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アンチ・クリマクス『死にいたる病』 First Impression

まだこの本は1回しか読んでいない。
一切の解説書も読まぬまま、いきなりこの本から入った。
その私にこの本に書いてある内容を全て理解することは出来ない。
現時点でのまとめをここに残しておく。
ちなみにアンチ・クリマクスとはキルケゴールの使った偽名だ。

文体はやわらかく見せるために、ですます調でいきますよ(笑)
分かりにくいところなんかは指摘してもらえると助かります。
色とかも使っていきたいと思いますが、必ずしも強調したいと考えるべきではないかもです。見やすさ重視です。
見やすさなんかについてもアドバイスどしどし受け付けます。

では、始まりです。

・絶望は死に至る病である
絶望より先に、まずは死に至る病について述べておきましょう。

 ここで語られる死に至る病とは、もちろん末期がんやエイズといった致命的な病のことを指しているわけではありません。死が最後であるような病なのです。

 私たちは死後の世界や生まれ変わりなんかについて、考えたりすることがありますが、「死に至る病」においては、そんなことを考える余地はありません。

 絶望は死に至る病ですが、人はこの病で死にません。肉体的な死で終わるのではない、そこに絶望の苦しみがあるわけですね。
 
 クリマクスはこのあたりのことをこれでもか! これでもか! と表現してきます。絶望の病床に伏す人は死ぬことが出来ず、かといって生きられる希望もありません。

 人は死がもっとも脅威であるそのときには生を望みますが、より一層辛い苦しみに会ったときには、人は死を願うんです。ほら、ひどい拷問を受けてるときとか、愛する人が寝取られたりしたときなんか、もう死んだ方がマシだ! 殺してくれ! とか思ったりするでしょう。(自分で言っててなんですが、寝取られて死にたいって思うものなの?)
 
 でも、人が死を願うほどに辛いそのとき、絶望は既にその希望を取り除いてるって言うんです。この意味において、絶望は死に至る病なのです。

 自己の内に生じるこの病は永遠の死です。肉体的な死は一瞬ですみますが、この病は永遠たる自己に関わる病なので、終わることなく、連続的な死を体験することとなるんです。クリマクスはこれについて「死を死ぬ」とか言っちゃってます。きっついですね。

・自己について
 さあ、何気なく出てきた「自己」ですが、これは重要な概念の一つだったりします。自己とは、その人の中の精神の、そのまた奥深くにあるものです。しかし、本質的にはこれらは全て同じもので、この分類は、私たちがある人を外から見たときに、認識しやすい順に並べたものでしかないんです。

 自己は自分や他者によって置かれます。自己を見つめる自分や、自分を見てくる他者によって自己は構成されていくんです。自分や他人からの評価によって、自己が形成されていくんですね。

 さらに、自己の先には自己そのものというやつがいます。それは自己が目指すべき本来の姿であって、自己を本当に構成するのは自己自身というものなのです。
 
 自己自身というところがかなり分かりにくいかもしれません。自己のイデアみたいなものだよと言えば、分かる人にはわかるでしょうか。分からない人は、まあ自己を作る自己がいると適当に考えといてください。(ちゃんと説明しろ、そんなんで分かるか! というような指摘があればまた何か解説するかもしれません。)

さて、自己についてだいぶこんがらがってきた感じがするので、まとめておきましょう。
自己自身=自己=精神=人間
自己自身と自己の間に、自分と他者が関わる。
全てをイコールで結びましたが、普通の人は違います。自己自身が一番奥にあって、人間としての外観があるという感じでしょう。だからイコールは理想です。上でも本質的に同じとか何とか述べましたよね。

・絶望とその種類
 医者が完全に健康な人間なんかいないって言うように、あらゆる人間の中で、絶望してない人はいないと、クリマクスは言います。どんな人間でも精神的な不安を抱いています。たとえ誰かが、自分はそんなことないよって言っても、医者が自分で自分を健康だと言い張る患者の言を鵜呑みにしないのと同様に、その言葉をそのまんま受け取ることは出来ないんです。

 絶望の度と、意識の度との間には、正の相関関係があります。比例するってことです。意識が増せば増すほど、絶望の度は強くなります。そこで、意識という規定のもとに、3種類の絶望を見出すことが出来ます。

