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大地震について

大地震の記述がごちゃごちゃしてて分かりづらすぎるので、
自分で勝手にまとめる。
他人に読ませることを第一義的な目的とはしていないが、
自分のために分かりやすくまとめるということなので、
興味のある人には有益…かな? 
(キルケゴールを全く知らない人が読んでも面白くはないだろうな)

それから、この記事ではキルケゴールの生年月日が結構重要だ。
1813年5月5日生まれ。念頭においておくべきデータである。

1. 大地震への予感

キルケゴール家はずっと死の影に付きまとわれていた。
父の最初の妻クリスティーネの死から、
1819年に次男が6歳、
1822年長女は24歳で、
そして1832年からいよいよ死霊渦巻き、
それはもう家内バイオハザードな事態に陥ってしまうわけである。

1832/9/10次女:33歳の誕生日目前、
1833/9/21三男:25歳、
1834/7/31母(年齢? さすがに33よりは上だろう(笑))、
1834/12/29三女:33歳、

兄弟たちはみな33歳を越えることなく死んだ。
この4つの死は、セーレン・キルケゴール19-21歳のときのことだ。
このことが彼の関心を神学から文学へ向けるきっかけになったと考えられている。

後に兄ペーターは語る。
まる二年余りの間、キルケゴール家の家族は、喪服に身を包んで、墓の傍に立ち尽くしていたかのようだった、と。

大地震の前から父のミカエルは(当事者なので当然だが)、
自らの罪を認識していた。
それが彼に熱心な宗教教育を子供たちにほどこさせたし、
またこの連続死で、子供たちは33歳よりも長く生きられず、
自分が最後まで子供たちの墓の前に立たされるのだろう
との信念を強めたのである。
そしてそういった固定観念は
兄のペーターやセーレンにも不安として伝染していった。
セーレンは日記に書いている。

なにかがまさしく陰鬱な姿で現れてくるという場合には、ありうべきあらゆる順境のただ中に、まず、これでよいのかという予感が頭をもたげるにちがいない。だがまだ人は、そのよくないことがなんであるのかをはっきりと自覚しているわけではない。しかし家族関係の中には、そういったことがあるにちがいない。そこでは、すべてを焼きつくす原罪の力が現れ、絶望にまで深まることもありうる。そしてこの予感は、予感の正しさを確証する事実そのものよりも、はるかに恐ろしい影響を与えるものである。


彼は家族の中に何かがあると感じ、
それは恐ろしい予感として彼に迫った。

2. 大地震とは何か
要するに父が自分の罪を子供たちに告げたことである。
その程度の認識で十分なのだが、一応もう少し述べておこう。
大地震はキルケゴールの遺稿に書かれていたものだ。
一部引用しておく。

大地震が、恐ろしい変転が起こって、突然、あらゆる現象の新しい、誤りない解釈原理が私につきつけられたのは、そのときであった。そのとき私は、私の父の高齢は神の祝福ではなくて、むしろ呪いであることを、また家族の優れた精神的素質は、ただお互いにしのぎをけずり合うためだけに与えられているのだということを予感した。私の父が私たちのだれよりも生きながらえなければならない不幸な人であり、彼自身のあらゆる希望を葬る墓の上に十字架が立てられているのを見たとき、死の沈黙が私のまわりに深まっていくのを感じた。罪責は、全家族の上におおいかぶさっているに違いない。神の裁きは、全家族の上にくだされるに違いない。私の家族は、消滅し、神の力強い手によって抹殺され、失敗した試みとして抹殺されるよりほかはない。


しかしこの大地震については、
他の日記や遺稿の文章で全然触れられていないので
詳しいことがさっぱり分からないのである。
これに関して4つの説を以下に示す。

・ これはキルケゴールが新しく小説を書くために用意したプロットだよ派
極端な解釈だと一蹴されている。

・ 22歳の誕生日(1835/5/5)に起きたんだよ派
W・ラウリーという人が『キェルケゴール小伝』の中で、
キルケゴールは大地震で精神の危機に陥ったけど、
ギレライエに旅行して、そこで実存の原体験をして復活したんだよ、と言っているらしいのだが、これも論証がなってないとか、お前は伝記物語としてつじつまを合わせたかっただけちゃうんかと、
却下されている。

・ ギレライエから帰ってきたとき(1835年秋)に起こったよ派
本命その1。精神覚醒したと思ったらこれだよ。
小川が上2つのトンデモ説を紹介しといて、
こっちを紹介してないのは気になるね。

・ 25歳の誕生日頃(1838/5/5前後)に起きたんだよ派
J・ヒンメルストゥルプという人が言ってるらしい。
本命その2。
大地震→精神危機→実存原体験の流れではなく、
大地震の予感→精神危機→実存原体験とする。

3. 時系列まとめ
やっと本題に入れる。
結局1835年秋説と1838年説で
順番はどう乱れるのかが知りたいのだ。
主要な事件をまとめておこう。


1832-1834年
4つの相次ぐ死
1835/8/1
ギルベールの断崖で実存の原体験

1835年末頃-38年3月頃
文学論に傾倒。
学生クラブ、カフェハウス通い、遊蕩生活。「破滅の道」
1838年1,2月頃の日記
「ほとんど死者のごとく生きている」
1838/3/13
恩師P・M・メラー教授突然の病死。

1838年4,5月
気持ちを改めて
「いかにして真のキリスト者になるか」
「いかにして真の人間として生きるか」
という本来のテーマに戻る。
1838/8/9
父ミカエル死去。


