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『国家』 プラトン

1年ぐらいかけてじっくり読んだ
最初に手に取ったとき、2000年以上も昔に書かれたものが
自分の手の中にあると思うと
何か不思議な感じがして、震えたのを覚えている

もちろん内容はすばらしいものだ
最初はいくら論理で善が勝っていようと
現実的には悪であることの方が幸せなのではないか
そう思っていた

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ヒルティ『幸福論』 編:斎藤栄治 白水社 1995

別に私が言うまでもなく、非常にすぐれた内容の本です
心に響くフレーズがたくさんあったので
列挙して一つ一つ感想でも書いていこうかと思いましたが
あまりに膨大な量になりそうだったのでやめました

日常生活につながること
例えば結婚や人との付き合いなどといった話題が豊富で
    今すぐできる ハッピープラクティス!
みたいな感じです
カタカナでごまかしてみました

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工藤綏夫『人と思想19 キルケゴール』 清水書院

人と思想シリーズはいい
ある人物を知るときに、この本を1冊読めばだいぶ参考になります

それはさておき、キルケゴールですが
彼の考えには共感できました

彼は客観的真理より主体的な真理に重点を置いています
私も客観的真理については懐疑的です

今でさえ正義と言われることを守るどころか
平気な顔をして不正をやらかすような連中がはびこっているのに
みなさ~ん、世界の真理が見つかりましたよ~
今後はそれにしたがって生きましょうね~
とか言ったところでどれだけの人間が守るかって話です

そもそもみんな違った考えを持ってるんだし
自分の生き方を示すような真理なら
なおさら自分で探すべきだろうと思うわけです

ショーペンハウアーじゃありませんが
人に考えてもらった真理なんぞ受け取ってどうすんだって

みんなが同じ真理の中で生きる社会というのは
集団生活するロボットと変わらないでしょう
争いも悩みもない合理的な理想社会ができるのかもしれませんが
私は遠慮したいところです

少しキルケゴールから外れましたかね
彼が言っているのは、
自分の内面性をはぐくみ、
主体的に考え、行動せよということです

何も考えていない愚かな個人が、
集まっただけの社会・集団は無力どころか
有害でさえあります

自律的・主体的個人として社会に参与すること、
そしてその中で確固たる一人の人であること、
それが大事なのです

少し抽象的で分かりにくいでしょうか
つまり、外から入ってくる情報に流されず、
よく考えて行動しようということなのだと思います

そして社会の中で個人というのは、
とかく無視されがちなものです
だからこそ個人は強く、賢くあらねばならんのじゃないかと、
私は思いました

さて、以上を読むと、
彼は比較的ポジティブな人間に思えるかもしれませんが
全然そんなことはないので注意しましょう

私が変なバイアスをかけてしまっているかもしれません
それにこれを書きながら、自分の理解の浅さを感じました
もし興味があれば、
彼のネガティブっぷりは自分で読んで確かめてみてください


追記2009/12/4
何やら言ってることがおかしんちゃうかと、
そういう疑問を持つ人が多そうなので、
いまさらながら、釈明でもしてみたり。

ここで言ってるのは、大まかに分けて3つ、
客観的真理は役に立たん。
内面性は大事。
自律的で主体的。

1つ目は特に問題なし。
2つ目、3つ目は微妙。

内面性は大事かもしれないけど、
だからといって、外面性はどうでもいいとかいうことはない。
キルケゴールの時代のデンマークで、
内面性があまりにも捨て置かれてたから、
彼は内面性を強調してた。
だから、彼の思想が内面性重視に見えたのだろう。

次、自律的・主体的とかいうのは、かなりずれてる。
確かに大衆批判もしてたけど、
彼の主体性はキリスト教的なもの。
明らかに私個人の考えが混ざってる。

ひとまずこれぐらいに。
詳しくは、キルケゴールカテゴリーの中の記事を見てほしい。
これはあくまで感想として捉えてもらおう。
ただ、感想とするには、
少々誤解を招くような書き方なので、
弁解の必要を感じた。


でも、そういえばまだ彼の思想に
深く突っ込んだ記事がありませんね。
近いうちにまとめて出すので、
そのときどうぞ。

ローラント・ジーモン=シェーファー『ベレーニケに贈る小さな哲学』 訳:須田朗、鈴木仁子

哲学って何? というあなたへ
「哲学入門」を騙る超難解哲学書をつかまされる前に
まずこの本を読んでください

こんなタイトルですが
古代ギリシアから現代までの、
主要な哲学・思想のエッセンスが、
ふんだんに詰め込まれています

様々な考え方を提示してくれているので
これを読めばきっと思考の範囲・視野が、
ぐっと広くなることでしょう

こんなすばらしい入門書は、なかなかないですよ、ほんとに

最初ことばとは何かというところから始まって、
科学方面へ向かっていくんですけど、
(でも別に科学知識とかなくても問題ないですよ)
どんどん引き込まれていく面白さです

しかし本当に私が面白いと思ったのは後半からです

次から次へと哲学的・思想的に重要な考えが出てきて、
宗教、神、何とか主義といったものの欠陥を暴き、
いかに駄目になっていったかを披露していくさまは、
まことに痛快です