(1) 絶望のうちにあって、自己を持っているということを意識していない場合
 一般に人々は、ソクラテスが志向したような、真理に関わる世界に入ることを最大の善とは考えていません。私は世界の真理を知ることを目的に生きてるんだ! とか言う人は身近にそういませんよね。
彼らにとっては、今この世界で身体的快楽を得ることが幸福なのであって、自己に永遠的な自己(自己そのものってやつですね)が存在することなんて全く気付いていないんです。
彼らは絶望していると言えますが、それを意識しているわけではないので、絶望の度は弱く、真理からも意識的な絶望者に比べると、一歩遠く隔たっています。

(2) 絶望して自己自身であろうと欲しない場合
 絶望して自己自身でありたがらないのは、自己自身の強さに負けてしまうからです。自己と永遠なる自己自身を比べて、自分の今ある自己を、時間的な制約を受けた未熟なものと思い込んでしまうんです。そうして彼は弱気になって絶望してしまいます。あぁ、私には自己自身なんてとても無理だよ・・・みたいな。

(3) 絶望して自己自身であろうと欲する場合
 絶望して自己自身であろうとするというのは、もう自己を自己自身と見なしてしまえっていう傲慢です。現在の自己に、自己自身の無限性を抱いて(でもそれはただの思い込み)、自己でありたがります。この自己はもう自己自身を目指そうなんて考えません。なぜなら、もう自己が自己自身になっちゃってる(もちろんこれも思い込み)からです。彼は自己自身の永遠的なものは意識しているので、絶望度もまた永遠的ぱわぁです。

・信じることと罪
 『死に至る病』は2部構成です。その第2部では、罪について語られます。でもその内容はかなり宗教的です。私も未熟なのでまだここはよくわかりません。今回はとりあえず短くパパッとやっちゃいましょう。
 
 絶望とは罪であって、罪の反対となるのは徳ではなく、信仰です。彼が最終的に述べるのは、信仰によって罪は贖(アガナ)われ、絶望状態を克服するということです。信仰とは神が人間として降り、苦しみを受け、そして死んだという事実を信じ、罪の赦(ユル)しを信じることです。また神の前にある自己を信じることです。

(神が降りたとか苦しみを受けたとか、一体何の話?)
イエス・キリストのことです。
イエスは人間としてこの世に降りてきましたが、貧しく生きました。清貧に生きたんですね。そんな中で色んな奇跡を起こして、各地を宣教して回りつつ、時に感謝され、時に罵倒されました。そして最後には十字架に張り付けられて死にました。で、その後、復活したことになってます。

だから、彼はこういうことを信じろということで、救われるのはキリスト教信者だけだってことになってます。(とはいえ、キルケゴールは当時の教会を激しく非難していました。この辺はまたそのうち。)

 さて、私はキリスト教信者でもありませんし、今後も入信するような予定は立てていません。だからそんなこといわれたって困ります。要するに彼がしつこく言っているのは、何かもう信じろってことです。
 今のとこ、私は自分を一番信じているので、私は私を信じて生きていくことにします。
 あと、神の前の自己を自覚しろって言うのもあるんですけど、これは自分に責任をもつというあたりで手を打ってもらえないですかね。自分の中の絶対者を自分として設定すれば、まあ可能っぽくないですか。



『死に至る病』をバッチリ理解することが、今のところの大きな目標といったところでしょうか。ですから、いずれまた取り上げることになるでしょう。その時はこの程度の長さでは済まないでしょうねえ。でもいつになるかな。(1年後ぐらい…までにできるといいな…)
まずは外堀を埋める感じで、ほかの著作を紹介するのが先になるでしょう。

参考

『キルケゴール著作集11』、アンチ・クリマクス(松浪信三郎訳)「死にいたる病」、白水社、1962年。

『キェルケゴールの日記』 訳:玉林義憲・久山康

この日記を読んでイメージが変わった。
敬虔なキリスト者。
普段の著作でも神と信仰の話が出てくるが、
日記ではもっと出てくる。
驚いたがなかなかおもしろかった。

敬虔なキリスト者だなんて、何をいまさらという感じもするが、
思っていた以上にそうだったということ。

しかし残念ながら、日記の彼とは仲良くできそうにない。
神や信仰にすがることでどれほど救われる思いがするだろう。
それはキリスト者でも何でもない私にも少しは想像がつく。
だからと言って、私はその中に一緒に入っていくことは、
やっぱりできない。