まずは、1835年秋に大地震があったとすれば、

子供たちの死→家庭内での不安→実存原体験
→大地震→遊蕩→教授の死→父の死

兄弟死んで、
家の中暗くなって、
旅行で気持ちが上向いて、
帰って大地震でまた落とされて、
しばらくぐれて、
メラー教授の死で目を覚ます。
最後には父が死ぬ前に和解も済ませてて、
話としては上手くまとまってる。

次に大地震が1838年だったとすれば、

子供たちの死→家庭内での不安→実存原体験
→遊蕩→教授の死→大地震→父の死

このときの大地震は精神回復と見る。
教授の死と、大地震のダブルパンチで目を覚まして、
心機一転、自分のやるべきテーマへ! ということらしい。
でも実存の原体験でものすごい決意をしたはずなのに、
何で帰ってきて遊蕩生活に突入してるんだろう。

まあいくら考えても答えは出そうにない。
実は他にも判断材料があって、
大地震を記述した書簡が
1838年の日記のまとめから出てきてて、
内容的にも1838年説にかなり有利な証拠になってる。
ストーリー的には、1835年秋説っぽいけど、
状況証拠から見ると1838年説だな。
これは難しい。

私は元々1835年秋派だったけど、
今は分かんないな。
腑に落ちないとこもあるけど、
1938年説もありそうではあるし。
大穴狙いで
単なる小説のプロットっていうのも悪くない気がしてきた(笑)


参考
小川圭治『人類の知的遺産48 キルケゴール』,講談社,1979.
工藤綏夫『人と思想19 キルケゴール』,清水書院,1968.

永遠の恋人レギーネ

レギーネ キルケゴール

私のレギーネ!
 私達の 大切な 可愛い レギーネ
S・K・[i]
 
 
 

1. レギーネとの出会い
キルケゴールが生涯をかけて愛した女性レギーネ・オルセンに出会ったのは、1837年5月9日、レールダム家のパーティにおいてであった。彼はこの家のボレッテ・レールダムという女性に少々ひかれており、彼女のほうもその気であったらしい。それでしばしばレールダム家を訪ねていたのである。

そこで彼は若い娘たちが、春の陽気な日差しの下で楽しくお茶を飲んでいる風景を目撃する。その中にレギーネ・オルセンの姿があった。レギーネ14歳、キルケゴール24歳の年の、ある晴れた午前のことであった。

以降、しばらくキルケゴールは神学試験のための勉強に専念し、1840年に見事合格を果たす。ただ彼は父が亡くなる前(父の死は1838年8月9日)からもう彼女に心を決めていたと、日記に残している。

試験合格後の7月19日から8月6日まで、彼はユラン地方を旅する。それはかつて父が神を呪った貧しい故郷であり、のちの彼の行動を考えると、彼なりの決意や意気込みの表れだったのかもしれない。
 
私はお前のもの
お前は私のもの
お前は私の安らき
そして歌のひびき
また悩みの落着き
全ての生命の喜びのとずき[ii]
 
2. レギーネとの婚約
旅行から帰ってきた8月と9月が、厳密な意味で彼女に近づいた期間であると日記に述べており、実際旅行から帰ってきてすぐに、彼はレギーネの家を訪問するようになる。

そして9月8日、彼が彼女との関係に一つの決着をつけることを望んだ日のことである。レギーネの家には、彼女以外誰もいなかった。居間で二人っきりになった。彼女は少し不安そうだったが、ピアノが得意だったので、彼はいつも彼女がしてくれるように、何か弾いてくれないかと頼んだ。彼女は彼の言うとおりにしたが、彼は何か、そうではない気がした。彼は急に楽譜を取り上げ、激しく閉じ、ピアノの上に放り投げて、プロポーズを行った。彼女には親が決めたスレーゲルという婚約者がいたのだが、そんなことは全くお構いなしであった。

それから両者とも黙ったまま、キルケゴールが先に家を出て、彼女の父の所へ出かけていった。彼女の父は、彼の行為に関してよいとも悪いとも言わず、それでもどうやら乗り気のようであったのだが、キルケゴールがレギーネとまた話をさせてほしいと頼んだところ、9月10日の午後許されて話をした。彼は何も言わず彼女の言葉を待った。彼女は、えゝ、と言った。この日、キルケゴールとレギーネは婚約した。

キルケゴールはすぐに持ち前の社交力を発揮して相手の家族、特に父親との関係を深めていった。彼はレギーネの父に対して好ましい感情を持っており、その思いはレギーネに対してと同様、最後まで変わりなかった。
 
私の生涯は何と経済的にできている事だろう。
ただ一人の娘がありさえすればいいのだ。[iii]
 
3. 婚約破棄―スベテハ失ワレネバナラヌ―
愛し合う二人、家族との関係にも何の憂いもなく、だれの目からしても、すべては円満に進むように思われた。しかしキルケゴールの持つ不安や憂愁、神を志向する意思がこのままで終わらせはしなかった。婚約が決まってからすぐに、彼は自分の行いを悔いることになったのである。そのときのことを彼は次のように述べている。

「しかし内面はどうかと言えば、その後数日して、私は過ったということが分かった。私のような痛悔者、私の従前の経歴(vita ante acta)、私の憂愁、それだけでもう充分だった。」[iv]

彼は婚約してすぐに、それを後悔していたのである。それは決して彼女のことが嫌いになったからというごく単純な理由によるものではない。彼はレギーネのことを何よりも愛していた。地上的なもののうちで最も大事な存在だった。

「しかし、神の抗議があったのだ、と私はそれを解釈した。即ち結婚。私は非常にたくさんのことを彼女に秘密にしなければならなかった、全体のことを虚偽の上に作り上げねばならなかった。」[v]

こうしてキルケゴールは最も愛する人を、自分から捨てて、さらにそのことについて語ることはできず、また誰にも理解されえぬという過酷な運命の中に身を投じることを強いられることとなってしまったのであった。
婚約から11ヶ月後の1941年8月11日、キルケゴールは次のような内容の手紙とともに、婚約指輪をレギーネに送り返す。

