀物等の資源(バイオエタノール)転用などは相場を引き上げ、世界に混乱を巻き起こしてくれた。核戦争の危機も、オバマが演説を行い、ノーベル平和賞までもらってしまうというハプニングがあったが、現実には様々な国が核開発を始めているのであり、もしこれが頭のイカれたテロリストの手にでも渡れば戦争など起きるまでもなく、世界の滅亡を見ることもできよう。願わくば、このような種が芽吹くことのないよう祈るか、掘り起こすかしてしまいたいものだが、これはたとえ話ほどに簡単な話ではない。
 
完全に脱線してしまわぬうちに話を戻すが、今挙げたのは人災的な部分が多いものの、人間は人間が思うほど確固とした存在とは限らない。人間は何かに存在を保証されているわけではない。自分が存在したいと思おうが、思うまいが、勝手に存在することが決められてしまっている。だから人間には、自分が存在することに対して、責任を負うことがない、というより負えないのである。自分は確かに存在しており、存在せざるを得ないのであり、存在している自分こそ自分の存在に責任を負っているべきはずなのだが、自分の存在というものには何の根拠もない、分かりやすく言えば自分は勝手に、自動的に存在しているのであり、責任を負わなければならない理由はまったくない。ここで存在している自分自身を問い、あえて責任を負おうとすることがパラドックス=逆説であり、主体性の実現ということになるのである。キルケゴールはこれを神との関係において実現しようとしたのであった。自分という存在は常に存在するという存在そのものの「出来事」なのであって、その存在という出来事は常に生じ続けているのである。ここに来て『死に至る病』で述べられていた連続的な死、「死を死ぬ」ということが理解しやすくなっているのではないだろうか。つまり存在は常に生じている出来事なのであるから、それに対し常に責任を負い損ねる人間は絶望し続けているのである。キルケゴールの言う主体性とは、自分自身に依存することではなく、第三者としての他者=神との関係の中で実現されるものだった。そしてそれは、絶対に負い得ない責任を自ら負おうとする自己による自己の苦難の出来事という自己の歴史であり、主体性の実現なのである。ここで主体性の実現を拒む者は、自己の存在に責任を負うのではなく、その責任をよく分からない抽象的な「普遍化された理性」や「世界理性」といったようなところ、自然を司る根幹のシステム―そういうものがあったとして―のようなところに託すのである。そうすることで、自分は責任を逃れ、しかもその責任を抽象物に負わせているものだから、自己は無限に高まったような気になり、自己神格化が起こり、世界における人間の必然性や絶対性といったものを、抽象的におぼろげながら感じるようになるのである。
 
2節 主体性の傲慢― 一つの美的シミュレーション―
「神という絶対的で無限の存在であるものに関わる自己として、人間の自己は絶対的に強くなりうるのである。自己を自分で措定したとすれば、」…それは単なる自己努力に過ぎない。これは第2章で私が述べたことである。
 
無神論者にとってはまったく残念な考えかもしれない。しかしこの考え方は無神論者にとっても、一方では真であると言われ得る。なぜならば、この世的に考えてみても、自分だけの力で何とかなるものはそう多くはないからである。私たち人間は一人で生きていけるほどの強さを持ってはいない。個人は知らず知らずでも、時間のうちに流され、なんとか生きている。これを人間という大きな枠で考えてみても同じである。人間だけの力でこれまでも生きてきたし、これからも生きていくなどという考えは傲慢で無知でしかない。結局有限者たる私たちは、何かに便宜的に根拠を置き、その日その日をかろうじて生き延びているにすぎない。その中でアンチ・クリマクスは、彼にとっての絶対者を想定し、それが神であったということなのである。すなわち彼は自分の論理・生き方に対する根拠を神に置いたのである。そうすることで彼は無限の力を得ることができた。
 
「人間の主体性」と普通言われるものは単なる利己主義ではないか。そこで言われる「主体的であろうとする」という言葉は単なる自己の二重化に過ぎないのではないか。そもそもここで言われる「主体性」とは何なのか。自分が自分としてあろうと主体的に生きるという決意は、結局のところ自分に自分を重ねて上書きするものでしかないのではないか。今、ある人が主体的に生きることを決意したとする。このとき彼はどのような生き方を志すだろうか。
 
