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『反社会学講座』 パオロ・マッツァリーノ

久しぶりに読み直してみたがやはり面白い
統計を駆使していろんなことを分析しているが
ほとんどがネタみたいなものだ
しかし参考文献の量がすごい
彼は優れたエンターテイナーだと思う

ひとつ老人と学生や若者がルームシェアするという案はとてもいいと思った
そういうわけで両者の仲介をするビジネスなんてどうだろう
家を持ってる老人が登録をしておいて若者が入りたいところを選ぶ
若者のプロフィールを見てまず老人はその人と会うか決める
実際に会ってお互い納得できれば一緒に住んでみる

そうすれば著者も言ってるように
若者は節約できるし老人は孤独死を防げる
他にも色々あるけど基本みんなハッピー
いえーい

『ケータイを持ったサル』 正高信男

ものすごく腹の立つ本だった
許せない
1章だけ何とか耐えたが本当に読むのが苦痛だった
もうあとはどうでもいい
ざざっと眺めて本を閉じることにした

内容は引きこもり、ケータイ、ルーズソックスけしからんみたいな
何かそんな感じ
おじさん世代を喜ばせるために書いたのか
ただの憂さ晴らしか
私はきっと後者だと思ってます

パオロ・マッツァリーノの言う「社会学者」がここにいました
彼の言う「社会学者」について簡単におさらいしておきましょう

1. 日常生活の中などから気に入らない相手を見つける
2. 自分に都合のいいデータや資料を集めて意図的に誤読する
3. 欧米を例に取り日本人の西洋コンプレックスを刺激する

見事です
パーフェクトですね
正高信男は立派な「社会学者」です
本当に科学者としてありえません
後ろにたくさん自著が紹介されてますが全てが胡散臭く見えます
中公新書も何故こんな本を出してしまったのでしょう
もう色々とがっかりです

『戦争の世紀を超えて』森達也、姜尚中

恥ずかしい対談ですね。
言葉がピュアーというか、無防備なというか。
中年のおっさんが2人で何語っちゃってんの、
と、ふと冷静になったときおかしく思えてきました。
やっぱり実際に現地を旅しながらだから、
興奮してたりするんでしょうかね。

茶化すのはほどほどに、
興味深かったところを引用してみます。

日本の学生たちにイスラエルとパレスチナの確執と対立のドキュメンタリーなどを見せると、おおかたの学生が、日本が一神教でなくてよかったと感想文に書く。つまり、宗教的な非寛容性の世界だから、あのようなことが起きているというわけです。それは逆に言うと、宗教問題に還元すると説明しやすいからだと思うんです。」(p.52)

「……マスゲームが洗脳の証左なら、日本の中学高校の制服や運動会、ラジオ体操は、欧米から見れば全体主義ですよ。金日成バッジが主体思想の洗脳の証なら、背広やネクタイはキャピタリズムの洗脳のシンボルとなる。言い換えれば誰もが文化や環境に洗脳されています。理解できない人や集団を洗脳されている存在と思い込むことが、まさしく洗脳そのものです。」(p.264)

上が姜で、下が森の言葉です。
一神教の国々がどんぱちやってるのを見るにしても、
北朝鮮のような独裁国家で
おかしな教育を受けているのを見るにしても、
ウチはこんな狭量な国じゃなくてよかったねえ、
などと言ってみたところで、
私達の安全が保証されているということの
証明にはなりません。

グローバル化のせいだか、
世界はフラット化したとか言われ、
どの国も大体似たような病根を抱えているようです。
特に自分と違うもの、
理解できないものを異端や狂気として排除していく流れは、
これまでもそうでしたが、
これからも続いていくのでしょう。

私には戦争のない世界というものが
うまく想像できませんが、
その脅威は当然この国にだって訪れうるものでしょう。

前の戦争を直接記憶している人もだいぶ少なくなって、
ほとぼりも冷めてきたので、
そろそろ何か起きてもおかしくない気がします。
実際、世論を見ても案外強気に見えます。