「どうしても起こらなければならなくて、いったん起こってしまえば必要な力を与えてくれると思われることを、このさき何度も試してみることはやめて、それはもう起こったことにしてください。何よりも、こうしてこれを書いている者を忘れてください。
絹ひもを送ることは、東洋ではそれを受け取る者の死刑を意味しますが、指輪を送ることは、ここではたしかに、それを送る人間の死刑を意味することになります。」[vi]

さて、このような意味不明な手紙を受け取ったレギーネは、もちろん納得しなかった。彼女は自暴自棄になり、自殺までほのめかすようになった。キルケゴールに出来たことはひたすら荒れ狂う彼女を全力で突き放すことぐらいであった。娘の姿を憐れむ父もキルケゴールに彼女と別れないでほしいと頼むが、それでも彼は彼女との復縁を口にすることはなかった。
 
私は真実に次のように言うことが出来る。彼女は恋人だった、唯一人の恋人だった、私は彼女を層一層愛した、私が彼女を棄てた時に彼女は愛された人だった、そして私は他の誰をも愛そうとは思わない、と。[vii]
 
4. 再会
レギーネとの関係を断ち切り、1841年10月25日、彼はベルリンに留学のために出発した。そしてベルリン大学に行き、講義を受けていたのだが、どうも講義が我慢ならないということで、それからあとは『あれか・これか』の原稿を書いて過ごした。予定では1年半の滞在であったが、4ヶ月半ほどで切り上げることにし、1842年3月6日にコペンハーゲンへと戻ってきた。

『あれか・これか』の草稿を完成し、新たな著作活動に励んでいたころ、思いがけない出来事が起こり、この書物は未完のまま中断されることになってしまった。

1843年4月16日の復活祭の日曜日のこと、「聖母(フルーエ)教会(キルケ)での晩の讃美歌の時に、彼女は私に頷きかけた、それが乞い願う意味か、許すという意味かは私には分からないが、しかしともかく彼女は赤くすらなった。私は離れた席に腰を下ろした、けれども彼女は私を見つけた。おお、そんなことを彼女がしなければよかったのに。今となっては一年半の間の苦痛は無駄だったのだ、私の非常な努力は全て役に立たなかったのだ、彼女は私が欺瞞者だとはやはり信じていないのだ、彼女は私を信じているのだ。」[viii]

のちに彼自身、遠くからだったので彼の見間違いか別の人への会釈だったのかもしれないと反省しているが、この時の彼にとっては決定的な出来事であった。彼が神の前で諦めの騎士となり、捨て去ったレギーネをもう一度、神から受け取りなおす可能性が出てきたのである。そこで彼はレギーネと別れた後の行動を、ベルリンへの旅を「反復」するのである。

会釈から3週間後の1843年5月8日、彼は再びベルリンへ発つ。そしてまたわずか3週間後の5月30日に帰ってくる。この短い期間で、『反復』、『おそれとおののき』の二著の草稿をほとんど完成させている。しかしそのあとすぐに、レギーネとスレーゲルの婚約を知ることになる。その結果、『反復』の内容は急いで書き換えられねばならなくなり、その上で、本来の完成順序とは逆の順番で、つまり『おそれとおののき』、『反復』という順番で出版社の広告に載ることになり、10月16日に両書が出版された。

さてここで、これらの本についてもう少し説明が必要であろう。しかしそろそろ紙幅の問題もあるので、ごく簡単な説明にとどめておく。結論を先取りすると、『おそれとおののき』がレギーネと別れた理由であり、『反復』が再び彼女を取り戻すための試みである。もちろん一読してそれが理解できるというものではない。彼の本は難しいのである。

『おそれとおののき』は聖書の中のアブラハムとイサクの問題が主に取り上げられている。アブラハムは神に告げられて、息子のイサクを生贄にしようとする。そして自らナイフを向けて、息子を屠ろうとした。神はアブラハムの信仰を認め、間一髪その行為は止められるのだが、普通に考えればアブラハムは人殺しである。だのになぜ牧師は平気な顔をしてこれを語ることができるのだろうか。もしこの話に何か意味があるとすれば、アブラハムは信仰の騎士であったことによる。そうでなければ空虚であろう。アブラハムは信仰を持っていたのである。息子イサクを誰よりも愛し、かつ息子を放棄する、しかし彼は神を信じていた。イサクは必ず自らの手に戻ってくると。

『反復』は先にも述べたようにいろいろと込み入った事情があるので、当初予定されていたものとは内容が少し、特に結論のあたりが変わっている。「反復」とは、レギーネとの関係で考えると、単に彼女を受け取りなおすということでいいのかもしれないが、彼は「反復」というものをもっと大きくとらえている。

仮名の著者コンスタンティン・コンスタンティウス(ラテン語で不動・不変を意味するコンスタンスからか、国家で初めてキリスト教を認めさせたあのローマ帝国のコンスタンティヌスからか。)は実際にキルケゴールがやったように過去旅行したベルリンに行き、「反復」を試みる。「反復」は想起や期待と対比され、想起は過去の思い出しのようなもので、すでに終わっている。「反復」は過去の行いをさらに未来への可能性に託すものであり、期待とはまた違う。期待にはまだ不安が付きまとう。どうなるかが分からないからだ。ここで、申し訳ないのだが、私自身「反復」についてよく理解しているとは言い難い。正直なところ、自分で言って、何を言っているのかよくわからないので、もう結論に入らせてもらう。コンスタンティウスの反復は失敗に終わる。彼には冷淡な知性があった、信仰はなかった。もうひとつ、青年の愛を利用した実験めいたものがあり、こちらは青年に相手の少女との「反復」をやらせようとするが、コンスタンティウスが倫理的に問題のありそうなこと―コンスタンティウスが金で別の娘を用意してきて、その子と付き合ってるように見せかけろとか、わざと嫌われるような態度をとってみろとか―を提案し、青年は逃げる。結局「反復」が何なのか、それは私にはよくわからない。
 