端的に言うなら、そんなものは信じていない。
そうとしか言いようがない。

さて、この記事はキルケゴールカテゴリーに入れた。
ただの感想というにはあまりにも、ねぇ?
以下、いくつか気になったところを抜き書きしておく。

ただ、キルケゴール自身
「熱心な記録係のだれかが、パラグラフを鵜呑みにする輩が、著者を節々(ふしぶし)に切り、刻み、しかも、句読点学に仕えようとして、自分の語る言葉を語の数で区分し、……根気よくやってくれることを思っては、ここなる著者はぞっとするのである」(『おそれとおののき』p.14)
とまで言っているので、
まったく気休め程度にしかならないかもしれないが、
私の考えたことを簡単に付け加えながら、引用するとしよう。
キルケゴールの真意は、私にはわからない。

                                        


~p.29までが1847年(34歳)
p.30~が1848年(35歳)のときの日記となっている。

それから、この本は1949年に出版されており、
旧仮名、旧漢字とまあ、とてつもなく読みにくいことになっているので、
基本的に現代の言葉に直している。
果たしてそれが正しい姿勢と言えるかどうかわからないが、
漢字の変換も面倒だし、妥協した。
時々読みにくい字に振り仮名つけたりもした。
それでは、始めよう。

                                        

p.19
大抵の人間は自分自身に対しては主観的で、他の一切の人に対しては客観的である。しかも時としては驚く程客観的である。ああなさねばならぬことは、正に自分自身に対して客観的であり、他の一切の人に対して主観的であることなのだが。

自分に優しくて、
他人には厳しい態度の人間が多いと言ってるんじゃないかな。

たとえば学生は勤勉に学び、
労働者は勤勉に働くべきだということが、
客観的に言えるかもしれないけれど、
勉強嫌いな子はいるし、やる気のない労働者もいる。

そういう人たちに、厳しい言葉を浴びせながら、
自分は少々サボっても何の批判も受けない。
だから、自分のことを厳しく律しつつ、
他人には優しく(愛をもって接)しなさいよ的なことを
言ってるんじゃないかと、
私は思いました。

それと、「ああなさねば」ってとこは、「嗚呼、なさねば」と解釈。

p.27
私は未だ嘗て誰をも信頼したことがない。私は著作家としては、ある意味で読者を私の信頼する者として利用した。しかし私の読者に対する関係について言えば、私はやはり後代の人々を私の信頼する者としなければならない。嘲笑するためにそこにいるその同一人を、信頼する者とすることは不可能である。

1846年がコルサール事件です。
『コルサール』ってのは適当に有名な人をあげつらって、
面白おかしく書いてたゴシップ雑誌。

みんなこの雑誌のことを
品のないクソ雑誌みたいに、表では言いながらも、
蔭では楽しく読んでたりっていうね。

キルケゴールが標的になった時も、
周りの人は彼が正しく、そして勇敢だと感じながらも、
誰も彼を助けようとまではしなかったわけだ。
彼はそういうとこにデンマーク国民の俗物根性みたいなものを
見てとったのだね。

だからそんなもん読んで自分を嘲笑してるような奴らに、
自分の書物がちゃんと理解されるわけがないと思ったんだろう。

ところで、信頼されるべき後代の人というのはどうやら我々ではなさそうだね(苦笑)

p.30
願望し、希望し、憧憬する人物は決してアイロニカルであることは出来ぬ。アイロニーは(全実存を構成するものとしては、)他の人々なら願望をもつその場所で自己の苦痛をもつという全く逆の人に宿るのである。恋人を得ることが出来ないというのは、それは決してアイロニーとはならぬ。しかし恋人を余りにもた易く得ることが可能であり、恋人自身がその人のものとなることを、乞い求めているのに、しかもそのときやはり恋人を得ることが出来ぬというのは、それはアイロニーとなる。この世の栄華を得ることが出来ないというのは、それは決してアイロニーとはならぬ。しかしこの世の栄華を常ならぬ程に得ることが可能であり、同時代の人が挙(こぞ)って、殆(ほと)んど乞わんばかりにして、その人に権力や支配権を押しつけようとするのに、しかもそのときやはりこの世の栄華を受けることが出来ぬというのは、それはアイロニーとなる。このような場合に言われ得るのは個人が秘密を持っているに違いないということ、即ち憂愁に満ちた智恵の秘密を持っているに違いないということである。それ故アイロニカルな人は決して願望する人物からは理解され得ない。何故なら願望する人物は、唯(ただ)その願望を満たしてもらうことが出来ればと考えているからである。アイロニーは一種の超大な力であって、周知の如く、人はそれにふれて死ぬことさえあるのである。