画期的な思想の転換でもない限り、
人は何度でも繰り返すと思います。

『「日本人」という病』河合隼雄

まえこうじょう・前口上

ほんとはこっちの記事と一緒にしようと思ったんだけど、
意外と長くなったのと、
内容が思ったほど似てなかったため、別立て。
わざわざこんな前置きがあるのは、
本文最初の一文の関係により。

カテゴリも、
上の記事と一緒に「新書」にしとくかと思ったけど、
実際、文庫だし、「心理学」カテゴリ追加かなあ、
と思いつつ、やっぱり「社会学」に投入。

まえおきおわり

『「日本人」という病』というタイトルは、
中身を見るまでもなく…以下省略

著者は、
日本の臨床心理学者としてとってもエライ人で、
多分日本で、
一番有名な心理学者じゃないかと思います。

彼は「"日本人"という病を背負う私」と言い、
自らを患者だとしますが、
臨床心理学者の大家だというエラさ、
自分も同じ患者である
と言うことからくる共感性、
寄り添う感じがマッチして、
癒し系的な内容になっています。

多くの患者を直接見て、
体験してきた著者が、
人の心はどう悩み、考え、
揺れるのかといった様をやわらかく描出しており、
読んでいると、何となく落ち着いてきます。
色々と考え込むタイプの人にすすめたい本です。
(第1章)

第2章以降は、あうあわないが出るかも?
おもに意見の面で。
ん?
と思ったり、
何を言っているのかよく分からない
というところがなくもない感じです。

でもまあ、
私はおおむね同意です。
特に第4章なんていいですよ~。

自然科学と違って、神話の世界には「賭ける」ということが存在します。「私は、それに賭ける」と。「私は、地獄はあると思う」「死後の生命はあると思う」と。「嘘かもしれないけれど、法然さんの言うことに賭けた」とか。(p.252)

別に天国地獄の話に限る必要なんてありませんが、
人は、今の自然科学の中だけでは
収まらない部分を持っていて、
そこらへんに個性みたいなのを感じたりしますよね。

「私」という存在・個性を
保証したり支援してくれるような
「何か」があって、
人それぞれの「何か」に「賭ける」ことで、
「私の神話」は作り出されていくんじゃないでしょうか。

その際、
自分で見出したものが、
既にあるものに、
似ていたとしても、
それは気にしなくても、いいですね。

がんばって見つけた「私の神話」を
そう簡単に捨てちゃう「私」もいないでしょうし。





人が何に賭けてるかは、
あまり気にしないほうが(笑)
そんな、
おいそれと発表するようなものでもないでしょう。
「私の神話」とか、大体こっぱずかしいものになるに、
決まってるんですから。

『同和教育実践』後藤直 他編著

個人的に、
私は同和問題について全くの無知であって、
これまで深く考えたことなど一切なかった。

学校では、

人権は守ろう、
差別はいけない、

とそのようなことを
学習した記憶もないでもないが、
取り立てて部落差別に
焦点が当てられていたわけでもないし、
そういったことに関わる問題は、
何も同和問題に
限ったことでもないのだから、
それは至極当たり前のこと
だったようにも思える。

私がこの本を読んで
同和教育について学ぶ中で、
気になったのは、
旧来の取り組みが
「属地属人」という原則に縛られ、
その対象者にのみ
対策があてられるという点であった。

これにはやはり
実際に問題に
取り組んでいる人と、
私との間に
大きな思想的な隔たりがあるからだと
強く感じた。

この同和問題を
解決するにおいて、
考えている方向が違っている。

主たる運動団体関係者たちは、
被差別部落という
存在そのもの、
肩書き、
レッテル、
表現することが難しいが、
ともかくそういった人々をあるがままに、
一つの少数者団体として残しつつ、
その上で差別されず、
ごく普通に生活できるようにとの
環境をつくりだすプランを
描いているのだと思う。