この本、実は図書館で何気なく手に取った1冊で、
借りもせずに何度も通って、
2週間ぐらいかけて読みきったんですけど、
少し舐めてました

12歳のわが子にとか言うから、
すぐ読める簡単な内容だろうし、
分かりやすい言い回しでも勉強しようかな
程度に読み始めたんですが、
綺麗に並べられた展開に舌を巻きました

これは12歳の子供より大人が絶対読むべき本です
というか、向こうの12歳児がどうか知りませんが、
小学生が300ページ弱のハードカバーを、
しかも哲学なんて少し想像できませんね

しかし、12歳児でも理解できるようにという
コンセプトで書かれた本なので、
哲学の入門書としては最高クラスだと思います

私も自分で購入して何度も読み返したいと思います
何冊か買って誰かにプレゼントしたいぐらいです
でも哲学書なんて贈られてもウザイよなあ(笑)

誰か哲学に全く縁のなかった人が読んだら
どう思うのか聞かせて欲しいなあ
とにかく私は、とても読みやすくて面白い
優れた哲学入門書だと思います

『絵でわかる西洋哲学』VALIS DEUX(ヴァリス・ドゥ)

見開き1ページで一人ずつ、次々と哲学者とその思想を紹介している。
しかも右は解説だが、左ページにはマンガのような、イラストのようなもの。
そんなわけで、内容としては簡単なのだが、
なんせ解説1ページだから、わからないにくいものもかなり多い。
正直私もほとんど理解できてないと思う。

哲学を勉強し始める人、興味のある人が、
左のマンガだけ流して見るのが、多分いい。

あんまり解説する気もしないし、適当に面白かったマンガでも紹介しておく。

プラトン1 洞窟の比喩
普通にわかりやすい。うまいと思った。

ゼノン アパティア
監督らしき人が、後ろポケットに手をつっこんでるのがやけに気になった。

ピュロン エポケー(判断停止)
男の顔が憎たらしく、いい。

オッカム 唯名論
なにげに不良の山田も頭を下げている。

スピノザ2 能産的自然
フォローのようで、結構ひどい。

スピノザ3 自由と必然
女の子あっさり落ちてて笑った。でもちょっとかわいい。

ルソー 一般意思
「自然に還れ!」 こんな責められ方したら困るなあ。

カント3 定言命法
これはこのマンガを描いてる人の本音か、それとも。

シェリング 同一哲学

母は強し。

ショーペンハウアー ペシミズム
数珠持って何聞いてんだ。

キルケゴール 単独者
解説にも熱が入っているように見えるのは、私のひいき目?

ニーチェ1,2 ルサンチマン、力への意思(超人)
もうめんどいしまとめた。実存主義関係の解説が総じてわかりやすいが、
これは実存主義が説明しやすいのか、書き手が好きなのか。

ヤスパース 限界状況/包括者
これは今まで見た中で最もクールな命乞い。
あなたに死んでもらうことが もっとも 合理的なのだ
ま、まて 合理性の限界を認識してこそ 私たちは理性的になれる

サルトル 実存
コップの嘆きが切ない…

メルロ=ポンティ 身体
がんばって黒い染みをなくそうとしたけど無理だった。

ホルクハイマー 道具的理性
全く嘆かわしいですよね。

アドルノ 否定弁証法
右手に持っているものは…

ドゥルーズ2 多様体
これは思わず吹いた。衝撃の課題。そりゃ子供達も唖然とするしかない。

ベルタランフィ 一般システム論
ホメオスタシス萌え。

それにしてもよくこれだけマンガ描けたなと思った。
きちんとそれらしいものを描いているとこがすごい。

コンスタンティン・コンスタンティウス『反復 実験心理学のこころみ』訳:前田敬作

読み終えて、ふるえたよね。

最初は氷のようにつめたい知性の持ち主
コンスタンティウスに、
こいつはどうしようもないなとか、
読む必要ないんじゃないかとか思ったけど、
最後になって「実験」とか言ってる意味がわかったよ。

ただ「反復」というのが、
新たな哲学的範疇だというそれが、
一体何を意味するのかはよくわからなかったけどね、
いつもどおり。

彼の本は基本的に、
1回読んだだけでは何を言ってるのか分からない。

今回は、なんということもない感想なので、
最後に私の気に入ったところを引用して終わろう。


人びとは、臆病といい、勇気というけれど、その態度には、しばしばなんというあわれな矛盾が見うけられることだろう。おそろしいことを見るのはこわがるくせに、それをする勇気はもっているのだ。きみは、娘を捨てる。これは、おそろしいことだ。きみは、このおそろしいことをやってのける勇気はもっている。だが、かの女が蒼ざめるのを見、その涙の数をかぞえ、かの女の苦しみの目撃者になる勇気はもたない。しかし、これは、相手をすてることにくらべれば、なんでもないことではないか。(白水社,1962,p.296)

青年はこのコンスタンティウスの言葉に対して、
「理路整然とした真実」だとしながら、
それはあなたが強い人間だからと言う。

私も行為と結果の関係から
似たような話をかんがえたことがあるが、
ここに偶然性というファクターを盛り込みたい。
カタカナなのは、意味を広く取れるし、曖昧にしたいから。笑

コンスタンティウスのやり方であれば、
自分の行為に対して、
結果が分かっているという関係があるが、
もっとも、彼は女性を捨てたらどうなるかという限られた範囲で言っているので、それは構わないのだが
抽象化すれば、他のことにも当てはまるし、
そうすると偶然性も勝手に出てくる。

例えば宝くじを買うこと
―あたり? はずれ?
人を押し倒すこと
―しりもちをつくだけ? 頭を打ってどっかおかしくなっちゃう?