ともかく全く確かなことは、彼女に対する私の関係は、私にとって、
信仰とは何かを理解する非常に身近な生々しい学習だったということだ、[ix]
 
5. なぜレギーネを手放したか
この件に関して、まず私が言わなければならないことは、そんなことは私に分かるはずがないということである。真実は墓の中まで持ち去られた。その上で、なされている見解を大まかに分けると、パターンは2つである。

第1に宗教的理由である。一応今回はこの立場から説明してきたつもりである。今のところはこの考え方が主流であり、過去の多くの偉大な研究者たちがこうであると信じて研究を尽くしてきた。

第2に通俗的理由である。これはさまざま考えられるもので、最近はこういう考え方を持つ人も増えている。それというのも、大谷愛人氏や橋本淳氏によるキルケゴールのプライベートな面の研究が進んでいるためと思われる。特に日記の詳細な研究がなされており、キルケゴールは日記も、後に誰かの目に触れるであろうとの考えでいろいろと書きつくしているのだが、そういったことも含め、彼とレギーネを強引に永遠に結び付けようとしているのではないかとか、ストーカーだったのではないかとか、婚約破棄となるとそのことで自分の著作者としてのインパクトが増して歴史に残ると考えたのではないかとか、本当にさまざまである。

このようなことを踏まえて、あえて私の見解を述べるならば…と続けたいところなのだが、本当にさっぱりわからない。そもそも宗教的か通俗的かすらも分からない。表に出ている著作を読み、日記を読む限りでは宗教的であるということは出来る。それ以上先にどうやって進めというのか。結局のところ、通俗的であると断言するのは、どうしても自分の思い込みが入り込まざるを得ないのであり、そんなものは一個人による一つの妄想にしかなるまい。
 
私が人に記憶される限り、
彼女の名は私の著作家としての影響力の要素たるべきだ[x]

 
 
参考文献
大谷長訳『キェルケゴオル選集別巻 許嫁への手紙』,人文書院,1949.
大谷長訳『キェルケゴオル選集第13巻 日記』,人文書院,1949.
小川圭二『人類の知的遺産48 キルケゴール』,講談社,1979.
工藤綏夫『人と思想19 キルケゴール』,清水書院,1968.
『キルケゴール著作集第5巻』,白水社,1962.より、沈黙のヨハンネス,(桝田啓三郎訳)『おそれとおののき』,コンスタンティン・コンスタンティウス,(前田敬作訳)『反復』
 
インターネットから
三井直人のホームページ』より「キルケゴールはなぜレギーネを捨てたのか?」(http://www.geocities.jp/jbgsg639/kirke.html),2009/10/20確認.
新キェルケゴール研究第4回』より森田美芽「レギーネとキェルケゴール―その関係の再考察」(http://www.kierkegaard.jp/kenkyu4.pdf), 2009/10/20確認.
上が著作家としての箔をつけたかったんだろう説で、下がストーカー説です。


忘れてたけど、一番上の写真は、
小川『キルケゴール』から、
p.120にレギーネ、p.121にキルケゴール。
携帯カメラでパシャっと。

[i]大谷長訳『キェルケゴオル選集別巻 許嫁への手紙』1949,p.33.
[ii]同上p.41
[iii]同上p.259
[iv]同上p.208
[v]同上p.211
[vi]佐藤晃一訳『キルケゴール著作集14 人生行路の諸段階』白水社,1963,pp.73,74
[vii]大谷長訳『キェルケゴオル選集第13巻 日記』1949,pp.60,61.
[viii]同上p.30
[ix]同上p.54
[x]同上p.48


今回はこっちとセット。
文字数は5700程度。
さてどうしますかね、これ。
かなり読みづらい気がしますね。

気が向いたときに、
もう少し(?)適当に手を加えたりするかも。

今回の文章は第5章、
つまり何故レギーネが振られたかを
考えることが目的となっていた。

最近ちょっと妙な見解が一人歩きしてるんじゃないか。
特にネット上で。
何を根拠にそんなことを言ってるのかと疑わしいものがあり、
ここらである程度冷静に考えてみたかった。
内容的には中立というわけではなく、
キルケゴール側から見たものとなっている。
これは残ってる資料が彼の側のもののほうが
圧倒的に多いので仕方のないところではある。

ネット上の書き手は典拠を示さなすぎである。
お前その文章一体どこからとってきたんだと、
そう思わせるものが出てくる。
引用してるつもりならちゃんと場所を示せ。
常識だ。ルールだ。
匿名だからって調子に乗るんじゃないぞ。
大体、俗っぽい捉え方は受けがいいから困る。

キルケゴールがどういうつもりでレギーネを振ったか、
それはもはや誰にも分からないことである。
とにかくここをはっきりさせておきたかった。

たとえタイムマシンで時代をさかのぼり、
彼の横にぴったりくっついて生活できたとしても、
私には彼の考えが分からない自信がある。

理由など考えようと思えばいくらでも出てくる。
しかしだからといって、
それについて考えるなと言うわけではない。
実際読んでいて面白いと感じるものがあるのも事実だ。