それに対して私は、
そんな団体そのものをなくし、
徐々に被差別部落と多数団体、
つまりごく普通といわれるような
一般人と混じり合い、
人々の記憶から
その少数派としての被差別部落という
概念を消すべきだと考えている。

持論を展開するならば、
私は差別が他者との差異を
温存したままになくせるなどと、
微塵も思っていない。

このことについては、
口には出さないが
多くの人が
少なからずそういう印象を持っていると、
私は思っている。

自分と他人との間に何かしら
比較できる差異があるならば、
それは必ず差別の種になる。

たとえば互いの間に
何らかのトラブル、
問題があれば、
その差異を挙げることは容易であり、
「被差別部落」という要素は
あまりにも槍玉に挙げやすい。

最近は差別という
言葉に抵抗があるのか、
得意気にも「区別」だという
言葉を使って
非難を免れようとする者もあるが、
何の言いかえにもなっていない。
差別という言葉そのものが
マイナスイメージを持ちすぎていると
感じられているのだろうが、
だからといって別の言葉を使おうと、
言わんとしていることは全く同じである。

ただ部落の人々の集団性、
そのつながりについて
怖いと思われるのは
仕方のないことだろう。

いくら社会では
差別される少数派集団であるとはいえ、
直接対峙することになれば、
たいていの場合
彼らのほうが色々な意味で
立場が上になりやすい。

そこには過去の歴史を見れば
出てくるように、
暴力的な問題も浮上する。
無論「似たもの同士」
集まるのはかまわないし、
当然といえば当然なのだが、
それがまた
他者との溝を深くするジレンマである。

ところで、
私が実のところ
最も興味を覚えるのが
部落を研究している人々の
メンタリティである。

表面上部落問題解決に
思いを寄せる風ではあるが、
果たして彼らの行い(研究)
その願いは
整合的と言えるのだろうか。

部落という存在の風化を防ぎ、
ことによっては
差別者の武器(言い分)を
調達してしまうようにも感じられるが、
彼ら自身
それについてどう考えているのか
非常に興味深い。

これは私の主観に過ぎないが、
こんな研究はまともな精神で
できるものと思えない。
なぜよりによってこの研究なのか。
私にはわからない。
部落出身者が
自らの出自を確かめる
という意味でならば理解もできるが。
部落が身近にある人と
そうでない人との感覚、
部落に対するリアリティの問題か

八木透 編著『民俗学の視座―関西のフィールドワークより』

民俗学の答えは「私」なのではないか。

趣味的でない
民俗学が学問として、
目指すところはやはり
普遍、一般性であり、
これを民俗学に適用した場合、
各種儀礼、習俗などを
行うことの原初的目的が問われてくる。

民俗学は歴史学とは違うのであって、
それは何を以て違うかといえば、
歴史学が過去に起きた
たった一度の大事件を
主に扱うのに対し、

民俗学は人々が
日々繰り返す日常生活に
焦点を当てていることにおいてである。

人々が何気なく生活する中で、
食べたり眠ったり、
遊んだり排泄したり
生殖したりするが、
そうやって年を重ねながら、
また成人したり
結婚したり
死んでしまったりする。

このようなところで、
儀礼やら習俗やら
風俗やら呪い(まじない)やらが生まれ、
民俗学はそのことの意味・目的について
より普遍的に考え、それを明らかにする、
したい。

そうすることで
範囲は狭い地域を越えて、
広く人間一般について
知ることができるかもしれない。

ただ私は思うのだが、
民俗学というのは
とても狭い地域で調査が行われる。
そこでさまざまな民俗的行事に触れ、
分析するが、
実際そういうものは全て
人々のごく個人的な欲求に
よっているのではないだろうか。

そこから見出せるのは、
真理云々といった大げさなものではなく、
とても身近で、
なるほどと思える程度のもの
なのではないだろうか。

たとえば全国各地に
性器を祭るような風習が、
アホほどあるわけだが、
そんなのを見ると、
あーヤリたいんだなと思うし、
成人の儀にしてもめんどくさいのとか、
グロいのとか、
エロいのとか色々あるけれど、
そういうのが好きなんだろうな
という感じになってしまう。