と、まあ意味不明な考察を始めたけど、
こんなのは取るに足らないもので、ある。
これを考えたのは『13階段』を読んだときだったな。

戯れ言でおかしな流れになった。
おわろう。

ジョン・T・ウィリアムズ『クマのプーさんの哲学』訳:小田島雄志、小田島則子

さらに言えば、この平和でしあわせな状態は政府機関によってつくられているのではない。ここには、国家もない、警察もない、法律もない、そして、罰則もない。あるのはただ、相手を破滅させたいと思う気持ちを抑えられるのは専制だけだと言ったホッブズに対する反論だけだ。 (p.86)

言ってることはめちゃくちゃかっこいいけど、
それ他のどんなほのぼの童話についても
全く同じことが言えませんか(笑)


ある哲学者(兼数学者)は言いました。
西洋哲学の伝統は、プラトンに付けられた注である、と。
今、私たちには次のようなことが言えます。
西洋哲学の伝統はプーに付けられた序文であった、と。

引用ではありませんが、
大体こんな文言から始まります。

「プー」とは、
あの間延びした声を発する頭の悪そうなクマのことであり、
わが国では「くまのプーさん」という名称で親しまれています。
はちみつにあらゆる生存目的をかけていそうなクマが、
これまでのどんな哲学者より
偉大な哲学者であったことを示そうというわけですが、
まあこれを本気で取る人はいないでしょう。

とりあえず、
ひとつプーの哲学というものに触れてみましょうか。
彼がはちみつを探す場面からです。

では、はちみつにかくされた深い意味は何なんだ? プーが本当にさがし求めていたものは何なんだ? そのこたえの一部をマタイ伝に見つけたからといってびっくりすることはない。この福音書には、洗礼者ヨハネの糧は「イチゴとはちみつ」だと書いてある。『ガリヴァー旅行記』の作者でもある司祭スウィフトは、はちみつを「最も高貴なる二つのもの、すなわち、甘美と光明」に結びつけている。(中略)ヨハネの例で見たようにはちみつを精神的探求の象徴としたり、そのほかの例に見たように探求に成功した人へのごほうびの象徴とするという伝統は、古代からえんえん受けつがれていることだ。 (p.16)

なるほど、そういえば旧約聖書の方にも、
乳と蜜の流れるべとべとした約束の地カナンとかありましたね。
ところで、「イチゴ」は「いなご」の間違いかも。
まあそうであったとしても、問題はない。

だから、この物語に出てくるはちみつの第一の意味は哲学的真実であると自信をもって言える。 (p.17)

ナ、ナンダッテー
と、こんなのがずっと続くわけですね。
古代ギリシアの哲学から始まっていて、
最初は面白おかしく読めていたんですけど、
そのうちこの強弁にも飽きてきまして(笑)

適当に読んでたんですけど、半分ぐらい読んで気づいたんですよ。
あ、これ入門書だ って。
章も時代やジャンルに沿って立てられていたんですね。
『クマのプーさん』が好きな人は
読んでみてもいいかもしれませんね。
途中分かりにくいこともあるでしょうから、
適当に流し読みでもしつつ、
雰囲気を楽しめばよいと思います。

私は別にプー愛好家でもなんでもありませんが、
意外と深い読み方ができるものですね。
実際に興味深い記述もたくさんあって、
そのうちのひとつを紹介してみましょう。


(クリストファー・ロビンは言いました)
「……ぼくがいちばんしたいことは、なにもしないことなんだ」
「なにもしないことをどうやってするの?」

ながいこと考えてからプーはききました。

「うんとね、出かけて行くときに、『クリストファー・ロビン、きみなにをしにいくんだい?』ってきかれるとするでしょ、そのときに『なんにも』ってこたえて、なにもしないことをしにいくことだよ」
「ああ、そうか」とプーは言いました。

「ぼくたちがいましているような、なにもしないこと、ってわけさ」
「ああ、そうか」プーはまた言いました。

「つまりね、出かけて行って、きこえない音をきいて、それで、くよくよ考えこんだりしないってことさ」
(p.220,221)

なかなか考えさせるフレーズですねえ。
この著者のウィリアムズという人は、
めちゃくちゃなことばっかり言ってるように見えますが、
きっとかなりのプーさん好きなのでしょう。
終盤を読んでいて、なんとなくそんな気がしました。

この本では
「一つのエピソードに複数の哲学を見出す」
というのが「大きな特徴」とされているわけですが、
不思議なものです。
多少強引なところはあるにしても、
よくこれだけの哲学的要素を引いて来れたものと思いました。

果してこれはミルンの『クマのプーさん』が優れているからか、
それとも、
哲学的記述がどんなものにでも対応できるほど発達しているからか、
どちらでしょう。

もしかすると、
哲学的記述が何でも語れるというなら、
そんなものは何も言っていないのと同じで、
大した役には立たないという、
かの偉大なクマによる哲学の集大成かもしれません(笑)