ただ、あたかもその見解が決定的で、
証明されたかのように振舞うのはやめてもらいたい。

ところでこれは上に挙げたリンクに対して言ってるわけじゃないよ。
念のため。
ネットは玉石混交と言うけど、
その石っころについて言ってる。

上のリンクについては、面白い。
それでも、結局は分からないってことが前提だよねってことを
示したいと思った。

ものを書くのに曖昧な態度を決め込んだらダメって
ルールでもあるのかね。
少しでも分からないところがあることに関して、
こうなのだ! と断言するのには、
私としてはどうしても躊躇せざるを得ないのだが。

2009/10/26

 ここでぼくたちはたいへんな問題に出くわすことになるが、それは、今後の研究の中でもたびたびぶつかる問題だ。つまり、「ものすごくいい頭」にどれくらい探りを入れていいものなのか? という問題だ。そして、―さらにデリケートな問題だが―その頭脳の持ち主以外の人間が、その心をのぞいていいのか? この場合で言うと、風船がしぼむように希望がおしつぶされたときのプーの感情をああだこうだと詮索するのは、ずうずうしくて押しつけがましいことなのではないだろうか? ということだ。
 プーの気持ちを思いやって詮索を遠慮するのはあっぱれな思いやりだ。が、遠慮すること自体がまちがっている。それがプーへの敬意のしるしだとはお世辞にも言えない。というのは、そんなことをしたら、プーもまた、プーに代表される哲学者たちと同じように、知識の限界に苦しんでいると言っているようなものだからだ。(ジョン・T・ウィリアムズ[小田島雄志、小田島則子:訳]『クマのプーさんの哲学』河出書房新社、1996、p.24,25)

まさか・・・こんなのに説教されるなんて・・・
私は間違っていたのか・・・

と思ったが、よく読むと、
プーはちっとも苦しんでないのに、
我々が彼は苦しんでいるだろうと思い込むのは、
プーを愚弄することだという文脈のようだ。

しかしこのふざけた本に書いてある、
かの言葉は私を悩ませる。
何でこんなのに・・・


キルケゴールも自分で、
レギーネ問題を解明したものが
私の全思想を理解するんだとか何とか言ってるし、
一体どうしろと。

レギーネとの関係と日記

こちらを一緒にどうぞ。

1837
(キルケゴール24歳、レギーネ14歳)
5月9日 レールダム家にて、初めてレギーネの姿を確認する。
 
1840(キルケゴール27歳、レギーネ17歳)
 7月3日 大学神学部の牧師試験に合格。
 7月19日~8月6日 父の故郷ユラン地方を旅行。
 9月8日 レギーネにプロポーズ。
 
ピアノのくだりからの続き。「…ピアノの上に投げやる、そして私は言う、ああ音楽のことなんか構わないのです、私が求めているのはあなたなのだ、私は二年間あなたを求め続けてきたのです。…しかし彼女がスレーゲルへの関係について述べた時に私は言った、それではその関係は括弧に入れた挿入句にしておきなさい。何といっても私が第一抵当権を持っているのだから。」(大谷『許嫁への手紙』,pp.206,207)
 
9月10日 承諾の返事を得る。      婚約直後、「私は過った」
 
1841(キルケゴール28歳、レギーネ18歳)
8月11日 婚約破棄
10月11日 2か月かけて、レギーネとの関係を完全に断ち切る。絶交状態に。
 
私の許嫁は最後に私に尋ねた、「唯一つのことだけ言って下さい、もう決して結婚はなさらないつもりですか?」(大谷『日記』p.52)
「そう! 10年間して私の心がすっかり静まり、また疲れたら、もう一度若返るために可愛い若い娘さんを持たねばならぬでしょう。」それは残酷だった―確かにそれは残酷だった。だがそれをしなければならぬということもまた残酷な程つらかった。そしてもし私がそれをしていなかったなら、そして全て別様にしていたら、彼女は今婚約しているだろうか?(この日記は1846年に書かれたもので、婚約はスレーゲルとのことを指す。) 否。もし私が心に思う所を率直に言っていたなら、即ち、いいや私はお前と以外には決して結婚しないのだ、と言っていたなら―その場合には彼女はその私の言葉に固守しただろう。(大谷『日記p.37』
 
彼女は私に尋ねた、あなたはもう決して結婚しないつもりですかと。私は答えた、そう十年間は、しかしもし私の気分が静まった時には、若返るために若い血潮のお嬢さんを得なければならないと。どうすることも出来ない残酷さ。それから彼女は言った、私があなたにしたことを許して下さいと。私は答えた、それは私が云わねばならないことですと。彼女は言った、私のことを考えると約束して下さいと。私はそうした。彼女は言った、接吻して下さいと。わたしはそうした――けれど情熱は無しに。おお可哀想に。(大谷『許嫁への手紙』p.214)
 
1841年の日記より(婚約破棄前)
君(訳者注:スレーゲルのことか)は、「彼女美しかった」という。おお、がそれについて何を知っていよう。私はそれを知っているのだ、なぜならこの美しさのためには私の涙がたくさん流されたのだ――彼女を飾るために私は自ら花を買った、私はこの世にあらん限りの飾りをみな彼女に着けようとすらした、もちろんそれはただ彼女の優美さを際立たせるの役立つと思われる限りでであるが――そして彼女が盛装を着け颯爽と立った時に――その時私は出ていかねばならなかった――彼女の心から楽しそうな、活気のある喜びに溢れた眼差しが私の視線に出会った時に――その時私は出て行かねばならなかった――その時私は外へ出て、そしてさめざめと泣いた。(大谷『日記』,pp.22,23)
 
10月25日~翌年3月6日 第1回ベルリン旅行
 
1843(キルケゴール30歳、レギーネ20歳)
4月16日 復活祭の日、フルーエ教会にてレギーネの会釈を受ける。
 
彼女は二度頷いた。私は頭を振った。それは、お前は私を棄てなければならない、という意味だった。すると彼女は再び頷いた、それで私は出来るだけ親しく頷いた。それは、お前は私の愛を保持している、という意味だった。(大谷『許嫁への手紙』p.219)
 