雨乞いとかの儀式は
雨降ってほしいからやるし、
何かと理由つけて
特別なことするのも、
時にはちょっと
過酷なものにしてみるのも、
なんだかその方が効果でそうじゃない、
っていう
それくらいの感じで
始まったんだろうなって思えるし、
やはりそういうものは
ごく個人で考えられるような、
浅そうなものが多くあるのだと思う。

そう考えれば、
民俗学に興味を持って、
こういう祭りあるの? 
もっと俗悪なことを言えば、
エロいのとかあるの? 
などと疑問を持つ者に対して、
自分がそういうことを
考えたのなら
きっとあるだろうと
答えられるのではないだろうか。

村レベルでやっていることだから、
そういう個人的な欲求は
そこそこ通るだろうし、
ほかにも同じようなことを考え
同意にいたるのも、
そう難しくないだろうから、
個人個人がなんとなく抱いた欲求が、
いつのまにか総意になっていた
などということがあることは
あながち変な話でもない。 


これこれこういうことはあるの?

自分でそういうことがあったかもしれないと考えたなら、それはどこかであったかもしれないと考えてよい。少なくとも自分でそういうのがあったのかもしれないなあと少しでも思ったのなら、どこかの辺鄙な土地でそれが行われた可能性は十分ある。すなわち君らの言う民俗学の答えは君らの中に全てあるのだ。君である「私」がそのように考えたのなら、君以外の誰かもそう考えたに違いない。それを行動に移してる人もいるだろう。君らの民俗学は、すべて君たちだ。誰かに教えを乞う必要はない。好きに考えよ。


さて、最初の答えは、こういった人達に対する返答として浮かんだものだった。
まったくもうほんとに人間はエログロに興味津々でマゾなんだから。


しかし民俗学における答えが
「私」だというなら
社会学でも同様の結果が
得られるのではないだろうか。
範囲が狭いからどうという問題ではなく、
両方とも一人ひとりの人間によって
構成されているのだから、
社会全体に当てはめても
同様の結果が得られるはずではないか。
と、なってくると
また考えるのがめんどくさくなってくるので、
もうやめる。

山田奨治『日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか』

著者が若干利用者寄りすぎかなあ
と思いますが、
その辺に気をつけて読めば
特に問題なく読めます。

数字のトリックとか、
被害データの水増し、
捏造といったことを
熱心に調べられたみたいですが、
数字の大小だけが
著作権についての問題であるとは
思っていないので、
個人的にはあんまり興味ありません。

ただ、こうやって
きちんとしてくれる人がいたほうがいいのも確かなので
それなりに有意義かなとも思います。
すごく上から目線ですが、
すいません興味ないんです。

さて、
この著作権ですが、
どうやら日本では
関係法規がすこぶる厳しいそうです。
著作(権)者側に
都合がいいっていうことですね。

たいていが
利用者であるわれわれとしては、
こういう本のほうが
痛快なのやもしれませんね。

著作権によって作られる著作物というのは、
著作権法によって次のように決められています。

「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものという」

だそうです。
まあ普通ですね。
よく例に出されますが、
あなたが真っ白な画用紙に
点をひとつつけただけでも
それがあなたの
著作物になるのです。

すなわちその点を
そこにつけた理由はなんなのか。
だだっ広い空間の中で
なぜそこでなければいけなかったのか。
一体どのような考えのもとに
その点がつけられたのか、
といったように、
個人が行ったことに対しては
何とでも思想的な解釈は可能です。

その人が作品だと言えば、
それは作品なのですね。
いや言わなくても
作品と認める人がいれば作品ですし、
はたまた誰も作品と認めずとも、
天賦の権利として
それは生まれるのかもしれません。

まどろっこしいことばかり言いましたが、
まあこれはいつもの長い前置きで、
著作権を考える上で
問題にすべきことは
一体何なのかということについて
もう少し考えたいのです。