まず彼は、彼が彼であるということに自信を持つだろう。彼はただ一人の個人であって、何者にも代えがたい個人であることに誇りを持って生きることができる。ここまではまだ自分の内面的意識だけでの変化に過ぎない。主体的に生きることを決意した彼には、恐らく外面的な目に見える実践的な変化がもたらされていることだろう。そこで考えられるのは、責任感の向上である。自分の行為に対してもはやその責任を逃れることはできない。なぜならば、彼はただ一人の彼そのものなのであり、その彼の行為について責任を転嫁できるような彼の代わりは存在しないのである。こうして彼は、自分の行為について一層慎重になり、自分の手に負えないようなところまで行為の範囲を広げることには臆病になる。自分の行為はすべて自分の責任として帰結するからである。
 
しかし一方で、彼は彼自身を猛烈に信じるようになる。彼は自分の行為がすべて自分に帰結する、跳ね返ってくるものと考えているのである。彼はこの上なく努力するだろう。彼の主体性は、彼の努力に必ず報いると信じ、一生懸命になるだろう。そして、彼がもはや生活などには困らない程度の自己環境を手に入れたとき、彼の努力は、彼の主体性は、この世で勝利を収めるのである。彼は彼の主体性に、彼の努力が矛盾しなかったことに、能う限りの賛辞を述べるであろう。「おお、なんと()むべきかな人間の主体性、わが主体性よ!」彼は主体性に、神のごとき強さを見出し、魅了されてしまう。惨めで不幸をその身に背負った人間が彼の前に姿を見せれば、彼はこう言うだろう。「あの者には主体性が足りなかったのだ。主体性に従い努力しないからあのようなことになってしまったのだ」と。彼の主体性に与える信頼は、もはや不動のものとなり、なんぴとたりとその関係にひびを入れること叶わぬことのように見える。しかし本当にそうなのであろうか。その関係は絶対のものなのだろうか。無慈悲にも私は彼の思い込みを打ち砕いてしまわなければならない。
 
彼の国で戦争が起こる。戦費調達のため、彼の国は大量の国債を発行する。戦争が長引くにつれ、その国債に対する信用が薄れ、金利が膨れ上がり、その価値は失われていくばかり、国内では預金封鎖が行われ、国民の資産は徴収されていく。やがて戦争が終わり、彼の国の経済は破綻寸前、そこに戦時の国債に対する支払いが加わり、中央銀行はひたすら金を刷る。結果ハイパーインフレになり、国はデフォルトを起こす。さて、ここで改めて彼の様子を見てみるとしよう。
 
彼の精神は、預金封鎖の段階で既に参っていた。彼の主体性は、一国の危機という状況においても、彼を助けてくれるようなものではなかった。彼の従った主体性原理はそれほどまでに強力なものではなかった。なぜか、彼は「主体性」という幻想の力に惑わされていただけだからである。先に述べたではないか、「主体的であろうとする」など所詮自己の二重化でしかないのだと。自分が自分であろうとするなど、結局一個人の中だけで完結している同語反復であり、彼は世界が自分の思う通りに廻っていると錯覚しているのである。その「主体性」とは、あたかも神であるかのような自己を自分の手で創り上げ、それに従って生きることに他ならない。自分が生み出した自分、自分が措定した自分というものは、まったくの無力である。彼は世界に対してなんら決定的な影響力を持つことはできない。二重化された自己、上書きされた自己は決して創造主たる元の自己以上の力を持つものではあり得ない。そのように主体的であろうとする自己は、ただ自己の二重化でしかなく、自己の主体性原理が矛盾すること、自己の主体性が自己(自我)の願いに矛盾することを何より恐れる利己主義に違いないのである。
 
3節 主体性と私
キルケゴールの主体性、それは主体性論争[6]の中で言われたとされる高桑純夫の次の一句が的確に表現している。「理論がもとめる実践を、いかにすれば『私』の実践として実践できるか、この意味で表現される主体性」、これこそ彼の言わんとしていたところだったのである。いかにしてキリスト者になるかというただ一点に、彼の関心は向けられていた。しかし彼がこの理論を実践することは終生叶うことなく、彼は死ぬまでずっと憂愁に悩まされ続けたのである。そしてここに、後世の人々が彼の主体性を誤解する契機が潜んでいたのではないかと私は思う。
 