5月8日~5月30日 第2回ベルリン旅行。
7月 レギーネとスレーゲルの婚約。
10月16日 『おそれとおののき、弁証法的抒情詩』と
『反復、実験心理学の試み』同時出版。
 
1847(キルケゴール34歳、レギーネ24歳)
11月3日 レギーネとスレーゲルの結婚式。
 
1849(キルケゴール36歳、レギーネ26歳)
7月26日 レギーネの父、亡くなる。
 
11月21日 「<彼女>に関する最後の処置」と題される日記を書く。
私の死後、著作は彼女と私の亡父に捧げられるべきだという私の意志は変わらない。彼女を歴史に属させる。(大谷『許嫁への手紙』p.240)
 
上の文章に関する訳者の見解
「…ここに最後の意志表示をなして彼女を『飾り』歴史的な盛装を装わしたものと言える。1849年と云えば、彼の主著の大部分は既にこの世に出で、立派に式場長の資格を名実共に自認出来たのである。」(同上p.241)
 
1855(キルケゴール43歳、レギーネ33歳)
11月11日 キルケゴール死去。
 
1896
6月18日 フレデリク・スレーゲル死去。
 
1904
3月 82歳にて、レギーネ・スレーゲル夫人死去。
 


あとがき

もうひとつのほうも含めて、
本当はもう少しフォントなどにも気を遣っていたんです。
見栄えよくしようと頑張ってたんです。
でも実際こっちにのせると、
見分けがつかなかったり、
うまく表示されなかったりで、
もうトラブルだらけなんです。

それからルビなんかもふってたんですけど
なんか勝手にカッコつきにされてたんです。
やむなくこちらでは消すことになりました。

ブログの体裁ももっといろいろ
出来るようになればいいのにと思う一方、
わざわざブログでそこまでやろうとする人は、
あまりいないのだろうなあと思ったり。

キルケゴール@病院

1855年10月2日路上に倒れ、フレデリク病院に収容される。
親友で牧師のエミール・ベーセン(Emil Boesen 1812-1881)と病院で会話。
E(Emil),S(Søren)
 
E「どうだい?」

S「普通だ。私は死ぬだろう。
死がすぐに来て、そして安らかなように、私のために祈ってくれ。
私は気が滅入っている。
私もパウロが持っていたように、身体の中に刺を持っている。
私は一般の関係に入る事ができず、
自分が特別な使命を持った存在だと気付いた。
以来私は出来る限りその使命を全うしようと試みたのだ。
私は摂理にもてあそばれた。
私はいろいろなものを捨てなければならなかった。
レギーネも。
彼女がスレーゲルを得たのは正しかった。
彼女とスレーゲルはもともと結ばれていたのであって、
私が後から入って妨害したのだ。
彼女は私のせいで大そう苦しむことになった。」
(彼[キルケゴール]は彼女について非常に愛情深く、
また憂愁に満ちて語った。)
 
E「ところで君は自分の書いたものをどうするかちゃんと決めているのか?」
 
S「いや、なるようになるだろう。
神の御心次第だ。
それに私はもう財政的に破たんしていて何も持っていない。
あとはただ埋葬してもらえるだけしか残っていない。
私には最初はいくらか財産があった。
ある程度はもつだろうと思った。
10年か20年か。
結局17年だった。
大したことだった。
私は職を求めることはできた。
やろうと思えば、牧師にもなれたろう。
だがそれはできなかったのだ。
そう決められていたのだ。」
 
看護婦長のフィビゲル嬢が彼に花を贈っていたが、
彼はそれを引き出しの中に仕舞わせていた。
 
S「医者たちには私の病気はわからないのだ。
私の病気は心理的なものだが、
彼らは普通の患者に対するようなやり方で診ようとする。
 
具合が悪い。すぐよくなるように私のために祈ってくれ。」
 
彼はフィビゲル嬢が贈った花の方を見た。
けれど水に漬けさせようとはしなかった。
 
S「花が咲き、匂い、枯れるのは、それは花の運命だ。」
 
続けて彼は言った。
もし自分が生きねばならぬという信念を獲得できるなら、
実際そうなったろう。
一杯の水を飲み、靴をはくなら、自分は歩き去って、
病院からすぐに出ていっただろう。
だが、生涯を例外者として過ごしたならば、
普遍的な定めに従って死ぬのは、
当然で順序正しいことだ。と。
 
木曜日、彼は衰弱していた。
頭をうなだれて、両手を震わせ、まどろみに落ちていた。
咳が彼を起こした。
 
彼が安らかに神に祈れるかどうかを尋ねた。
 
S「それは出来る。」
 
さらに何か言いたいことはないかどうか尋ねた。
 
S「何もない。
そうだ、みんなによろしく言ってくれ。
私は彼らみんな好きだったのだ。
そして彼らに言ってくれ。
私の生涯は他人には理解できないような大きな苦悩なのだ。
すべてが誇りと虚栄に見えたろうが、そうではなかったのだ。
私は他人より善良ではなかった。
私は身体の中には刺があった。
だから私は結婚も、就職もできなかったのだ。
その代わりに私は例外者となったのだ。
昼間は仕事と緊張に暮れ、夜は脇に取り残された。
それが例外者というものだった!」
 
安らかに祈ることができるかと訊いたとき、
 
S「うんそれは出来る。
まず私は罪の赦しについて、何もかもが赦されますようにと祈る。
次に死に際に絶望に陥りませんようにと祈る。
そしてよく心に浮かぶ言葉は、
死が神の意に満ちますようにということだ。
さらに私の大変知りたいこと、
つまり死がいつ来るか少し前以て知れますように、と祈る。」
 