そもそも著作権法といった決め事が
必要になってしまうのは、
創作物について
確かな価値が存在し、
なおかつその創作者の権利が
認められねばならぬという、

利用(したい)者と
権利者の間で
利益の背反が起こるからです。

さらに言えば、
みんなが使いたいということで
「文化的に広く普及するという目的」
「著作者の権利を守るという目的」
一致しないことが問題です。
価値ある創作物については
みんなに見てもらい、
知ってもらうべきです。
大げさな言い方をしますが、
それが公共の
文化的な向上にも資するわけです。

ただ一方で
著作者にも権利があるから
それを守らなければいけない。
それを過度に守ろうとすれば
かえってその創作物は
みんなに広まらないということも
起きるのですね。
一部の人だけが
その利益を享受するという
あまり望ましくないことになります。

今はコンピュータ、
パソコンが普及しています。
これは創作物のコピーを作るものとして
すこぶる優れた機器です。
インターネットにつなげば
無料で様々なコンテンツも楽しめて、
さらにまたそれをダウンロードすることも
できます(フリーでないものは基本的に違法行為です)。

無料で何でも手に入るのだから
みんな好き勝手に使います。
そんなのさせたくないよという権利者は
あの手この手で
何とかそれを阻止しようとします。
でもこの闘争には終わりが見えません。

一体どうしたらいいのか。
私自身が今思うのは、
これだけ便利な機器があって、
もはやそこいら中にあるものを
利用するなというのは
無理なことだろうということです。

人が作ったものを
どんどん利用していくという流れは
もう止められない。
創作物が広く普及するというのは
すばらしいじゃないか、
どんどんやれ、と思う。
・・・のですが、

創作者の権利というのは
やはり大事です。
それを作った人に対して何の敬意もなく、
恩恵も与えられないとすれば、
あまりに悲惨です。
創作者に対しては
もっと敬意が払われるように
なればいいと思います。
もちろん敬意だけじゃだめです。
価値あるものには
お金が払われなければなりません。
ここが難しい・・・。

今の世の中
無料で手に入るのだから、
そのまま利用すればいいじゃないか、
となりがちなので、
その考え方を
少し改めなければならないと思います。
よいものを作った人には
ちゃんとお金を払う、
普段行っていることですが、
ネットが舞台になるとなかなか普及しません。

たとえば私は
Youtubeなどを利用して音楽を聴くことが増えました。
気に入ったらCDを注文したり、
買いに出かけることも増えました。
今はCDも売れないと言われますが、
ネットが普及してからのほうが
圧倒的に買ってる量は多いです。
他にもネットで、
先に無料で触れてから、
実際に購入するということが
多くなりました。

中には何かしら素材のように
その場でデータだけを販売、
使用料を払うようなところもありますが、
こういうものにたいして
お金を払うのが普通という風潮が、
もう少し増えてくれれば
いいのにと思います。

仕事の都合で、
たまーにネットに公開されている素材が
ほしいなあと思うこともありますが、
お金を出しづらい。
というのも無料で公開されていれば
わざわざそんなものに
金を払うのは考えられないからです。
たとえ著作者が権利を放棄してなかろうと、
ついついそのまま使うようなこと・・・
そういうことをやってる人、
いるんじゃないですか?

著作権に関する問題は
非常に難しいです。
正直私にはよくわかりません。
まあ一ついえるのは、
お金は払ったほうがいいよねっ。

でもこんな時代、
フリーで使えるものが
もっともっともーっと増えたらなあと
思ってしまうのも、
しかたないよね・・・

小谷野敦(コヤノアツシ)『日本恋愛思想史』

この人の名前を「こやのとん」だとずっと勘違いしてた。

数年前、暇をもてあましていたか
雑誌の『中央公論』を熱心に読んでいた時期があった。
たぶんこの人毎回なんか連載してた気がする
そこでやっぱり文芸かなんかを
ごちゃごちゃやってて
変わった人だなあという印象がうっすら残っていた。