プラトン『クリトン』訳:sogo

クリトン
(SOGO_e-text_library)

ネット上をサーフィンしていたら、
偶然にもこんなところに着いていた。
ついつい読みふけってしまったよ。
1時間もあれば読めるだろうから、おすすめ。
訳も読みやすいことになってるし。

簡単に解説すると、
ソクラテスが「言論で青年を惑わす」とかいう理由で、
裁判にかけられて、死刑判決が下った。
それで今、牢獄で執行を待ってるとこ。

それにしても、
大衆がやることは、単に偶然の結果に過ぎないんだよ。
とか、大衆に対する考え方って、
数千年経っても全然変わらないんですね。
でもこの時代にここまで言えるっていうのはやっぱり凄いように思えました。
馬鹿にするわけじゃないですけど、
一般にそこまで本が行き渡ってる時代ではないでしょう。
いくら議論好きだったとはいえ、
大したものですよね。

私なんかは、本がなきゃ何も学べやしなかったんじゃないかと思います。
一生何も考えずに生きてたかもしれません。
考えるにしても、底の浅いことしか考えられなかったでしょう。
議論だけで、考えを深めるのも案外難しそうですしね。
情報量とか受け取り方の問題で。
今、物事を深く考えられるようになっているかどうかはまた別の問題(笑)

さて、そんなことより、
彼が悪を悪として捉える、そのやり方は興味深いものです。


悪いことをされた仕返しに悪いことをするのは、大衆にとっての教訓であるけれども、これは正しいのかな。

僕たちは何人に対しても、仕返ししたり悪いことをしたりしてはいけないんだね。たとえ他人から危害をこうむったとしても、そうしてはいけないんだね。だけどねクリトン、君が言うことの真の意味をよく考えてほしいんだ。なぜって、この意見は今まで多くの人に支持されたことはないし、今後も少数派に留まるような意見なんだからね。それに、この意見に同意してくれる人としてくれない人の間では議論が成立しないんだ。互いの主義主張があんまり違ってるものだから、互いに軽蔑しあわずにはいられないんだよ。


このような考えを元に、
ソクラテスは脱獄出来たのに、しませんでした。
自分の生き方を貫いてますね。
だからと言って、
みんなもおとなしく殺されましょうなんて言う気はありませんけど。

彼の言うことは間違いなく理想論にすぎません。
彼自身理解しているように、
「今後も少数派に留まる」ものでしょう。
しかしです。
復讐のスパイラルを認める気にもなれません。
不毛ですし、それがなされた分だけ不幸が起こります。
だから、復讐はしないほうがいい。
不毛だと意識して、自分を抑えられるならそれは良いこと。
だけど、もしやるのなら、
せめてそれが不毛なことだという意識ぐらいは
持っておいてもらいたいものだと思います。

そんなことにどれほどの意味があるのかは、
私にもよくわかりませんが、
悪というものが、場合によっては認められるなど、
そんな馬鹿げた正当化がなされてはいけないと、
私は思います。
悪は悪です。

しかし私は悪を行うなと強制したいわけでもありません。
それこそ自己責任というやつです。

A.E.マクグラス『キリスト教神学入門』訳:神代真砂実

外国の方が日本語訳してくれたのかと思いました^^

読みにくい、日本語が。


この本、長いので章ごとの感想になりました。


・1~3章あたり
神がどうとか信仰がどうとか
明らかに非合理なことを言ってるのに、
自らを合理的に説明しようとしているのは、
滑稽としか言いようがない。

自己弁護のために意見をまとめようとする公会議とか、
いかに優れた信仰かを証明しようとする書物とか、
余りに俗っぽい。
そういう俗っぽい精神がどばどば出ちゃってる神学は
もう「宗教政治学」とかにでも改名した方がよい。

宗教でも何でも組織が大きくなってくると
どこかおかしくなってくるのは変わらないんだなと思った。

もし本気で神とか信仰の世界に入るのなら、
そういう俗っぽい考えは捨てて、
ただひたすら信じ続けるしかないのではないかと思った。

まさかそんな自分の信仰を
正当化していよう暇などあるはずもなく、
真のキリスト者に到る道の険しさというものを
改めて感じさせてもらった。
信仰は盲目だね。


聖書なんてただのファンタジー作品が
何でここまで大きくなってしまったのか。
実際のところその内容なんてどうでもよくて、
ただみんな何かにすがりたくて、
そんな時に神様について色々書かれた本があるから、
ちょうどいいやって精神安定剤のように
利用し始めたのが最初なんじゃないか。

著者(たち)はどうなんだろう。
世界最大のベストセラーを狙ってたんだろうか。
文学部にでも収まってる方が似合ってるよ。

・第4章
啓蒙思想やダーウィンの進化論といったものが出てきて、
科学的、理性的な考えが広まる中で、
このままではキリスト教が人々に受け入れられなくなるから、
もっと柔軟な解釈が出来るようにしようとする。

信仰が科学の進歩にあわせて、
そこに歩み寄る理由は、
信仰する個人にとっては全くないだろう。
神についてとても人間が
理解することの出来ない存在だと言いながら、
理性によってキリスト教を正当化するのは、
神や信仰を理性のもとに引き摺り下ろす行為のようである。

神学とはまさにそのようなものを
学問や権力のための道具として使う。
または使えるようにするためのものでしかないのではないか。
それは単なるおままごとで、お戯れであろう。


「信仰主義」…自らの領域の外部からのあらゆる批判を受け付けない信仰の体系(p.156)
私が言うのはここに入りそう。
しかしその信仰が個人の行うものである限り、
批判されなければならない理由はないように思える。
信じる者が救われるのだとしたら、
正しいとか間違ってるとか、
関係ないんじゃない?