p.42
同情的に、私が自分の婚約を解消しなければならなかったということによって、憂愁の深淵に突き落とされるのである。何故ならそれはひとえに、神が私の存在の根本的な不幸を、取り除こうとし給うているとは、即ち私の殆(ほとん)ど狂気に近い憂愁を取り去ろうとし給うているとは信ずることが出来なかったからである。しかもそのことを私は彼女のためにも、又翻って自分のためにも、魂のありったけの熱情を傾けて望んでいたのであるが。私自身の悲惨を再現せねばならぬということは、この上もなく困難なことであった。私は又もや二回目の諦めをしたのである。唯私は彼女を自由にするように努めようと考えて、そのような人生に立ち向かったのであった。しかし神は讃(ほ)むべきかな、私にとって神は愛であるということは、常に確信せしめられ、有難いことに確信せしめられて、それ以上確実なことは外にないのである。


これだけ長い引用をしておいて、
言いたいことは一つだけだったりします。

レギーネとの別れは弁証的で逆説でアイロニーであった。

ただこれはやはり、必ずしも真実を示すということでなく、
あくまでこの日記を見たところ、
そうであると言いたがっているのではないかということ。

ちなみに弁証法とか逆説とか
キルケゴールの著作によく出てきますが、
そのうち解説でもしようかなと思ったり。
もっとも、
自分でもまだあんまり理解できてるっていう自信はないんですけども。

                                        

ひとまず日記の引用はここで終わり。
最後に、
『理想』という雑誌を読んだときにいくつかの感想を書いたんですが、
そのうちの一つを、ちょうどよい機会なので、のせておきましょう。

キルケゴールの「真」意というのは、
誰にもつかみようのないものなのかもしれない。
彼は多くの著書を仮名で出版し、
自ら、そこに自分自身の言葉は一切ないのだと言い張る。

それに従い、
仮名の著書は仮名の人間が書いたものとして
紹介してくれるよう注文した。

それならば、彼を理解しようとする研究者というのは、
キルケゴールに共感しすぎている、
自分と彼を過剰に重ねてしまっている、
彼らは冷静ではない、
といった批判を避けようがないのではないか。

キルケゴールが自分の「真」意を隠してしまった以上、
彼を理解するために、彼を感じるしかなかった。

キルケゴールは沈黙に、伝達手段として、
言葉と同じだけの価値を見出していた。
言葉がアルファベット26文字で表現されるなら、
沈黙もそれと同じだけの表現、
アルファベット26文字を持っていた。

そうであるから、彼の解説者は一人ひとりが別人格を持っていた。
それは枡田=キルケゴールであったり、
大谷=キルケゴールであったりしたかもしれない。

真実のキルケゴールというものを
見つけ出すのは不可能なんじゃないか。

それはどんな人間についても言えることだろうが、
こと彼に至っては、
逆説やら弁証的やら偽名やら沈黙やら、
さまざまな目くらましをしかけてきおるので、
ますますわけがわからんのではないか。

落伍者か、病弱軟弱野郎か、
孤独に闘ったキリスト者というマッチョか、
キルケゴールを語ろうとすると、
いつの間にやら、キルケゴールを見た「私」というものを
語るなんてことになってしまっているのかもしれない。


キルケゴールの真意云々というのは、
どうでもいいことなのかもしれない。
皆多かれ少なかれ、仮面をかぶっているものだ。


参考
『キェルケゴールの日記』アテネ文庫64、訳:玉林義憲・久山康、弘文堂、1949年。
『理想』1979年8月号No.555、理想社。
『キルケゴール著作集5』白水社、1962年より、沈黙のヨハンネス『おそれとおののき』訳:枡田啓三郎