書店でこの名前を見て
ああ懐かしいなあ、
タイトルも悪くないなあ、
中身も少しめくって、
期待できそうだなあ、
というわけで購入に至る。

どれくらい信用していいのかは
わからんところもあるけど、
でもいろんな本を読んでいて、
よく勉強してるんだなあと思った。
正直にすごい。

結構他人にけんかを売るタイプの人のようで、
自分の気持ちにも正直そうな人で、
やっぱりこれぐらい噛み付こうと思えば、
自分自身がそれなりの知識を
持っていることは大前提になるね。
知識量で勝負しないとだから。

サブタイトルは
「記紀万葉から現代まで」
とあり、
恋愛思想史を俯瞰するというものだが、
日本だけでなく、西洋、アラビア、中国など
いろんな地域からの情報が援用されており、
通時的、共時的にすごい。

恋愛の起源というものが、
他の異性じゃなくてある特定の異性
「あなた」じゃないといやだ!
っていうのがあればそれが恋愛だろ
ってなれば
人間の歴史としては
早い段階に生まれてそうな気がするし、
売春なんてものは、
猿の牡が、牝と交尾してもらうためにプレゼントを上げるというから、これで既に売春になっているだろう。おそらく恋愛より売春のほうが、始まりは早い。」(p.28)
と、あるように、
いや恋愛売春のどっちが先かは知らんけど、
まあやっぱり早い段階で存在したかんじ。
なるほどこの人はおかしなことは言ってない。

また面白かった言論の一つとして、
たとえば光源氏は恋する男として描かれているが、
今の時代に恋する男は
はやらないという部分。

一人の女に恋して
追いかけ続けるというのは、
何だかさえないかんじ。

いや純愛否定ではないけれど。
今はどういうが魅力的かというと、
複数の女性にもてまくる男性。
いわゆるイケメンの主人公。
確かにこういう描かれ方の物語って多い。
もこういうがかっこいいとか
思いがちな風潮があるけど、
これは一つの女性蔑視じゃないかと。
に劣るものとして描かれてるだろうと。

この考え方に対して、
のほうから異論がでないのは仕方ないにしても、
性側からは文句があってもおかしくはなさそうだ。
だが現実には、
一緒になってイケメンに好感を持ったりしてしまう。
盲点だった。

著者は今の「恋愛至上主義社会」に対して、
近代から何も進歩しておらんじゃないかと述べる。
どいつもこいつも恋愛恋愛と浮かれておるが、
恋愛すらできない人間が
どれだけいると思ってるんですか!

                    

ここから個人的な考えを述べようかと思いますが、
まず今の恋愛至上主義とも言える風潮に対しては
色々問題はあると思う。
確かに恋愛できない人間が多数いるということ。
そしてそれは
今後の社会を考えても
無視できないレベルの数にのぼるであろうということ。

割合としてどれぐらいいるかとか、
具体的に知らないし、
大して興味もないけど、
たぶんたくさんいるんだろう。
恋愛しないと結婚しないから、
少子化が進む。
子孫繁栄にならずこりゃあよくない。

結婚しない人が増えれば、
しなくてもいいんだ
っていう風潮も生まれるから
余計歯止めがかからなくなる。
実際、
恋愛できないだけじゃなくて、
意図的にしない人も増えてきてるんだろう。
めんどくさいもんね、
いろいろと。

今後の社会を考えても、
一寸先は闇というか、
安定した生活を
いつまで続けられるかわからないという
先行きの不安というのもあり、
ますます結婚・子作りはしにくくなってきてる。

結婚の前提の恋愛
結婚に至るまでの大きな障壁となり、
これが人々の結婚しない理由付けにもなる。
恋愛をしないから、
もしくはできないから
結婚をしない。
この状況を放置しておいてよいものか。