その日は天気が良かった。
 
E「君がそこに座ってそんな風に話していると、
君はとてもすがすがしく見えて、
まるで起き上がって私と一緒に外出しようとしているかのようだ。」
 
S「そうだ、ただ一つのことだけが邪魔になる。
つまり実際には私の身体はもう行くことが出来ないということだけが」
 
ミュンスターについて。
 
S「君はミュンスターがどんな有害植物だったかちっとも分かっていない。
どんなに広く害を及ぼしたかを君はちっとも分かっていない。
彼は巨人だった。
彼を倒すには強い力が必要だった。
そしてそれをやった者は攻撃されねばならなかったのだ。
私は喜んで死にたいと思う。
私は自分の使命が解かれたのを確信する。
生者の言葉より、死者の言葉の方が
むしろ聞きたいと願う人がよくいるものだ。」
 
E「私は君にもう少し生きてほしいと思う。
君は大変強かったし、何かなすところのものがあった。
君にはまだ言うべきことが残っているに違いないと私は思う。」
 
S「そうだ、もしそうなら私は死ぬこともあるまい。
私は意義深い、非常に困難な課題を持っていたと思う。
君は私がキリスト教の核心から
物を眺めたのだということを注意しなければならない。
 
――君は私と知り合いだったせいで、
ずいぶんとひどい目に遭っただろうね?」
 
E「うん、でも君との関係について、
人には立ち入って話すことはなかったし、
もし相手がそのことを知ってても、
その関係は尊敬されたよ。」
 
S「そうかい?
そうだったのか。
――君が来てくれたことはうれしい、ありがとう!」
 
19日金曜日。
彼は私が来るまでに2,3時間眠っていた。
そして機嫌が良かった。
彼の兄が来ていたが、入る事は許されなかった。
 
セーレンは言った。
彼は言葉では止められない。
ただ行動によって止められるだけだ。
だから私は行動によったのだ、と。
 
E「君は聖餐礼は受けようと思わないのか?」
(聖餐…パンとブドウ酒のあれだよ。詳しくはググれ。)
 
S「受ける。
だが牧師からではなく、ただの信徒からだ。」
 
E「それは難しい。」
 
S「なら受けずに私は死ぬ。」
 
E「それは正しくない!」
 
S「正しいかどうかで議論するわけにはいかない。
私はもう決めたのだ、自分で選択したのだ。
牧師たちは国家の官吏だ。
国家の官吏はキリスト教には関係ない。」
 
E「それだって本当のことじゃない。
真理と現実にだって一致してない。
正しくないよ。」
 
S「そう、君わかるかい、
神が君主なのだ。
ところがその統治から離れ、
楽な方へ逃げようとする人間がたくさんいるのだ。
そして今やキリスト教はこのような人々のために存在するのだ。
そこに1000人もの牧師が居座り、
国中の誰も、そのような牧師たちに属することなくして
神聖な死を与えられないこととなるのだ。
かくして牧師達は君主となり、
神の君主権は失われる。
だが人は全ての事において神に従うべきなのだ。」
 
そう言って、彼の身体がくずおれた。
声が弱くなり、疲れたようなので、私は去った。
 
心配だった。
もし彼が本当に平信徒に頼んだらどうしよう。
面倒な誤解を受けかねない。
つまり平の信徒が、
牧師でないという理由だけで善良なキリスト者だということになる。
困った。
 
20日、二人の看護婦が彼を一つのイスからほかのイスに移していた。
彼は全く力がなかった。
私はたのまれて、彼の頭を支えていた。
去りがけに、明日また来るよと言った。
 
S「うん、すまないね。
だが誰も知っている者はいない。
そして我々はお互いすぐにでも、さよならが言える。」
 
E「どうか君に祝福がありますように。
いろいろとありがとう!」
 
S「さよなら、ありがとう。
君が私と知り合ったために、
しなくてもよかった面倒事に陥ったことを許してくれ。」
 
E「さよなら、では我らの主が君を召し給うまで、
神の平安の内にそうして居給え、さよなら!」
 
21日。
私は少しだけ彼のそばにいた。
彼は言った、今は折りが悪い、と。
彼はマルテンセンについて語った。
 
22日。
E「もう少し窓から外を眺められるような姿勢にすればいいのに。
庭が見られるよ。」
 
S「そんな風に自分を欺いてみても、何の役に立とう。
苦しむことが必要なのだ。
そのようなことを考えて、見るのはただ拷問にしかならない。
苦しまねばならぬ時には、苦しむべきだ。」
 
23日。
E「なんてきれいな花だろう!」
 
S「そうだ、それは自分の力を超えている。
しかしそれは当人(花?)の努力にもよっているのだ。」
 
25日。
E「君の兄のペーターがそこに来ていたよ。」
 
S「私が彼を迎えないということはよく知らせてある。
人々はもちろん怒っているだろう?」
 
E「いやそうは言えない。
彼ら(牧師達)は、深い同情をもって君のことを考えている。
でも驚くに値しない。
実際何もかも自衛なのだから。
そして私たちはみんな結局自衛しないといけないんだ。
だから彼らもやはり同情的な関心で、君のことを考えている。」
 
S「君はただこの世的なもののことばかりを思うが、
天のことには少しも思わない。」
 
E「いやそうじゃない。
でも彼らがそんな風に語るのは、
彼らが自分たちの意見を正しいと思い、
君が既成のものへあんな攻撃をやったのは、
正しくないと信じているからで、
浄福への道は現にある既成のものを通じてでも
やっぱり行けると信じているんだ。」
 