日記は、1985年の訳がどうやら一番新しそうだけど、
ななせんごひゃくえん・・・
図書館おとりよせでも、郵送料で¥1,000くらいとか。
借りるだけで1000円はちょっとなあ。

旧漢字で書かれた日記をあさるしかないのか(笑)

『野の百合・空の鳥』訳:久山康

私はキルケゴール著作において、
キリスト教講話、それに類するものは興味無く、
読む気がなかった。

しかし読んでいた本に一緒に収録されていたので、
そのついでに、
斜め読みでもしておくかという気持ちで読み始めた。

…気づけば時間をかけてじっくり精読していた。
自分は重大な見落としをしていたのではないかという気がした。
これが、仮名の著者たちによって書かれた
美的著作と同じ人間によって書かれたことは、
いとも簡単に認められるような思いがした。

最初は、いつも通り、
何寝言を言ってるんだと思ったりしていた。
たとえば、
「空の鳥を見よ。播(ま)かず、刈らず、倉に収めず」――明日のことを思い煩(わずら)うな

鳥は将来のことなど考えず、
その日暮らしだけど、
それは神に養われてるからだ。
人間も見習え、みたいな話がある。

普通に考えてそりゃ無理だ。
神がいいようにやってくれるから気にするなっつったって、
現実の問題として、飢饉とか起きるだろう。

旧約聖書の創世記にだって、
ヨハネが夢で飢饉が来るのを知って、
ファラオに増税(年貢)と貯蔵を
進言する話があったじゃないか。

本当に彼の言う鳥みたいに
何も考えずに生きたとしたら、
そういうことが起きた時は、
それが神の意志だから黙って死ねということになる。

もっとも、狂信者に言わせれば、
そんなことになるのは、信仰が足りないからで、
真に生きる者は、
決してその生が途切れることはないとでも言うだろうか。

と、まあだいたい多くの人が考えるであろう様な
反論を抱きつつ読んでいたわけだけれど、

実際には鳥はそうだから
人間に比べて不完全だとかいう話になってくる。
人間がそういうことを思い煩うことができるから、
鳥とかの自然よりも優れてて、
人間の完全性がうんぬんかんぬん…
ということだそうだ。

困ったことに、そういうことにされると、
もはや反論のしようもない。
議論とかそういうものの域を超え出てしまっている。

このあたりを読んで、
キルケゴールの「素朴性」という話を思い出した。
彼は真のキリスト者としての
過剰なまでのストイックさを求めたわけではなく、
単に牧歌的で平穏な暮らし、
世界を望んでいただけだというお話。

この本に書かれてある内容は、どれも素晴らしいものだ。
宗教など関係なく、得心できる部分は多い。
人間は個々の人間のうちで比較するから不幸になるという話は、
今の「格差社会」というものに対して、
何事か考えさせずにはおかなかった。

もしこの本を、今、貧困にあえいでいる人たちが真剣に読めば、
彼らはどれほど勇気や希望を与えられ、
またキリスト教化されるだろう。
こういう局面において、宗教は本当に強い。

人間の理性や、人間の構築するシステムは、
いまだに人間を幸福にしきれていない。
さまざまな問題があるのに、一向に解決されはしない。
そこが今の人間理性の限界であり、
人間の情念に訴えかけるような宗教的なものの見方は、
ある意味で理性を超えていて、
理性の手の届かないところにまで、その手をのばす。

宗教の持つ絶対性は、
驚くべき強靭さをもった理論であり、
理性の解決できない問題を
解決したかのような錯覚を生みだせる。

もし人が錯覚の中でであれ、
幸福でさえあれば…と望むなら、
その時こそ宗教的なものは勝利するであろう。

(しかし今回はなんというまじめさだろう。いやいつもまじめだけど。笑)

プロフィール

bq69pd

Author:bq69pd
以前に鳥取で大きな地震がありましたため、日本一危険な国宝とされるあれ、投入堂はしばらく見ることができないかと危ぶまれてましたが、実は今年の4月に開山されてたんですよね。危険ではありますが上がっていくと見晴らしはすばらしく、一見の価値はあるんではないかと思われますよ。私もちゃんとのぼったよ。

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