・第6章
理性の下に生きてきた私達が信仰に到るのはとても難しい。
それに、本気で信仰に入ろうとすると、
色々なものをなくしてしまう気がする。
だからこそ失うものが少ない人の方が
信仰に入りやすくなるというのは、
個人の行為の積み重ねというようなものが
否定されてしまうようで、
どこか皮肉っぽく、
また報われない思いがいたしますな。


ルートヴィヒ・フォイエルバッハ
「もし感情が宗教の本質的な手段や機関であるなら、神の本性というのは感情の本性の表現でしかない。……感情によって理解される神の本質というのは、感情の本質でしかない。自分で恍惚とし、喜んでいる感情、自分に酔い、自己満足に浸っている感情でしかない」。(p.271)

いくら信仰を個人のものだとしても、
信仰の対象が自分の作り上げた空想の神でしかないとすれば、
信仰は単なる妄想となるだろうか。
ではどうすれば信仰できるか。
神学によって神の正体を突き止めるか。
神は人間の思考の範疇を超えているようだからそれはムリだ。

キリスト教ならばイエス・キリストという便利な媒体がある。
しかし、イエス・キリストを経験していない、
直接的に知りもしない人だか神だかを、
どう信仰するのだろう。
それこそ歴史の作り出した虚像ではないだろうか。


・第7章 啓示がどうとか
神は自然の中に見出せる。
この世界に秩序があるということが、
神の存在証明であって、
自然観察の中で神性、神の痕跡を見出せる。
また人間が神の似像として作られたのだから、
人間の中にも神性が存在している。

では何故この世界や人間の中には、
悪(と思われるもの)があるのだろうか。
神は完全で、この世界は不完全だから?
それはおかしいだろう。

完全なはずの神が不完全なものを創り、
それをそのまま放置しているのか?
人間に悪があるのは、
神がコピーミスして、バグが起こったから?
そんなバカな。

このことから言えるのは、
もし神があったとすれば、
神の中に悪が存在しているということではないか?
まあしょっちゅう人間に試練とやらを与えて、
選別ばかりしている神ならば、
さもありなんという感じはするが。

・第8章
ジョン・ポーキングホーン(物理学者・神学者)
我々に物理の世界の実在性を理解させる、たとえ量子理論の捉えにくい世界においてその実在性が叙述可能ではないときでさえも、それを理解させるのは我々の能力なのである。これによって物理学は神学と多くの点を共有することになる。というのも、後者は叙述不可能なものの理解を求めて探求するのだからである。(p.316-317)

あるものが観察できないからと言って、
それが存在しないものだと言えるわけではない。
顕微鏡の発明によって、
それまで目で見ることのできなかった
様々な生き物やウイルス、物体が、
実際に目で(顕微鏡のレンズを通してだが)見えるようになった。

そして今、量子理論の世界では、
電子、中性子、クォークなどの目に見えないものの存在を仮定し、
あらゆる物質はそういうものから構成されていると考えられている。

神学者、先の自然神学者は、
この世界が神なしではあり得ないと考えた。
宇宙にはダークマターという今なお観察されえぬ暗黒物質が
宇宙の構成物として存在しなければならぬと言われるように。

特に私達が見たこともない原子とかいうものから
全て、自分の体すら、構成されているということを
「知っている」というのは興味深い。

やはり神を信じる信じないも、教育によるのだろうか。
そうだとしたら、それは残念だ。
私はやっぱり人間は後験的な生き物なのだと思う。
もし私がキリスト教国に生まれていたら、
熱心な一神教信者になっていたのだろうか。
考えるだけで気持ち悪いな(笑)


カルヴァンの主張によれば、神や世界に関するあらゆる聖書のことばを字義通りにとるべきではない。というのも、そういうことばは聞き手の能力に適合したものなのだからである。聖書は、見たところ太陽が地球の周りを回っていると描いているように見えるが、これは聞き手の世界観に適合したに過ぎないのであって、宇宙に関して科学的に語っているのではない。」(p.356)

もう何でもありじゃないか。
何でそんなに必死なんだ。
聖書は聖書作家たちによる創作でしたって、
言っちゃえば楽になるのにね。

・第9章 神論
旧約聖書も新約聖書も、神については男性形の言葉を使っている。……つまり父とか主とか羊飼いといったものも男性である。そうすると神は男性なのであろうか。」(p.363)

聖書書いた奴が男だったんだろ、終了。


神が全能であるならば、神は何でも出来る、と。もちろん四角い円や丸い三角形を作ることは神には出来ない。論理的な自己矛盾だからである。」(p.385)