S「私はそれについて語る事に耐えられない。
それは私を非常に緊張させる。」
 
E「君の以前の寝室は空気が悪かったのか?」
 
S「そうだ、そのことを考えると恐ろしく腹が立つ。
私は既にそれに気づいていたのだ。」
 
E「なぜ君は引っ越さなかったの?」
 
S「私はあまりに緊張しすぎていて、
そこまで考えられなかったのだ。
私には発行されることになっている『瞬間』がまだ2,3号ある。
そしてそのために使う予定の2、300ダーレルが残っている。
だから私は全てをとっておいて私自身のために使うこともできるし、
あるいは全てそのままにして自分は滅びてしまうかだ。
そして私が後者を選んだのは正しかった。」
 
E「君の希望しただけの『瞬間』はみんな発行したのかい?」
 
S「そうだ!」
 
E「しかし君の生涯には何とたくさんのことが不思議に起こったことだろう。」
 
S「そうだ、私はそのことが非常にうれしい。
そしてまた非常に悲しい。
というのは、私は喜びを誰とも分かつことが出来ないから。」
 
26日。
彼は病室で看護婦たちを離さなかった。
そしてずっと世間話を交わし続けていた。
 
27日。
彼は頭を垂れて、疲れを感じていた。
 
E「そういえば君は私のところへ来てくれたことがなかったね。」
(ホルセンスでエミールは牧師をやっていた。)
 
S「うん、どうして私にそんな余裕なんてあっただろう!」
 
私が最後に彼を見舞ったときには、
彼は横たわっていた。
そしてほとんど口がきけなかった。
私は出て行った。
それからすぐ、彼は亡くなった。
 
1855年11月11日。
セーレン・キルケゴールは43歳で亡くなった。
彼の兄は興奮した大群衆を前に、
マリア教会にて弔辞を述べた。
 
彼の墓には、彼の希望によって、

ブロルソン(Hans Adolf Brorson1694-1764)の詩の次のような一節が刻まれている。

 
今しばしの時あらば、
勝利は()くわがもの、
たたかいはなべて
その時()け失せなん。
そはわが力蘇る時
生命(いのち)の小川のほとりて、
して永遠(とわ)に、永遠(とわ)
イエスと語り得ん。




 

いやあ感動的でしたねえ。
この文章は、大谷『日記』1949,p.306-318からの
引用かつ脚色めいたものです。

あんまり褒められた行動ではないような気もしますが、
彼の死に際の資料はあんまり日本語で出てないし、
のせておきましょう。

ここには彼の思想家としてのエッセンスのようなものが、
ばしばしと出てきていると思うのです。

たとえば彼の単独者、例外者としての生活については、
よくわかる表現になっていると思います。
分かるというより、感じることができるといったところでしょうか。

ところで少し分かりにくいかもしれないところについて、
ちょっとだけ解説しておきたいのですが、
キルケゴールが聖餐は受けねえ、と言うところです。

エミールが真理と現実に一致しないとか言ってます。
なんのこっちゃという感じですが、
要するに、キルケゴールの言う真理的なもの、
真のキリスト者として必要だろうということであり、
かつ実際、現実においてキリスト教徒はみんな聖餐受けるんだから、
あんたが受けないのはいかんだろ、
みたいなことなんじゃないかと思います。

私の勝手な解釈ですから、
正しいかどうかは分からないんですけどね。
この部分に限らず、何かほかの解釈があれば
教えてもらいたいです。
                            
ある人が意見をくれましたっ

エミールは友達だけど、いまいち思想的なことはよくわかってないようで、真理と一致しない、っていうのは、真理じゃないってことで、間違いだ、ってことで、現実と一致しない、っていうのは、通常人々がやってるのと違うってことで、これまたおかしいぞ、ってことだろうと思います。ぜんぜんキルケゴールの考え方に理解がないエミールさんのようです。(太字は私がやりました。)


エミールくんは理解がないので、
特に何かひねりがあるわけでもなく、
ただおかしいとしか言ってなかったってことですね。

レギーネと別れた直後、
キルケゴールはベルリンに行きましたけど、
その間ずっとエミールとは文通してたんですよね。
ただそこでも、キルケゴールは、
自分の考えが理解してもらえてない、
と何度も書いて出してるんですよね(笑)

ただ、キルケゴール→エミールの手紙しか
知らないんで、どう誤解してたのか、
いや実はそうではなく、
キルケゴールがそう言い張ってただけだったり、
なんてことを考えてみたりして。
                            
あと牧師たちが君のこと心配してるよ以下、
寝室がどうのこうのってところまで、
ここは私にもちょっとよくわからなかったです。

牧師の心配に関しては、キルケゴールを心配して、
自分が善い人間であると、神に見せつけてるつもり?
という感じで、書いてみました。
「自衛」ってのはそういうことです。

「既成のもの」というのはすでに現実にあるもの。
教会とか、教会の教義とかかなあ。
そしてそれに捉われているもの。
牧師たちはそういうものに従っていれば、
浄福の道へ行けると考えていたんですよね。

キルケゴールは色々な意味で、
コペンハーゲンの町では有名人でした。
著作家としての名声もあり、
コルサールを潰したのもすごいし、
教会との戦いもそりゃ勇敢だった。
(教会相手にしてるから、牧師は敵ですよね。)
まあレギーネ事件も知れ渡ってるから、
どう有名だったのやら…変人?

かんわきゅーだい
その後の「緊張」って言葉は何か意味があるんだろうか。
空気が悪いとかも、そのまんま?
よく分りません。

とりあえずこんな感じで、以上です。

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bq69pd

Author:bq69pd
バイクや車でドライブしたり、電車や飛行機で旅したりします。忙しいからブログさぼってもいいよね?

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