ただやはり
この自由が望まれる時代に
恋愛を廃するということは、
極端に言えば
最初からすべて配偶者を決めておいてしまう
というシステムへの移行ということになろうし、
反感もたくさんでるであろう。
自由恋愛は認めつつ、
許婚、お見合いの割合を
増やしていく方向がよいのか、
でもそれじゃあ歴史的には、
ちょっと前にさかのぼるだけということになる。
これに対するもっとうまい解決案が見つかったら、
そのときこそ
「ポストモダン」を迎えたということを、
言うことが許されるのかなあ。

だらだらともう少し続けるんだけどさー
大多数の人っていうのは
基本的に根暗なとこがあると思うわけよ。
一人になりたいことも多いと思うのよ。
その辺を考えると、
結婚っていうのはリスキー。
まして子供までできちゃうとねえ。

離婚しやすくするか
たまに別居とかできるようにするか

とにかく偕老同穴とか
そんなきれいごといらないわけよ。
そんなもん耐えられるかボケ。
昔は子供生むときに女が死ぬとか、
平均年齢が今よりちょっと低いとか
あったわけだけども、
医療の発達で
えんえんなっがいあいだ
おんなじ相手といることは
容易になってきたわけだ。
それこそ昔はレアケースだった
偕老同穴が実現可能な社会なんだ。
しかしそれは
我々人間にとって
本当に幸せなことなのか。
いつも誰かに縛られる必要があるのか。
ほんとにどうしたらいいのかな。

姜尚中『在日』

ストレートなタイトルと
著者に惹かれ購入(約5年前)。
相変わらず
買っても読まない本が多すぎる。
それはさておき、
当時集英社文庫より
文庫本としての装いで刊行され、
「学生必見」
という帯の宣伝文句とともに
売られていたことがわかる。

…一応読むまでは、
帯も取っておいてたからね。
読んだらさっさと捨てるけど。

著者は在日韓国人であり、
東大教授。
テレビでてるから有名。
なんで「学生必見」なんだろう
と思ったが、
「在日」という
日本社会における
弱者的境遇から、
今の地位に至るまでの人生が
語られていた。

なるほど
学生が読めば
心打たれるものがあるだろう。
素直な単純馬鹿なら、
自分もがんばろうと
奮い立てる類の本。
いや書き方変だけど、
「単純馬鹿」は悪くありません。
むしろいいことです。
ある程度単純でないと、
うじうじ湿っぽくなるからね。

                   

さて、
そのようなカンフル剤として
利用するのも良いけれど、
やはり内容として
韓国という国に関して
何かしら考えることもあるだろう。
わが国からは
海を挟んでお隣の国
ということになるが、
隣同士の国というのは、
世界各国どこも
仲が悪いのが常であろう。

我々もその例に漏れず、
領土問題、歴史問題等
問題になることは多い。

日本には
在日韓国人として
社会に点在しているが、
彼らの平均生活レベルと、
純粋な日本人の
平均生活レベルを比べれば、
おそらくある程度
わかりやすい差は出るのだろう。
事実・統計など知らないが、
イメージ的にそんな感じ。
イメージで語ったよ?
証拠なんて知らないやい。

だからか
生活保護の受け取り等も
取りざたされがちだしね。
やっぱりそういう
基礎的な部分に不安があると、
色々なところが
不安定になっていって、
社会的弱者としての立場は
落ち込む一方で、
悪循環が生まれやすい。

余計にさげすまれたり、
自らの環境の悪さから
目をそらすために、
わかりやすい対象を憎んだり。

在日、
と呼ばれる人たちに関しては、
時間が勝手に解決するのを
待つのが一番楽だと思う。
過去のこととか忘れて、
世代がかわっていくごとに
ごく普通の
「日本人」として同化しちゃう。

確かに民族の独自性を
尊重することは大事だと思う。
でも、現実問題そんなの無理。
「異物」となるようなものを
すんなり受け入れられるほど、
私たち人間というのは
うまくできていない。