・キルケゴールとキリスト者
彼の理論と実践の間には齟齬があった。それにもかかわらずキルケゴール自身の生き方を彼の理論とイコールで結んでしまった。私自身、指摘されるまでそのことに気付かず、誤謬の中に沈んでいた。それはやはり、彼の著作に厳然とした態度や宗教家らしいこの世的なものへの峻拒のような雰囲気を感じたからだろうし、彼自身、就職せず結婚せず、最後には既存キリスト教界への猛攻の中で、あたかも殉死してしまったかのように見えたからであろう。すなわちキルケゴールの主体性とは、この世的なものの一切を投げ捨てて、かつてキリストがそうであったように、貧しく、虐げられ、この世にあっては殺されるしかないような、そのような生き方を神の前で見出すという過剰なまでのストイックさを求めているものと勘違いしていたのである。しかしそれは間違いだった。彼はそんな生き方を求めていたのではない。彼自身の求めた生活とは、田舎で牧師をやって敬虔な人々と共に日々つつましく牧歌的に暮らしていくようなものだった。
 
それでなぜ彼がそのような生活を実現できなかったかと言えば、当時のデンマークキリスト教界があまりに虚偽にまみれていたからである。デンマーク国民にキリスト者らしい信心や(へりくだ)りの精神は存在せず、彼らはすべて生まれた瞬間から無条件でキリスト者だったのである。キルケゴールは、もはや形式的でしかないキリスト教をデンマークキリスト教界の虚偽を告発する者として「修正剤」たらんとした。彼自身の主張がそのままデンマークキリスト教界に適用されるべきと考えていたわけではない。それはプロテスタントがカトリックの権威的腐敗の中から、抗議する声として現れたように、そしてそれをキルケゴールはプロテスタントとして独立し、新たなキリスト教を主張しだすことなく、すぐさま放棄さるべきと考えていたように、彼自身の主張そのものは、人々がいくらかの信心を持つようになることで、廃棄さるべきものだったのである。
 
さて、こうして見ると、彼の主張ははったりであり、何か本当は大したことのないものだったように思えるかもしれない。しかしそれは違う。確かに、彼自身デンマークキリスト教界に対する「修正剤」として、少し大袈裟な物言いであるという意識は持っていたかもしれない。ただそれでも、彼の中には目指すべきキリスト者像というものがあり、それは真に信仰する者にとっては逆説ではないような姿だったのではないだろうか。
 
信仰の騎士アブラハムは、神の命令に従うという宗教的目的のために、父が子を殺してはいけないという倫理的教えを放棄し、息子イサクを手にかけようとした。信仰など持たない私たちにとって、彼の行為は到底理解できるものではなく、その行為はまったく逆説的であったと言わざるを得ない。そしてそれはキルケゴールにとっても同様で、彼は宗教的なものについて語ることのできる天才的カリスマ詩人であったかもしれないが、真に信仰を持つまでには至らなかった。それゆえに信仰について述べるには、弁証法的であるだとか、逆説だとかいうふうに表現せざるを得なかった。しかし、真に信仰する者にあっては、それが逆説的だとかいう風に表現される必要はないのである。彼は信じる者は救われるということをどこまでも信じきっているのであって、彼にとって救いは、信仰から出てくる必然ではないだろうか。
 
キルケゴールは信仰を、誰もが持てるもので、救われることもできるとしている。ただ信じればよいというたったそれだけが条件だからである。しかしそのたったそれだけのことができないから、私たちは理解に苦しみ、キルケゴール自身も憂愁などから逃れられず、生涯をその中で過ごすことになったのではないか。信じるということのいかに難しいことか。目の前にいる他人ですら100%信じきることが困難だというのに、どうして姿は見えず声も聞いたことのないような神などという抽象物に身を捧げることができようか。そもそも信仰と依存はどう違うのだろう。私は無神論者だ。神などかけらも信じてはいない。神を信仰し、神の言いなりになるとすれば、それこそ主体性の喪失と言えるのではないか。残念ながら、キリスト教社会で育ったわけではない私の意志は、そのような一神教的絶対神というものを信じるために存在していない。かと言って、自分で自分を救えるかと言うと、それも馬鹿馬鹿しい話で、何度も言うように単なる自己の二重化でしかなく、自分に自分を重ねたところで何も起きはしないのだから、無理な話である。
 