神が、論理学に、負けた…


「神の絶対的力」と
「神の規定された力」とを分けたのは、
うまいやり方だ。

「全能の神」は何だってできるのだから、
犯罪だってやれるだろうと言われてしまうわけだが、
こんなものを認めることはできない。

そこで神は自由な決断、自由意志による選択を行い、
自らの力を規定すると言うのだ。
たとえば神はこの世界をつくることもできたし、
つくらないこともできた。
しかし神はつくる方を選んだ。

神は確かにどちらを選んでもよい力を持っていたが、
一方を選ぶことで、もう一方を自ら破棄したのだ。
「今や」神に世界をつくらないという選択はできないが、
それは神の全能を否定するものにならないのである。


トマス主義(p.392)
一流のピアニストはピアノをうまく弾ける。
しかしピアノの音が狂ってたら、
何を弾いても悲惨なことになる。
神も同じなのだ。
神は世界の秩序を守る最高の管理者なのだ。
にもかかわらず、この世に悪がはびこるのは、
この世界が悪いのであって、
神は何も悪くないのだ。

確かにピアニストはピアノが悪かったら、
このクソピアノ職人が!
とか言えるかもしれませんが、
神様はどうするんですか?

と、神は人間の自由意志を尊重したのだ、
とか言えば何とかなりそうだ。
しかし、こうして弁明すればするほど
神というのはうすっぺらくなっていくような。


悪はどこから来た?(p.403)
神はもちろん世界を善くつくったのだから、人間が悪を選んだんだよ。

え、神さまが善い世界つくったんじゃないの?
人間はどこから悪をもってきたの?
どこに悪の選択肢はあったの?

そりゃお前、サタンだよ、あの悪魔のヤロウが人間を悪に引き入れてだな、…

えー、善い世界なんでしょー、何で悪魔がいるのー?

あぁ、あ?
お前さんもしつこい奴だな、
あれだ、天使だよ、天使が堕落したんだよ。

どうやってー?

あー、もううるさい!

キャラを見失いました。

・第10章 三位一体論
「様態論」のどこが異端なのかさっぱり分からない。
神を太陽にたとえてるのもうまいものだと思えた。

太陽は光と熱と球体からなる。
球体が「父」、光が「子」、熱が「聖霊」。
子は光線のように、あるときに発せられ、
またあるときに、その光は戻っていった(夜になった?)。

熱としての聖霊は常に保たれたままで、
受けられる奴が受ける。

全く問題ないじゃないか。
一つの実体(substantia:スブスタンティア)に
3つの位格=仮面(persona:ペルソナ)で、
それぞれの仮面が演技しているというのと
どう違うって言うんだ。

・第11章 キリストについて
よくアダムとイブが
知恵の木の実を勝手に取って食べたとかで、
人間は皆罪人となったが、
イエス・キリストがその罪を償ってくれたのだとか言う。

これによってあらゆる負債は支払われ、人間に課せられていたあらゆる罰金も支払われた。」(p.509)

これってよく考えるとおかしくないか。
神が課した罰金を、神がまた自分で払ってるんだぞ。
一体何がしたいんだ。
やり方が回りくどい。
さらに意味不明なことに、
自分を信仰しろとか言っちゃってる。
自己愛かよ。

第12章 啓蒙主義的合理主義
この章に入ってからはスラスラと、
読むペースが上がったのに気付いて、
やっぱり自分はこっち側なんだなと思った。
史的イエスの探求なんかは面白いね。
奇跡とか復活とかあるわけねーだろ、と。

イエスは単に素朴なユダヤ教信者であって、
自分の名前の付いた新しい宗教作る気なんてさらさらなかった。
ローマの支配から民衆を解放してくれるメシアが現れる、
神はきっと自分を見捨てはしないだろうと信じていた。

しかし十字架において彼は、
「捨てられた!」と叫び、
最後には自分は騙されていて、
間違っていたことに気付く。

これを彼の弟子どもが、このまま終わらせず、
イエスの当惑を隠しつつ、
イエスの復活や、イエスの死が人間の罪の贖いだとか
彼の知りもしなかった教理を発明して、
新約聖書をわけのわからんものにした。
アンチキリスト教が喜んで飛びつきそうな話だ。
しかし次の言葉も耳を傾ける価値はあるだろう。

自分が客観的な歴史的方法の使用者だと考えていて、自分たち自身が歴史によって条件づけられた現象であるとは考えなかった。」(p.533)

自分という存在が、単に歴史の中で必然的に生じた一つの現象でしかないのではないか、つまり自分の意思とかは関係なしに、歴史が勝手に今の私を生み出しやがったのではないか。
この考えを完全に認める気はないが、では否定できるのかと言われれば、それもまた難しい。あらゆる解釈は生じるべくして生じるのではないか。その中で一つの解釈に安易に飛びつくことは、自分をその一つの範疇へと押し込んでしまうものであり、自分を歴史の中の徒花にしてしまうことではないか。
なんちゃって(笑)
これでも運命とか一切信じないタイプなの。

第13章 救いとキリスト
キリストの「犠牲」とかいうのをやたらと強調するけど、
これが疑問に思えてしょうがない。
キリストは自分で自分を殺してくださいなんて言ったわけじゃなくて、
勝手に殺されたんじゃないのか。
それで何で「犠牲」だとか「救い」だとか言って浮かれてるんだろう。
キリスト担ぎ上げられてるんじゃないか?
と思ったが、
そういえばこのあと「復活」したんだったな。