「移民」のことについても同様で、
国力が落ちてきたから
移民で解決しようとかいうのは、
無茶だと思う。

ある一定のレベルまでは、
「移民」が増えても、
そこに問題はないように
見せかけるのは可能だけど、
多くなりすぎると、
歯止めがかからなくなる。

一つの国の中で
多様な文化が共存できるほど
私たち人間は高位ではない。

だから、
たくさんの国が
あるんだろうとも思う。
ある程度同じ文化の人間が集まって
やっと生活ができるのであって、
私たちに他の文化を持った人間を
受け入れられるほどの器量はない。


少数ならばごまかすことができても、
数が増えれば、
「彼ら」の声は大きくなり、
私たちは衝突せざるを得ない。
そういうもんだ。

ところで朝鮮戦争については、
著者が考えるように、
穏便に済ませてもらいたい。
他国の戦争に
興味はあんまりないけれど、
こちらにとっても
ろくなことがあるとは
思えないので。
わが身が一番かわいいのです。

パオロ・マッツァリーノ『パオロ・マッツァリーノの日本史漫談』

相変わらず面白い。
めんどくさい本を読む時には、
こういう本を手元に置いておくと、
より読書がはかどろうかと
思ったりしないでもなかったが、
結局、楽なほうばかり読んでしまって
本末転倒とかそんな落ちなんじゃなかろうか。

そんなわけで読みだしたらすぐ読める。

人生に役立つことが書かれてあるかどうかはわからないけれど、
いつか使うことがあるかどうかはわからないけれど、
うんちくとして、トリビアとして、
大抵新たな知識が得られる感じです。

というか調べてる内容がマニアックで、
わざわざこんなこと腰を据えて調べる人いないし、
だからこそ面白いんだろうなあ。

結構むちゃくちゃなことを言ってみたり、やってみたりしても、
5,60年も経ったらみんな忘れてるから、
大体それぐらいの周期でつまんないことを繰り返すのかなあ。
文明とか歴史はずっと続いてるから、
何千年も人が生きてきて、
人も進化してきたかっていうと、
実際個人の寿命はたかが知れてるし、
人は大して変わらないっていうか、
この著者が言ってる通り、
私もあなたもみんなみんなバカなんだよなあ。

人間みんなバカっていうのは、
バカにしてるのかっていうと、
そうじゃなくって、
「汝自身を知れ」というか、
人はしょせん人ってことであって。
どんなにすごそうな人であっても、
その人も結局、自分と同じ、「人」なんだね。
すごいとこもあれば、すごくないとこもある。
私よりすごい人はいっぱいいるし、
すごくない人だっていっぱいいる。

人の限界ってものがあるから、
個人が絶対の存在になることなんてないから、
誰だって間違えることがあるわけだ。

でも世の中では、
専門家の意見は絶対だと信じてるし、
自分が大して出来のいい人じゃないと認められる人も少ない。
口では自分は出来が悪いと言ってみても、
どこかでやっぱり自分は周りより優れているものがあると信じたくなる。
でもやっぱりバカはバカなんだよなあ。
自分でバカにしていたはずの行いを、
知らず知らずのうちに自分もやってしまうことがある。
過去に批判していたはずなのに、
今の自分がまさに同様の批判を受けるべき行動をとっていることがある。

別に私だけのことじゃなくて、
世の中の人、大勢に当てはまることだと思うし、
実際に、こいつめ…
と思うことは多々ある。
でもそんなこといちいち注意したって
理解しない人はしないし、
時間の無駄であったりするから、
人というのはバカなんだということを、
ひたすら生暖かい目で見守っていなければならないんだと、
見ることを強いられているのだと、
たとえ悪い歴史を繰り返すとしても、
どうにもならないことが多すぎるのだと、
そう思ったりする今日この頃。

社会学なんてやるやつは大体性格悪いにきまってる。
キーワードは「対象の相対化」。
なんでも俯瞰して何かをあげつらうのを生業としてるから、
ひねくれてないとできんね、これは。
私みたいな人間にもぴったりだと思う。

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年が明けたと思ったらすでに春が来ていた。次の更新が夏にならないことをお祈り。

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