・私の主体性
では私の主体性というものは、一体どのように位置付けられるのか。ひとまずのところ、思考停止をしないというところで手を打っておきたい。主体的と言って、自分を神のごとく絶対化するのは、自己神格化に過ぎないし、そうやって絶対的なものを恣意的に設定するのは、結局のところ一神教的な絶対神を信仰しているのと大差ない。人間には、自分の信じたいものだけを信じ、自分に分かるものだけを再確認することで満足してしまうという悪癖があることを私は知っている。信者が神を信じ、思考停止しているのと同様に、自己を絶対視する者も自己を信じ、思考停止している。彼は考えなくてはならない幅を自ら狭めることで、視野狭窄に陥っている。だから私は、絶対的なものへ逃避しないことで、思考停止を回避したい。
 
しかしながら、世界の真理といったものが見つかっていない以上、やはり思考はどこかきりのいいところ、自分が納得できる場所で止まらざるを得ないだろう。そのとき、一時的な思考停止は免れ得ないだろうが、そうしている間にも、思考停止はよくないと考え続け、思考する。このように絶え間なく思考の運動を続けることで「弁証法的に」思考停止を乗り越えたように見せかけるのである。これを今の私の主体性として捉えておくことにしたい。
 
・変わる真実/変わらぬ人間
さて、どうやら私は相対主義という一つの潮流に呑み込まれただけのようである。実際そうなのであろう、今回は少々徹底した自己分析という意図もあったわけだが、自分自身、結果のあっけなさに失望している。所詮この程度であったかと。ニーチェが「神は死んだ」とか言って以来、おおよそすべての現代人はニーチェ的であると見なされ、人々は哲学に何の縁もないと思っていても、そのような哲学的規定、レッテル貼りから抜け出せずにいる。此度の大げさとも言える自己分析によって、何か新しいものが見つかるかと思ったが、特にそんなことはなかった。どこかで聞いたことのありそうな言葉ばかりが並べ立てられ、結論が「思考停止しない」である。あまりの幼稚さにあきれるほかない。しかし、逆に考えるとそれは、人間真理(心理)と言えるようなものは、そうそう変わるものではないということを示しているのかもしれない。
 
人間はいつの時代も変わらない。ここ数10年か100年かを見ても、中高年はいつも「近頃の若い者は~」などと言っている。それより以前も言っていたかもしれない。また2000年以上も昔に、ソクラテスは言っている。「悪いことをされた仕返しに悪いことをするのは、大衆にとっての教訓であるけれども、これは正しいのかな。……僕たちは何人に対しても、仕返ししたり悪いことをしたりしてはいけないんだね。たとえ他人から危害をこうむったとしても、そうしてはいけないんだね。だけどねクリトン、君が言うことの真の意味をよく考えてほしいんだ。なぜって、この意見は今まで多くの人に支持されたことはないし、今後も少数派に留まるような意見なんだからね。それに、この意見に同意してくれる人としてくれない人の間では議論が成立しないんだ。互いの主義主張があんまり違ってるものだから、互いに軽蔑しあわずにはいられないんだよ。」[7]と。大衆というのはこの頃から手に負えるものでなかったようだが、それもまた今でも変わりない。相変わらず彼らの考えは、悪徳と無知に満ちている。
 
私たち人間は、長きに渡って様々なもの、ことを見聞きし、体験してきた。それでも変わらないものが人間にはある。いくら歴史を重ねたとしても、私たち個人個人が歴史年表を眺めながら、20世紀、21世紀の人間として、189世紀の人間よりも自分たちは進んでいて、優れているのだなあなどと考え耽ることは許されていない。この「進んだ」時代に生まれたからと言って、私たちは最初から「無知の知」などの様々な思考上のスキルを持った状態から始まるわけではない。人間は「体系の第14節ではじめるために生まれるのだろうか」、もちろんそうではない。人間は何度でも、知らないことを知らないと捉えなおし、そういったことに謙虚であり続けなければならない。またデカルトが「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」を唱えたからと言って、真に私たちすべての人間存在が確証に至らしめられたということでもない。この概念を真に知るのはデカルトだけであり、他の人間はまた別の方法で、無論デカルトの概念を利用することは禁じられていまいが、それを知る必要があるのだ。この意味において、真理とは、他人に与えられるものではないと私は考える。重要なことは、自分にとっての真理である。それもただの真理ではない。いかに見つけるかが重要でもある真理なのである。