啓蒙主義者たちが
受け入れがたい宗教的=非合理的なものを
削ぎ落としていくと、
何か大したものではないような、
あってもなくてもいいような、
そんな残りかすのようなものにしかならないけれど、
そうまでして宗教を残しておきたいものなのだろうか。

それ程捨てがたいものなのだろうか。
私にはよくわからないけれど、
完全に捨て去ってしまうのは怖かったりするのだろうか。

第14章
全ての人間の源であるとされる
アダムとイヴは「神のかたち」に創られ、
エデンの園で二人は完全な存在だった。
今人間が現実に苦しめられているような悲惨には縁がなく、
新型インフルエンザ? 何それ?
という世界に住んでいた。

しかし彼らは神から離れて、
物質世界へと向かってしまった。
こうして全ての人間が
「神のかたち」からは損傷を負った存在になってしまったのである。

さて、それではキリスト教、キリスト教会が
望んでいるのは一体何なのだろうか。
全人類の救済?
世界に再びエデンを取り戻す?

私には彼らの目的が何なのかよくわからないが、
たとえば今挙げたようなものだったとして、
それが現実化したとき、
人はみんな幸せになれるのだろうか。

よく天国のイメージとして
ひたすら惰眠をむさぼっているだけのような世界が示されるが、
そんな退屈そうな世界に人は耐えられるのだろうか。
この世にエデンが到来した時、
人はきっとまた同じ罪とやらを犯すと思う。
アダムとイヴだって、
そうやってエデンから逃れようとしたんだろう。

第15章 教会
キリスト教で最も悪いと思っていたのが、
この教会というもので、
しかし教会は何でそれほど重要に見られているのか
(コミュニティとしての役割は措いて)がずっと疑問だった。
ここを読んでみて、教会は日本の天皇と似てると思った。

天皇は、神の血を引いていて、
少し前までは人間とは違った扱いになってたけど、
教会も、キリストが使徒を立てて、
その使徒が教会を建てたということで、
この連続性が重要なのである。
また、教会あるところキリストあり、
ということで、
教会の存在がキリストの現臨ということを
示したりなどしているのである。
たとえるなら、キリストがパパで教会がママみたいな。

ちなみに何で私が教会がダメだと思うかと言うと、
俗世的な権威にしか見えないから。
それに歴史を見ても散々悪いことしてるしね。
魔女狩りなんてのは狂気の沙汰だったよね。
科学の発展にもかなりの障害としてはたらいたよね。

・第16章 サクラメント
303年、
キリスト教会がまだローマ皇帝から迫害を受けていた頃、
キリスト教の本を燃やして、
教会を壊せという命令が出た。

その時燃やすために
自分から本を引き渡したキリスト教指導者たちは
「traditores(引き渡した者)」とされ、
これが「裏切り者(traitor)」の語源とされる。
この迫害はコンスタンティヌス帝がキリスト教に改宗した313年に終わった。

さてここで問題、
当時「引き渡した」連中が信者に対して行うサクラメント、
洗礼は有効か否か。
答えは有効、
人間は多かれ少なかれ罪人であって、
誰がよくて、誰が悪いか決められるのは、
神のみである。
洗礼は洗礼という行為として意味がある。

ふむ、どうもこれが納得いかない。
あからさまにキリスト教を裏切った人間、
神への反逆者ともとれる人間が
相も変わらず指導者として偉そうにふるまえるとは、
不思議な話である。

それなら、キリストを売ったユダだって
使徒の一人として地位はゆらぐことがないのではないか。
ユダとtraditoresは変わらないだろう。


聖餐式のパンとぶどう酒について面白いたとえがある。

……女王の指輪を考えてみよう。そして、この指輪について、二つの全く違った文脈において考えてみよう。第一の文脈においては、指輪は、ただあるというだけである。机の上に指輪がある様子を思い描いてみればよいだろう。そこには、どのような他のものとの連関もない。今度は、指輪を別の文脈においてみよう。女王が、王からの贈り物としてそれを指に嵌めているところを想像してみよう。指輪は今や人格的な連関を持つようになる。王との関連で、王の権威や権力や威厳を持つようになるのである。指輪の価値は、指輪の材料の金よりも高くなる。このような関連が生じてくるのは文脈の変化によってである。指輪そのものには何の変化も起こっていない。
これが聖餐のパンにも言えるというのが、ツヴィングリの主張である。(p.712-713)

さすがに信者でも、
パンとぶどう酒が本当に
キリストの肉と血になるとは信じ難くなっているのか。
しかし一番の謎は、
キリストが自分でこれが自分の体で、
自分の血だとか言ったとされることだろう。
何グロいこと言ってんだ。

第17章 宗教も色々
デイヴィッド・トレイシー
多元性全体の中に、単一の本質、悟りや啓示の唯一の内容、唯一の解放の道を見出すことは出来ない。

ジョン・B・カブ・Jr.
宗教などというものはほんとうには存在しない。あるのはただ、伝統、運動、共同体、人々、信条、実践なのであって、これらは多くの人々が宗教という言葉で意味するところのものと関連づけられている諸特性なのである。(p.738-739)