[1]1節は、大方『理想』555,1979.にある大谷愛人と柏原啓一の対談「キルケゴールと現代」に依拠して論理展開を行っている。なので、ここから引用などある場合、いちいち註を付けたりしない。どうしても気になる人は、直接この対談を読めばよい。実際この対談を読めば、本節を読む必要もなかったりするのではないか。ちなみに「1980年頃まで」としたのもそういうことなので、あまり気にしないように。それからもし本節におかしなところがあれば、それはもちろん私の不手際であり、対談の二人には関係ない。念のため。
[2]簡単にではあるが、そろそろ少し解説をしておいた方がよいだろう。マルクス主義と社会性ということについては、社会主義などの言葉もあるので、何となくイメージは湧くだろう。唯物論とは、文字通り物質中心な考えである。反対語は唯心論とされる。マルクスは唯物論者(弁証法的と付いたりするが今は考えない)で唯物史観を持っており、彼の唯物史観とは、生産などの経済活動が人を動かし、歴史を作るというもので、周囲の環境ありきという考え方である。衣食住足りて云々、というのはこれに近い。彼の思想の雰囲気がつかめたら、本文に戻ろう。
[3]この辺は、岩佐茂「主体性論争の批判的検討」に詳しい。『一橋大学研究年報 人文科学研究28,pp.177-227に収録されているらしい。(http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/9891/1/HNjinbun0002801770.pdf) から読めるので、興味があればここからアクセスするのが手軽であろう。
[4]『理想』463,1971,pp.6667.より伊藤勝彦「自然の詭計」。「宇宙船地球号」は有限な地球を、広大な無限の宇宙をさまよう一隻の宇宙船として喩えたものだが、さすがにこれは説明不要であったか。『』でくくったのは、形式的な問題であり、書名などを表しているということもない。つくづく老婆心である。
[5]同上p.62
[6]主体性vs.社会性、前掲の岩佐茂「主体性論争の批判的検討」を参考に。2度目だが、Webで読める。続く高桑の言葉はp.201
[7] sogo,プラトン『クリトン』から。(http://www.e-freetext.net/critoj.html) にて公開。

おわり

世の中にはたくさんの本が出回っている。その中には薬になる本もあれば、毒になる本もある。毒と言っても、別にそれは単にエロ本のことを指しているわけではない。それで肉欲におぼれるとかいうのは確かに気の毒なことではあるが、そういう話ではなく、人の持つ価値観をがらっと変えたり、それまで培ってきた人生観をぶち壊しにするような話である。ある人には薬になるような本がある人には毒になるかもしれないし、逆のことが起きたり、もちろん何も起きないということだってありうる。私にとってキルケゴールの本がどうだったのか、私には分からない。ただ言えるのは、彼の本によって幸福の絶頂にまで至ったなどということはまったくなく、むしろ絶望がどうとか神がどうとか、見たくもない彼の「真理」とやらを見せられて気分が悪いといったところであろう。

哲学で人は幸せになどなれない。「真実をぶつけ合うのが、一体何になるだろう」というJ-POPソングの歌詞が流れてくるのを聴いて、まったくその通りだと思った。真実が人を幸せにしてくれるとは限らないし、そもそも真実が人間のために存在しているなどと考える方がどうかしている。哲学はひたすら「何?」を追求し、知を愛する学問である。自分が洞窟の囚人、妄想世界の住人であるかもしれないと考えるのを厭うがために、どんなに現状幸福な立場にあろうと、それに満足せず、真実やら真理やらというものを追いかけようとするのである。しかしそんなわけの分からないものを見つけ出す作業というのは、苦痛でしかない。せめて、あるのかないのかぐらいはっきりさせろと言いたい。

哲学というものを倫理や法律を作るものとして考えれば、確かに多くの人を幸せにしているかもしれない。しかしその根拠となる善悪の所在とでもいったものを考えようとすれば、一瞬にして迷宮入りである。哲学と聞いて思い浮かべるのは大抵後者の方だろうが、このような根源的、抽象的なものばかりを考えるのは不毛としか思えない。人間がこれほどまでに高度で複雑な思考能力を有しているということは、賞讃さるべきことかもしれないが、現実的には、かえってそれが苦痛やストレスを与えるものとなってしまったりするのである。


 さて、結局第3章以降こういう流れが続き、あまりに主観的すぎるような気はするが、もう過ぎたことである。長い自分語りでもやっていたような気分だ。最後にキルケゴールに直接関係するところで、利用した文献を紹介して終わろう。