自分の気に入らないものは全て宗教として、
まとめてぺちゃんこにしてやるぜ、
とそれらの(一つの)本質を探ろうにも、
どうやら今の世界にある宗教的と見られるものを観察しただけでは、
見つからなかったようです。

第18章 終末論
世界の究極的変革はまだこれから来るものではあるものの、確信をもって待たれなければならないものなのである。」(p.754)

「神の国」の到来は既に始まっている。
「近づいている」ものではあるが、
その完成は将来においてなされるべきであろう。

もう2010年だけど、
どれぐらいの近さなのだろうか。

それに始まってるとか言われても、
全然そんな感じはしないな。

いつ来るか分からんけど
きっと来るよとかいうのも詐欺師みたいだ。
これを信じてる人のリストを作れば、
カモリストとしてその道の人に売れそうな勢い。
結構長々と書いた。
別に個人で宗教やってる人に対して、
変な人とか、あぶないとか、怖いとか
そんなこと思わないし、実際に会っても、
それ程気になるものではない。
寧ろ信者でもない私がこんなものを読んでいる方が
よほどおかしく思われる。

しかしこれを学問でやってる人というのは、
途中でさめたりしないのだろうか。
神学者も一人の信者だとすれば、
一信者としての見方と、科学者としての見方では、
明らかに矛盾してしまう場面が出てくると思うんだけど

マルティン・ブーバー『我と汝』訳:植田重雄

「…人が存在することに責任はないと?」

「ええ、人は勝手に存在させられています。責任の所在はどこにも求められません。存在したいと思う人がいたとして、その人は存在そのものに価値を見出しているのではなく、存在することで得られるもの、欲望を満たすことと履き違えているだけです。」

「なるほど。しかし人は存在した時から既に一人ではない。親によって生まれている。そしてまず家族によって、次いで社会によって人は育てられていく。ならば人は家族や社会に負っているのではないか?」

「一理ある意見です。それは私も考えました。親によって「生まれる」というのは、その言葉からして受身であって、責任どうこうという問題ではありません。家族や社会によって「育てられる」というのも同じです。人は自分の生存方針を自分で立てて生きていくわけではありません。それに、価値観を形成する大事な時期の多くは状況に流されてしまっていると言っていい。ああ、ここではそんなことどうでもよいのでした。重要なのは存在が始まったそのときから、もう人は責任を負い損ねてしまっているということです。通常思いつくような他者との関係は、今は関係がないのです。」

「それはどうだろう、家族との関係、社会との関係は人にとって違った意味を持ち、作用があるだろう。」

「あなたがどうお思いかは別にして、私は家族も社会も他人であることに変わりはないと思いますよ。」

「それなんて「我と汝」?」


最後がやりたかっただけ
ちょっと力技入っちゃったな。

この文脈から見て、「私と他人」、
それが家族であろうと社会であろうと
同じ地平に置かれているという考え方は、
むしろ<われ-それ>の態度と言える。

「私」は、「私と私以外」を「分離させることによって、
特質の相違をあらわ」しているのであって、
「私」が「他人」と「関係すること自体」に
価値を見出したということではない。

このような「私と他人」は、
<われ-なんじ>のような「関係にはいること」を
目指す態度とはまったく正反対なのである。
出だしがどう見てもすべってますが、
もうそんなことはどうでもいいんです。
本の感想に入るのです。

現代的な資本主義とか理性信奉からくる社会的弊害への批判を、
<われ>と<なんじ>、<われ>と<それ>を軸にやってるような。
で、その閉塞を打ち破れるのは<なんじ>なんだと、
そんなかんじ?

<それ>は空間や時間の中にあって、
「経験と利用の主観」っていう、
簡単に言えば俗世、この世的なものです。

<なんじ>は空間や時間は関係ない。
あるのは無限の「いま、ここ」
過去、現在、未来っていう現在があるんじゃなくて、
ただ現在だけがあって、
ひたすら現在、現在、現在って感じ。
あるがままを捉えるっていう直観的な世界ですね。

だから超越的に、
<なんじ>とか<永遠のなんじ>を目指すんだ!!
っていうあのいつもの、
神様へ帰れ! 的な話で終わるのではなくて、
<それ>の世界と<なんじ>の世界は
二律背反(アンチノミー)で互いに
矛盾してるようなものではあるかもしれないけれど、
どっちか片方だけで済ますんじゃなくて、
両方一緒に抱きしめていこうよ、というお話でした。

日本では、
キルケゴールが単独者とか、例外者みたいな
超越的なとこ、主体性ばっかり強調してて、
じゃあ現実、社会性はどうすんのよ…
ってとこにブーバーがあれもこれもって言って出てきたから
かゆいところに手が届いたみたいに受け取られたんですって。
よく知りませんけど。

この紹介だと薄っぺらいにも程がありますので、
詳しく知りたきゃ自分で読みましょう。
岩波で160ページぐらいです。

哲学書としては読みやすい部類でしょうが、
やっぱり読みにくいです。
あれですよ、簡単な哲学書っていうのは、
白いカラスってぐらい矛盾してるんですよ。

でも分かりにくければ哲学ってわけじゃないので、
ただ分かりにくい文章を書くだけの人は、
呪ってやりたいですね。

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年が明けたと思ったらすでに春が来ていた。次の更新が夏にならないことをお祈り。

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