・参考文献
・キルケゴール著作
大谷長
訳『キェルケゴオル選集第13巻 日記』,人文書院,1949.
大谷長
訳『キェルケゴオル選集別巻 許嫁への手紙』,人文書院,1949.
玉林義憲・久山康
訳『キェルケゴールの日記 アテネ文庫64,弘文堂,1949.
『キルケゴール著作集 第5巻』,白水社,1962より
沈黙のヨハンネス(枡田啓三郎 訳)『おそれとおののき』
コンスタンティン・コンスタンティウス(前田敬作 訳)『反復』
『キルケゴール著作集 第10巻』,白水社,1964より
ヴィギリウス・ハウフニエンシス(氷上英廣 訳)『不安の概念』
『キルケゴール著作集 第11巻』,白水社,1962より
アンチ・クリマクス(松浪信三郎 訳)『死にいたる病』
飯島宗享 訳『現代の批判』
『キルケゴール著作集 第18巻』,白水社,1963より
田淵義三郎 訳『わが著作活動の視点』
久山康 訳『野の百合・空の鳥』
 
結構読んでいるように見えるかもしれないが、見る人が見れば、何であの本読んでないの? と言いたくなるようなラインナップだろう。あまり突っ込まれると苦しいところであり、時間がなかったということにしておこう。キルケゴールは数ある哲学書の中で、読みやすい部類に置かれているらしいのだが、私が初めて『死に至る病』を読んだときはまったく理解できなかった。しかしどれを最初に読んだらよいかと聞かれれば、『死に至る病』と答えるだろう。ここから入った方がキルケゴールを見失わずに済むような気がする。分かりやすさで言えば、私は読んでないのであまり知らないが作家デビュー作となる『あれかこれか』がいいかもしれない。特にこの中の『誘惑者の日記』は、これ単体で出版されるほどで、小説のような軽さ、らしい。
日記について少しばかり。彼は生前日記をつけていたのだが、実はこの量が膨大で、デンマーク語原典では、全13巻、22冊も出ているらしい。ただ残念ながらそれはほとんど日本語訳で出ていない。
 
アンチ・クリマクス(枡田啓三郎
訳)『死にいたる病』,筑摩書房,1996.
 
第2章はこの本を中心に進めていったが、驚くべきは訳注と解説の量である。これが200ページ弱という詳細きわまるものであり、半分研究書のようなものである。キルケゴールは桝田訳が読みやすい。私はひねていたので、当初あえて避けるという愚行を取っていたが、今思えば本当に無駄なことをした。
 
・キルケゴール研究
大谷長『キェルケゴールにおける真理と主体性』
,創文社,1963.
 
キルケゴールの主体性について詳しく知りたいならこれを読むとよい。主体性という言葉がないページはないのではないかというほど主体性が出てくる。100ページ程度までしか読んでいない。最初は読めていて、非常に面白いと思ったのだが、途中から、気付くと分からなくなっていた。
 
工藤綏夫『人と思想
19 キルケゴール』,清水書院,1968.
小川圭治『人類の知的遺産
48 キルケゴール』,講談社,1979.
 
キルケゴールの生涯を考えるときに重宝した二冊。ある思想家について知りたいと思ったら、「人と思想シリーズ」、「人類の知的遺産シリーズ」はかなり便利である。前者の方が新書並の薄さで読みやすく、後者はハードブックでごつい。
 
『理想』
No.198,194911月号「キェルケゴール研究」,理想社.
同上
No.555,19798月号「キルケゴール」,理想社.
同上
No.676,20063月号「キルケゴール・今」,理想社.
 
雑誌を読むとその時代の雰囲気を知ることができるような気がする。中でも『理想』はやたらとしつこくキルケゴールを扱っている。他にもキルケゴール特集の号があるようだ。第269、360号などがそうらしい。私が最も参考にしたのは第555号である。他は1回読んだきり。

やあやあ、もう終わりですよ。
ここまで全部読んだなんていう奇特な方が本当にいるのかな?
これが私の全力ぱわぁさー。
でもこんな長々と書けたのは、
たくさんの本があったからこそですよ。
あと論文にも感謝感謝。

しかし予想以上にきつい仕事でしたな。
書いた直後は二度とやりたくねえ、と思いつつ、
また暇があれば、やるのかもしれないなあ
とか思ったり。

いや、やっぱりやらないかな(笑)

ところで註がうっとうしいかなと思うんですよねえ。
工夫の余地はあるんですけど、めんどくさくってねえ。

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